新型インフルエンザが不気味である。テレビでもかなり取り上げられているが、ほとんどの人はその何たるかを理解していないように見える。
124赤玉新型インフルエンザをおこす未知のウイルスに対して人類は誰も抗体を持っていない。未知のウイルスであるため、勿論ワクチンは作りようもない。
経済危機と「あっ!そうぅ」総理大臣の話題だけが取り上げられ、温暖化対策も影が薄いが、多くの人の命に関わる新型インフルエンザはもっと重視すべきであると思う。
今回の新型インフルエンザによりパンデミック(爆発的な感染拡大)が起こることは間違いないと言われている。致死量が異常に高い新型インフルエンザであれば事態は至って重要であるはずだ。
この国の政治は票と金になる道路は何兆でもで気前よく使うが、命や社会維持の根源である医療や教育に関しては大して興味がないように感じる。また国民のしもべたる行政も、縦割りの硬直したシステムの中に甘んじ、国民が快適な生活と国の維持のために出資した税金を適当にもてあそんでいる現状がある。国の無策が生んだ昨今の医師不足、それによる診療拒否の現実、あらゆる見通しを立てられないための無駄な税金浪費を見ていると、とても新型ウイルスによるパンデミックに耐えられるような対策を立てる能力があるとは思えない。
ある番組で、パンデミックに備えてニューヨーク市では、毎年850台の人工呼吸器を備蓄しているということであった。
124冬桜医師がいない、ベットが無いというこの国で、今一台でも余分な人工呼吸器があるんだろうか。パンデミックなんて言うのは夢のまた夢の世界とでも思っているんではないだろうか。
道路財源のほんの一部を使うだけでかなりの対策が立てられると思うが、税金を払っているにもかかわらず、この国に安心を任せとくわけにはいかないとは何とも情けない。
何しろ、満州へ送り込んでおきながら、人々を平気置き去りにしたり、徴兵した人たちを虫けらの様に扱った実績のある国である。
パンデミックとなるとその結果をいくら追求しても後の祭りである。何しろ税金は好き勝手に使うが、責任という言葉が存在しないような組織に命の全てを任すわけにはいかないからだ。
そんな訳でイゼナではささやかではあるが、できる限り自己防衛策を立てることにした。 
何しろ超少数精鋭のイゼナにとって、1人でも欠けることは会社にとって致命傷になってしまう。
対策に対する考え方は、先ず当然だがウイルスを体に入れないことが第一である。
次に感染してしまった時の対策を考えなくてはならない。
ウイルスを体に入れないためにはウイルスが有りそうな所には行かないことが基本であり、最良の策は家の外に出ないことである。その場合、外部の人が入らないようにすることは当然である。
宅急便などの人たちには申し訳ないが、接触しないようにして受け取る必要がある。
万が一を考え、同時に室内空気の除菌も必要である。
また、どうしても外に出なければならない時は、N95マスクにゴーグルをすることが望ましいが、ゴーグルをして外出するにはかなり勇気がいりそうだ。帰った時は頭のてっぺんからつま先までクレベリンを噴霧して殺菌することにしてある。もちろんイソジンなどによるうがいと、除菌洗剤による手洗いは欠かせない。
124黄葉しかし、パンデミックが起こったとしても100%の人がかかるわけではない。何の対策を立てなくてもかからない人はかからないし、かかっても大したことがなく済んでしまう人もいるだろう。要は、体質と体力に基づく運であると思う。
いくら対策を立てたところで完全な保証が得られるわけでもない。
しかし、自分の今までのインフルエンザに対する病歴を考えると決して強い体質ではないし、二人とも体力が落ちている年である。
それに、もうすぐ五歳と生まれたばかりの五ヶ月の孫は、何としても死なすわけにはいかない。
先ずは、できうる限りのベストを尽くすしかない。それでもだめなら致し方がないが、後悔だけはしたくないと思っている。
多分、これから発生するだろう新型インフルエンザは64年間の人生の中で最大の危機だろう。
無策の結果を運命と言うより、策を立てた上で運を天に任せる選択をしたい。

京都会議により2008〜2012年までの期間中に、温室効果ガス6種の合計排出量を1990年に比べて日本は6%削減するという京都議定書が作られた。
しかし、ただそういう文字が躍っていてもピンとこないし、第一この数字だけでは普段の生活の中でどれだけ減らせばよいかさっぱり分からない。
1127モミジその為、京都議定書の約束を達成するためにはどのくらいの努力が必要なのか、全てを車の走行距離に置き換えた場合と、石油電力使用量に置き換えた場合を計算してみた。
日本の1990年の排出量は11億4400万トンであり、1人あたりは約9.3トンである。
2006年は13億4000万トンであり、1人あたりは約11.2トンとなった。
京都議定書を実行するとすれば、11億4400万トンの6%にあたる6864万トンを削減した約10億7500万トン、1人あたり8.7トンにしなければならない(日本はこの排出量範囲で生活するということ)。
しかし、減るどころか2006年は13億4000万トンに成り、その差は2億6500万トンに成ってしまった。
1人あたりに直すと11.2トンー8.7トンでに、その差は2.5トン=2500Kg以上のCO2を一年間で減らさなければならない(直接、間接排出量を含む)。
この数値を車の排気ガスで換算すると、例えばリッター10Kmだとすると1Kmあたり0.231KgのCO2が排出される。
そうすると2500KgのCO2分は10800Km分相当になる。つまり車の走行距離だけで京都議定書を達成するには、一年間で10800Kmを倹約しなければならない。普通の家庭で言えばほとんど車に乗れないことになる。
1127サザンカ電力で検討すると、何の燃料で発電したかによって違ってくるのだが、例えば石油火力で発電した場合は1Kwhで約742gのCO2が排出される。
これで計算してみると約3300Kwh分を一年間で削減する必要になる。普通の家庭でいえばほとんど電力が使えないということになってしまう。
この車の例は1億2000万人全員が車を持っていて10800Km分の走行を削減するということである。電力の場合は同じように乳幼児から寝たきりの老人まで含めた1億2000万人全員が3300Kwh分を一年間でカットするということであるから厳しい数値である。
しかし、もしこれだけの量を削減できたとしても、CO2が減るわけではなく、温暖化が先送りされたに過ぎないのだから事は何ともたいへんなことである。
世の中ではいとも軽々しく「ー6%」などと言っているが、こういう数字の現実をもう少し理解すべきだろう。
京都議定書の約束を守ると言うことは1億2000万人全員がほとんど車に乗れないことであり、ほとんど電力を使えないことと同じなのだ。それくらい削減する必要がある(但し、現実には車に乗れないわけではないし、電力が使えなくなるわけではない)。
そうしなければCO2の排出量を10億7500万トンにすることなどはできない。
「ー6%」は単なる流行語調子でカタログに載せたり、ホームページに書き込んだりすべき言葉ではないのだ。
個人の生活の中でCO2を削減する方法は、勿論以前からいろいろなことが言われ実行されているが、実は「ー6%」とどう結びつくのか実感としてよく分かっていないのだと思う。
京都議定書を遵守するためには、生活における明確な目標値ぐらいははっきりさせる必要があるだろう(少なくとも生活の暖冷房、給湯のエネルギー消費量ぐらいは明確にすべきでは無かろうか)。
そうじゃないと本気でCO2を削減しようなどという動きにはならない。
1127紅葉1850年以降増加傾向を示している大気中のCO2量は1950年前後からは、指数関数的な急速な伸びになっている。にもかかわらず、個人のレベルから見ていると、その実感をつかむことは難しい。
大気中のCO2量がいくら増えても空の色が変わるわけではないからだ。CO2の増加グラフを見て想像力を働かせるしかないのだ。
いずれにしても、「ー6%」を実感して実行に結びつけるのは難しいことである。
本当は、何%減らせば地球環境にダメージを与えず、これからも快適な生活が継続できるのかよく分からない。
それならいっそのこと排出量の目標値をゼロにすればよいのではないだろうか。
ゼロを目指すというのは、つまり太陽エネルギーに頼る新しい文明に作り直そうよ、と言うことである(そうすれば莫大な新しいビジネスチャンスが生まれる)。
あーでもない、こーでもないとつまらない議論をしている内に時機を逸してしまっては元も子もない。
たとえ、CO2が激増しても大した温暖化にならなかったとしても、つまり予想が外れても、CO2が充満した自然より、そうでない環境の方が住まいやすいことは間違いないだろう。
第一、化石エネルギーが枯渇したとき、太陽エネルギーに頼らない文明を探してみても見つからないだろう。
地球環境のバランスが崩れることがどういう事なのか私たちは未だに経験したことがない。
その為、大部分の人はそれを想像することもできないし、自分の生活がどうなるのか考えることもできないでいるのだろ。
それならいっそのことCO2ゼロを目指すことが手っ取り早いのではないだろうか。


外でトイレにはいると相変わらず手ふきペーパーやエアタオルが取り付けてあることに出っくわす。
それらは経済発展と過剰サービスの申し子としていわば常識化している。
しかし、今時こんな物が常識化されていていいのだろうかといつも思ってしまう。
たかがたった一枚のハンカチをポケットから出せばすむことである。
1122紅葉それをわざわざ手を拭くためだけで捨てる紙を置いておいたり、電気エネルギーでヒーターを発熱させ、モーターで風を起こし手の水気を飛ばすなんていうのは至っておかしいと思う。
まあ、いずれもサービスのつもりなんだろうが、そんなことがどうしてサービスといえるんだろうか。
サービスと言うより、単なるエネルギーの浪費に過ぎないし、同時に、社会のモラル破壊やマナー衰退を生み出す原点の一つになるように思う。
また、これらの物は衛生的という観点から見ても、きれいな自分のハンカチと比べて、特別その存在価値があるわけではない。
もしそれを考えるなら、自動水栓や入り口のドアを全自動にすべきことが先だろう(またはドアを無くすべきだろう)。
いずれにしても出る時にドアの取っ手に触るのは余り良い気分ではないし、洗うべき手で触った蛇口のレバーをまた触って閉めるのは何とも矛盾した操作である。
手ふきペーパーやエアタオルを使うことは、どう考えても単なるエネルギーと資源の浪費(手ふきペーパーは再生紙だろうが、軽く捨て去る精神が全ての浪費を生む)としか思えない。
1122赤葉エネルギーがいくらでも金で買える時代の価値基準を引きずっている無駄遣いである。
手ふきペーパーは一枚でいいのに(本当はゼロ枚)自分の腹が痛まないからだろう、いっぺんに二枚も三枚も使う人がいる。
ただとなると必要以上に浪費する行動は何とも浅ましく、みっともない。
手ふきペーパーの使い方を見ていると人間の素性がよく見えてくる。
エアタオルで時間を掛けてじっくり乾かしている人も見かける。エネルギーの無駄使いもさることながら、だいいち音がうるさい。
ハンケチ一枚をポケットから出すだけで済むことなのに何とももったいないことだと思う。
まして手ふきペーパーやエアタオルを使ったところで、特別自分が人間として進化できるわけでもない。
今は、近年(エネルギーが金でいくらでも買える時代)常識化したことを、全てもう一度見直すべき時代である。
ハンカチを持つことは社会人としてのマナーの原点の一つであるし、身だしなみの一つであるはずだ。
そういう少し前の古くさい常識をもう一度きちんと再認識すべきである。
浪費する事が贅沢感などという時代はなんとしても終わらせるべきだと思う。
そんな感じを味わっている内に、それを支えている地球環境が破壊されてしまっては、まさに元も子もなくなってしまう。
ハンカチを自分のポケットから出さないで済ますことは、贅沢などということでなく単に「軽薄」に過ぎないということだと思う。
おみくじ手ふきペーパーもエアタオルも単に商売のために思いついた物に過ぎないのだろう。
先のことを考えず自分の都合の良いように考えて、思いついたことで行動するのが人間である。
そのことの繰り返しが社会の進化も生み出したのであろうが、それがまたCO2問題、温暖化問題、資源問題、環境破壊の問題、等々切りが無いほどの問題も生み出してきた。
これらは全て手ふきペーパーやエアタオルを作り出した動機とそれを使う心が作り出したものであると思う。
環境、資源のこと、未来のことを無視し、自分の商売のために今だけしか見ない発想がもたらしたものである。
環境、資源、未来を無視したサービスなど本来はあり得ないことである。
こういう行動をとるということは人間の人間たる証の一つなのであろうが、もうそろそろ未来を見つめる意志を持って、その証を変えるべきではないのだろうか。
意志を持って自分を変えられるのもまた人間の大きな証と思うのだが・・・・



45年ぶりに皇海山に行った。皇海山は群馬県と栃木県の県境にあり、中禅寺湖から南西に10Kmほどのところである。
なぜ今頃突然、皇海山かというと、いつか孫とテントを持って山へ行くことを夢の一つにしているため、毎月「山と渓谷」と「岳人」を取っている(本を見ているから山へ行けるわけではないことは十分わかっている)。
その中で「皇海山ツアー」というのを見つけた。
1118紅葉皇海山は45年前の昭和39年に一度チャレンジして失敗した経験がある。19才の夏である。中学、高校と一緒だったN君と二人で行った。
しかし、なぜあの時、皇海山をわざわざ選んだのか全く思い出せない。当時からメジャーなものに対してはそっぽを向く性格があったのでそれが出たのかもしれない。
当時の写真(今回のブログのモノクロの写真はその時の物である)はアルバムに残っているが、日付が入っていないので、いつ行ったのか正確にはわからない。
スカイ東武線で相生まで行き、そこから足尾線、今のわたらせ渓谷鉄道の原向で降りた。そこから庚申山荘まで暑い中を歩いたことを憶えている。今なら山の麓まで車で入るのだろうが当時は歩くしかなかった。写真を見るとニッカボッカにベロの付いた皮の登山靴、それにキスリングという出で立ちである。
翌日、庚申山に登り、鋸連峰を越えて鋸山へ、そこから皇海山を往復しするつもりであったが、それができず六林班峠から山荘まで戻った。
途中で会うのは猿と鹿ばかり、三日間で登山者には一人も会わなかった。
今回のツアーは、チャンスがあればまた皇海山へ行こうと狙っていたからではなく、全く偶然に見つけたものだ。
ツアーという人が作った計画で行動することは以前から自分の趣味ではないのだが、ツアー登山がどういうものか知りたかったことと、どんな人たちが参加しているのかにも興味があったため参加を決めた。
ツアーでなければ一生(残り時間が少ないので最近は特にそう思う)皇海山には行かれないかなとも思った。
N君出発の前日、ツアー主催の会社から電話があり、非常に冷えると思われるので軽アイゼンを持ってくるようにということであった。学生時代に使った10本爪のアイゼンは持っているが、軽アイゼンは持っていなかったので、出発当日に神保町の行きつけのスポーツ店に立ち寄り購入した。ついでにダウンのインナーパンツも買った。これで中間着用のダウンの上下がそろい、ゴアテックスの雨具の上下とで、寒さ対策はまあまあ万全になった。勿論下着の上下も透湿性能の高い物を着用した。
参加者は男性5名、女性8名の13名、若い山岳ガイドの女性とサブの若い男性の計15名のチームであった。参加者の内訳は、三十代の女性が一人いたが、残りは全員六十過ぎというジジババ隊だった。
この中にいわゆる初心者はいなかった。強いて言えば40年ばかりブランクのあった私がもっとも初心者であっただろう。
久し振りな為、かなりきつい登りと感じたたが、一言も弱音を吐く人はいなかったのには少々びっくりした。
庚申山山頂の気温は3度とさすがに低かったが、ダウンジャケットとその上にゴアの雨具を着込んだので何ともなかった。汗もびっしょりかいたが、高機能の下着のお陰で寒さ知らずですんだ。吸汗速乾下着といい、超軽量ダウンジャケットとといい、ゴアテックスの雨具といい、40年前に比べて比べものにならないくらいの進化を実感した。また、何年か前にストックを使う山登りの仕方を知ってこれもびっくりした。社会へ出てオートキャンプに明け暮れている内に登山社会が急速に進化したことを強く感じた。
登山の代名詞の一つだったキスリングはもうないし、ピッケルの柄も木製からアルミに変わったし、鍋も食器もチタンになったし、ヘッドランプはLEDになり軽量化した上に電池の消耗が激減した。バーナーも超コンパクト、超軽量になった。
登り初めは体力に多少不安はあったが、下る頃はだいぶ慣れ、バランスも良くなり、ストックは使わず無事に下山することができた。
しかし、45年前に予定通り皇海山を目指していたら、明るいうちには帰れず、ビバークの用意もしていなかったのでどうなっていたんだろうか、と考えさせられた。
あの時、皇海山をあきらめて戻ったことが正しかったことが今になって分かった。
途中着る物を含めた登山用品の目を見張るような進化は、体力が低下しつつある年配者の登山をも楽しいものにしてくれたのだろう。軽量化とコンパクト化により、より多くの荷物を背負えるようになり、より高く、より遠くへと登山の可能性を広げてくれたのだろう。
歩く機能を拡大してくれる進化は人類のプラスになる進化だと思うが、車やゲーム機など動かないですませる為の進化は、人類を破滅の方向に向かわせるものではないだろうか。
今回のツアー登山はまた山へ行くきっかけを作ってくれたのかもしれない。

フランスでは燃費の良い車を買うと18万円ばかりボーナスがでて、燃費の悪いとペナルティーが課せられると電車の中のニュースで見た。
なんでヨーロッパの国々では温暖化対策としてこのような具体策が出てくるのだろう。
この国から見ていると全く不思議な現象である。
木黄色それに比べ、この国は未来に対する理念も戦略も感じられない中で2兆円をばらまくのだそうだ。
まあ、60兆円も道路だけにつぎ込むという太っ腹な国だから2兆円程度は大したことではないのかもしれない。
一人12000円、65才以上はプラス8000円だそうだ。「ちりも積もれば山となる」の全く逆の「山も崩せばちりになる」である。
2兆円をまとめて社会のインフラに使えば新しい未来へのスタートができたと思うのだが、自分の金でないものだから平気でばらまいてしまうとは、頭の中がどうなっているんだろうか・・・・
キング牧師の番組を見た。彼の人種差別をなくそうという正義に対する意志の強さ、行動力の凄さもさることながら、その行動に対して答えたケネディーという政治家の政治家らしさも凄いものがあったと思う。
紅葉1116それに引き替えこの国の政治屋は2兆円をばらまくというのである。開いた口がふさがらないどころかあごの骨が外れてしまう。
2兆円をばらまく事が本気で良い政治だと思っているんだろうか。こんな事をしているのにこんな政治グループを支える選挙民がいるんだから二度びっくりである。
2兆円あれば近い未来にもっと投資すべきではないのか。少なくとも世界と約束した京都議定書の数値を実現するために使った方が、よほど将来の社会の為、ひいては国民一人一人のためになると思う。
次の世代、その次の世代を見据えた行動こそが政治だと思うのだが、2兆円をばらまくことが政治だと思っているんだろか。
いい年をした政治屋が集まって今時2兆円をどうばらまこうかなど相談している暇があるんですかね。他に時間を使わなければならないことがごまんとあると思うのだが・・・・
「結構この経済危機はいいチャンスかもしれないね、一〜二万円ばかり全員に配れば次の選挙の票集めに絶好だし、その上もしかしたら経済対策の足しになるかもしれないし・・・・」
この2兆円のばらまきが決められる時には、こんな対話があったのではないだろうか。
紫1116鳥インフルエンザ対策に2兆円を使うべきではなかろうか。高々二万円ばかりもらったところで、パンデミック対策が不十分なため家族の一人でも死ぬようなことがあったら取り返しが付かない。
今、流行の診療拒否を見ているとパンデミックに成った時この国はどうなってしまうのだろうかと思う。
2兆円がプラスされれば、もう少しまともな対策を具体的に立てられると思うが・・・・
2兆円ばらまいても一人一人には所詮塵分ぐらいしか回らないのだから、経済効果はほとんど期待できないと思う。
鳥インフルエンザ対策に使えば間違いなく2兆円の効果が出るだろう。
鳥インフルエンザでは65万人が死ぬと言われている。2兆円をばらまかなくともまさか65万人は死なないだろう。
今更道路を作るより、2兆円を経済対策と騙して選挙用でばらまくより、先ずは診断拒否の起こらない医療システムの構築が先だろう。
目先の命対策の方が至って緊急性を要するはずだ。何でこの国はそんな常識が通用しないのだろう。
不思議の国日本・・・・・

以前から昔の日本の家には興味を持っていた。
家というのは必ずその時代その場所で最も快適に作られていただろうからである。
いつの世も快適さを求めない人間はいない。
勿論、設備機器無しでの快適さである。
1111紅葉私は土間のある家に住んだ事がないし、まして茅葺き屋根の家の住み心地は知らない。
そんな訳で、7〜8年前の夏に小金井の茅葺き屋根の家に体験と温度の測定に行った。茅葺き屋根の家がどんな快適さなのか知りたかったからだ。
茅葺き屋根の家は勿論高機密高断熱などではない。それとは全く反対のスカスカツーツーである。冬は勿論床暖房をいくら入れたところで寒くてしょうがないだろうが、夏は快適であることを確認したかった。
やはり意外な結果が出た。厚い茅葺き屋根の裏側の温度が何と外気温より低いのだ。
夏の強い日差しに照らされた屋根の裏側は当然温度が高いはずと思っていた。それが1〜2度低かったのだ。
多分、茅が含んだ大量の水分が強い日差しで蒸発し気化熱を奪っているせいなのだろう。だとしたら、茅は現在に類を見ない優れた屋根材と言える。現在あるどんな屋根材よりも夏の温熱環境に関しては茅の右に出る物はない。
現代の技術を工夫して屋根部の冷却を考えている家もあるが、茅の自然さに比べるととても太刀打ちできないと思う。
また、茅葺き屋根の家は日射が入ってこない。その為に室内は暗い。
現代の夏の日差しカットも考えていないただ明るいだけの家より、よっぽど考えられている暗さである。暗い事はふるい遅れた家だからではなく、快適さを追求した一つの結果の暗さなのである。
1111黄色茅葺き屋根の家には、もう一つ優れた機能を持った部位がある。土間である。土間の表面温度も空気温度よりも2〜3度低い。
このように夏の茅葺き屋根の家は、まさに夏を旨とすべしを実現している。
しかし、夏を旨とすべしと言われる日本の家の基本は、なんと言っても通風であると思う。
風が通り抜け、発汗を加速し、余分な体温を気化熱として発散させることが爽やかさを生み出すのであろう。
それに茅からの気化熱、土間の冷輻射、深い軒と東西側に配置した植え込みによる直射日光などのカットで、更に快適さを作り出している。
通風の利用というのは日本人が何百年も前から利用してきた生活の知恵なのである。
もしそういう伝統を大切にする気持ちが少しでもあったなら、こんな通風を無視した、エアコンがなくては夏が過ごせない家や都市は造らなかったのではないかと思う。
現代においても風を通すということは、かなり以前から多くの人に言われてきたが、エアコンが普及してしまうと、通風で快適さを本気で考える
ことはしぼんでしまったのだろう。
現代文明はエネルギーバブルがもたらしたものである。エネルギーは金でいくらでも簡単に買える物になったため、あえて風を通す形を考えるよりも、最後にエアコンを入れて涼しくできるればそれで良いとなってしまった。
通風とは必ずしも風が通り抜けることではない。
京都の町屋は、中庭で冷やされた空気が揺れ動くことにより、小さな空気の流れを作り出し、涼しさを与えてくれるようである。
このように通風とは風を通り抜けさせる事だけではなく、体に接触している空気が動いてくれるということが大切であると思う。
逆の現象であるが、冬のコールドドラフトは完全に窓が閉まっているにもかかわらず、まるで隙間風が入って来たかのように感じさせられる。これなどはまさに自然の仕組みが空気の流れを作り出した良い例である。
1111赤実さて、茅葺き屋根の家の快適さを作り出す要因の一つである土間の冷輻射機能であるが、いくら効果的と言っても現代の家すべてに土間を作るわけにはいかない。
そこでアクアレイアーを少し冷やして土間もどきができないかと考えた。
アクアレイアーは一般的に居間を中心にした最も広い部屋に設置されることが多いため、そこが多少なりとも冷やされれば、土間もどきになると考えてみた。その為、冷水を流すことをも考えたアルミ伝熱パイプホルダーを開発した(根太間に施工できる最大のパイプ径として13Aを採用した。冷水を流すにしてもできるだけ温度の高い冷水にするためである。ここに使用する冷水は、できれば夜間の放射冷却によるものが望ましいが、深夜電力によるヒートポンプも利用できる。特に最近の床暖房熱源としては深夜電力運転によるヒートポンプが主流に成りつつある。)。
冷水を流したときの最大の問題は結露である。勿論床下に結露を発生させるわけにはいかない。結露を出してまで強引に冷やすことは、今までの発想と何も変わらず、空気を冷やすことが中心になり、部屋を閉じて外気を入れないようにしなければならない。
つまり発汗気化熱を自然にゆだねる分のエネルギーも必要になってしまう。
夏の快適さは、やはり発汗気化熱の利用が主体であるべきと思う(今の社会を作ってしまった後なのでとても通用しない場合の方が多いが)。
その為、家の中に空気の自然な流れを作るべきだと思う。そして直射日光を入れず、冷輻射と夜の放射冷却を利用する家の形が求められるべきだと思う。
そうしないと、この国にとってはお題目に過ぎないマイナス6%が更にお題目になってしまう。
建築に携わる者は面目に掛けても、せめてマイナス6%ぐらいは意識した家を作るべきではなかろうか。

あるブログにアクアレイアーについての事が載っていた。「この床暖房はあまり暖かくない」という事である。
暖房を評価する時によく言われる言い方である。短絡的にすべて暖房のせいにされるのが常である。
これは社会が物事を正確に見抜く力を養ってこなかったことと、何が重要かということを曖昧にしてきたせいであると思う。
黄色115
暖かくないと言われることは、一般的には部屋の気温が余り上がらない時である。
それでは室温が上がらないとはどういう事であろうか。
暖房については以前から何度も述べているように、部屋から外に漏れて行く熱分を補充して、ある一定の室温に保つという簡単な理屈である。
と言う事は、漏れて行く熱に比べて暖房機器から発生する熱量の方が少なければ、いつまでたっても部屋の中に熱は溜まらず、寒い時を過ごさなければ成らなないということになる。暖房が効くか効かないということもこのようにいたって簡単な理由なのである。
にも関わらず、同じ問題が相変わらずいつまでたっても繰り返されている。その場合、いつでも暖房機器が悪者にされるが、暖房機器に責任を押し付けても、実はほとんど何も解決しないのである。
家を設計する時の視点によって、生活の快適さや省エネ性、環境性は大いに異なってしまう事は自明である。
家の暖房環境は暖房設備機器が決めるのではなく、正に家の熱漏れ性能の設計(これからは太陽熱の集熱と蓄熱構造も至って重要)が決めるのである。
(但し、同じ暖房機器である床暖房は、人の体を接触させる暖房機器であるという特殊性の為、室温を暖めるだけの性能だけで判断すべきではない。)
白花115家の熱漏れ性能というのは、断熱性能の事である事は言うまでもない。断熱性能というのは勿論、壁や床や天井の断熱材の事だけではなくガラスの性能、ガラスの大きさ、サッシの性能、窓周りの工夫、空気漏れの性能などにより決まる。
それらがしっかりしていて熱漏れが少ない家であれば、ほんの少しの熱で暖房をする事ができる。
それこそ、生活していれば黙っていても出てくる照明の発熱や冷蔵庫からの発熱、それに人からの発熱だけで暖房をすることも可能になる。
それらの熱の合計が分かれば、それよりも少ない熱漏れの家を作れば(太陽熱の集熱、蓄熱構造も考えればさらに良くなる)、改めて暖房機器を入れなくとも暖かく快適な家を設計する事もできる。
今までの(今でも大部分は)設計の仕方は「エネルギーは金でいくらでも買える物」として、特別注意する事もなく家が設計されてきた。
その為、家の設計の最後になって初めて熱の漏れ具合を計算し、それに合わせて暖房機器を選択する方法を取っている。
熱漏れ量が多ければ多い成りに大きな発熱量の暖房機器を選べば良い、という事が家に対して適切な暖房機器を選ぶ設計だとされてきた。
つまり家の設計は、初めから熱の漏れ具合などは考えていない事が大部分なのである。
特に戦後からの石油エネルギーバブルの考え方がまだ続いているのである。
夕葉これから家を設計するにあたり、太陽熱を含め室内で発生している熱だけで暖房できる家を設計するとなると、構想段階から熱のシミュレーションは欠かせない。
特に床暖房を組み込む場合には早い段階でのシミュレーションは必要である。
床暖房はその設置面積が決まると、その発熱量が決まってしまうという他の暖房機器には無い特性がある。
人が体の一部を接触させるために無闇に温度を上げられないからだ。その為、床暖房の面積が決まると発熱量が決まり、その発熱量の範囲で間に合う熱漏れの家を設計しなければ成らない(それを理解している人はほとんどいない)。

初めに述べた暖かくないと言われた物件に対しては、実は熱が不足している事を前もってお伝えしておいた。しかしそれに対する対策は取ってもらえなかった。
床暖房もそうだが、これからの太陽熱時代にはますます決められたエネルギーで快適な生活ができる家を設計しなければならない。
前もって使用エネルギーの数値目標を決めて設計する手法はこれからますます必要になってくるだろう。
そうなれば今回のように住んでいる人から不満が出る事はなくなるだろう。
早くそうなってほしいものだ。

トイレに入ると自動的にふたが開き、便座が暖かくなり、終わると水が流れてふたが閉まり、脱臭までしてくれる便器がある。おまけに、トイレに入ると照明がつき、出ると消える様になっている。使ってみると至って快適らしい。どうせならドアも自動にすれば、正に何処にもさわらず用が足せることになる。この商品開発時のコンセプトは、トイレに入ってから出てくるまで便器には手を触れず清潔であるということらしい。瓶
人は又一つ、頭と筋肉を使わないで済むようになった。技術もよくもまあ進歩したものだと思う。
人間は益々、何もしないで済むようになり、益々自分の時間が増え、益々自由になっていくのだろうか????
しかし、片や、用のあと、ふたの閉め忘れや照明の消し忘れ、何と水の流し忘れまでが多くなったという声も聞く。
確かに、こんなトイレ環境の生活に馴染んでしまったら、ましてや、生まれた時から子供が馴染んでいたらどういうことになるんだろうか。
自分の意志を働かせなくとも、全てが自動的に動いてくれるとなると、それが最も自然であり常識であると思い、それ以外は全て、つまり自分の意志で自分が操作することは、全て非常識ということになってしまうだろう。
これが本当に社会の進歩なのだろうか。これが本当に人のことを考えた商品なのだろうか。おかしいと思う。これでは生命体としての人間は進化しているのではなく、退化しているとしか言いようがない。
この商品は、便利というより、むしろ人間から自分の意志で判断して行動する自由を奪ってしまう機械である。他人が作った物に操られるための訓練機の様に思う。
どうしてこういう商品が開発されるのだろう。
竹一つは「清潔」という最もらしい理屈が付けられるからである。二つめは単に商品価値を上げるためである。三つめも単なる他社との差別化のためである。四つめは虚栄心をくすぐるためであろう。
こういう商品を開発している企業やそこにいる社員は、人間の未来がどうあれば良いと考えているんだろうか。人間がどうなれば良いと思っているんだろうか。
清潔ということは良いが、機械が全てやってくれる清潔で本当に良いのだろうか。

手が使えないなど身体の不自由な人にとっては、救いの神であろうが、健常者にとっては、生き物としての能力を低下させるだけに過ぎない道具なのではないのだろうか。
脳の機能が退化してゆく方向、つまり進化の逆戻りをして爬虫類の脳に退化させられて行くための道具なのではないのだろうか。目先の快適ささえあれば、それで良いと思っているのだろうか。

こういうトイレがある家庭で育った子供は、そういう機能を持っていない、いわば一般常識的な場所に行った時、勿論、省エネのために自分で照明などは消したりしないだろうし、ふたは閉めないだろうし、当然水も流さないだろう。ましてや後の人に気を利かせて窓を開けることなどしないだろう。正に恥さらし者になってしまう。
全自動トイレは恥をかかせる為の訓練をする道具とも言える。
また、こういうトイレは部品点数も多く、当然製造に掛かるエネルギー消費量も多くなるし、故障率も多くなるだろう。
杉葉もし故障(自動でないトイレに行ったときも同じ)でもしたら、そういう環境で育った子供は、ふたの開くのを今か今かと待っているだけで自分で開けようとしなだろう。そして漏らしちゃうという笑うに笑えぬ話になってしまうかもしれない。
ふたを手で開け用を足した後も、洗ってくれるのを何時までも待っているだろう。そして水を流さず、ふたを閉めず、窓も開けず、照明も消さず文句を言いながら出て行ってしまうだろう。
人間(健常者)にとって全自動便器など必要ない。
トイレへ行く時の全ての動作ぐらいは、自分の意思で確認しながら、自分の手で行うべきである。
便「機」ではなく、便「器」で良いと思う。

人間が人間らしく生きるためには、自分の意志で判断し、自分の意志で行動すべきことは、当たり前中の当たり前であるが、文明は全く逆方向に向かっている様に見える。
全自動トイレは、頭と筋肉を更に使わせないようにし、それらの劣化を促進させる機械であるように思う。
これが文明の進化なのだろうか???
技術の進化とは人間の人間たる尊厳を一つ一つ剥ぎ取ってゆくことなのだろうか???
その究極が温暖化による環境破壊なのだろう。
人間の尊厳をもう少し大切にすべきだろう。

CO2の国内排出権取引方法が決まったらしい。
A首相の発言を聞いて唖然としてしまった。「出来るだけ、多くの企業に参加していただて・・・・」だと・・・。今、誰が首相をやったとしても、未来を予測して、より快適で安全な国造りをするための決断と実行出来る人はいないだろうが・・・・「できるだけ」とはちょっと酷いんじゃないの。筑波山
まあ、この国の国民は浮かれることだけは好きだし、孫の未来より目先の自分達の方が大切に考える種類だから、所詮大した首相は出てこないだろうが、もうちょっと大切な物事はちゃんと決めたって良いんじゃないかと思う。
「できるだけ」とは、「出来なければしょうがない」ということである。
この国は、わざわざ京都でCO2削減の対策を決めて置きながら、決めたことに対して「できるだけ」などという曖昧な言い方はないと思う。
これもまたパブリックサーバントが書いたことを棒読みしただけなのかも知れないが、それにしても「できるだけ」はないだろう。

各企業がCO2の排出を削減するということは、それを無視している諸外国との経済競争において、確かに当面は不利になるだろう。
しかし、それは当面であって、それを言っていたらいつまで経っても事態は悪くなるばかりである。
「やらない人が居るから・・・」なんて子供じみたことを言っている暇はないと思う。
ローズ1023それよりも、それらの状況が新たに自分達に課せられたチャンスと考えるべきである。機先を制した者がいずれ勝つことになる。規制は新しい開発テーマ、新しい商品化テーマを作り出すことになり、まさに新しいビジネスチャンスなのではないだろうか。
それを「できるだけ」などという、現状を変えなくても良いよとも取れる発言は、環境を考えた新しい近未来の競争はやらなくても良いよ、と言っているようなものであり、頭からこれからの経済競争を無視したものだと思う。

CO2削減というのは暇つぶしのお遊びではない。排出権取引などと最もらしいことを言って、経済ごっこをしている場合ではないと思う。
CO2の削減目標というのは、先ず、最終的に地球上に許容できる数値を何とかはじき出すべきだろう。
正確な数値が出ないなら、こうであれば問題が起きないだろうと思われる数値を出せばよい。
つまり今まで通りの風土の中で生活できる数値である。
しかし、数値を出すといっても色々意見があって、そう簡単にはまとまらないだろうが、先ずは国連の最優先課題として取り組むべきである。
数値が決まらなければ国の目標値も決まらない。国が決まらなければ家庭の目標値も決まらない。家庭が決まらなければ個人の排出して良いCO2の量も決まらないことになる。それがないと新しい生活設計が出来ないし、生きて行く方法の新設計が出来ないことになってしまう。
しかし、その間もCO2は加速度的に増え続けているわけだから、数値が決まるのを待つのではなく、それとは別にCO2排出の出さない商品の開発を奨励し、どうせ莫大な無駄使いがあるのだから、それらを投入すべきである。
そういう商品を率先して開発している企業や個人が有利になるような社会気運を醸成すべきである。
そういう二段構えの対策が必要であると思う。
花瓶地球の数値が決まれば、国の担当分の数値が決まり、企業担当分、家庭担当分の数値も決まることになる。そこで初めて実行プログラムの具体的な方向が決まるのではないだろうか。
勿論、そうは言ってもCO2削減を実行することは、今までの生き方の否定にも成りかねず、莫大な金も掛かることであり簡単に行かないだろう。
しかし、取り返しの付かなくなってから、それに立ち向かうより、いま何とかしようと考えれば、努力も金も少なくて済むだろう。
物事全て、結果に対処するより、前もってその原因を除去する方が至って有効である。
かつて本田技研がCVCCエンジンを開発するに当たり、どういうシステムにすべきかを検討した際、本田社長が、言い方は忘れたが「出た排ガスを除去するのではなく、初めから出ないようにしろ」というようなことを指示されたということを読んだことがある。
CO2問題も然りであると思う。現在の結果に対処するのではなく、その結果を作り出した行為にまず目を向けて行くことが最優先であろう。
今こそ強力な政治力が必要だと思うのだが、この国の今の代表者(但し、民意によったものではない)は「できれば」などとまるで他人事のようなのんきさである。
「買うエネルギー」から「自前するエネルギー」に変換しなければならない時代であるが、これは多分、産業革命の比ではないほどの大社会革命だろう。革命であれば多少の痛みはやむを得まい。
子供のため、孫のために腹を決める時期だと思う。

日本太陽エネルギー学会は1975年に発足した。今から33年前になる。ススキと黄色
発足したことの記事だったか、日豪合同シンポジウム開催の記事だったか覚えていないが、太陽エネルギー学会が有ることを新聞で知り、早速入会したのだろう。
その為、1975 VOL.1 NO 2学会誌を持っている。1975年は二つ目の会社であるマミヤ光機の開発部にいた時である。表紙
当時、マミヤ光機は脱カメラを謀るべく、開発部長以下全員を外部から集めた組織だった。部屋はカメラ部門とは分離され、茗荷谷に置かれていた。
開発テーマはカメラ以外の多くの物に置かれ、意気揚々と仕事をしていたのを覚えている。そんな環境の中で太陽エネルギー学会の記事に接し、これからの新しいテーマだと思って入会したのだろう。
個人で入会しているところを見ると、よほど思い入れがあったのだろうが、その時の心境は覚えていない。
そんな訳で学会誌の第2号から現在に至るまでほぼ全巻を所有している。

学会誌を開いてみると、先ず、1975年に開催された国際太陽エネルギー学会、国際会議に展示されたソーラーシステムが載っている。
当時はまだ太陽熱エネルギーの時代であったため、展示品の多くは太陽熱コレクターであった。集熱器1021
太陽電池関係は一般化されておらず、何も展示されていなかったようである。
当時の太陽エネルギーを用いた発電といえば太陽熱発電が主流であった。
その他、太陽熱を利用したヒートポンプ、屋根パネル兼用コレクター、選択吸収コーティングしたコレクター、フレネルレンズを用いたコレクター、小型風力発電機などの写真が載っている。
この国際会議は前前年はパリで行われ、今回はロスアンゼルスの夏に行われた。
参加国は30カ国、1800名、発表論文は280篇、その内、日本からは20名が参加し、17篇の論文が発表となっている。
当時は石油危機の後であり、各国とも太陽エネルギー開発に力が入っていたようである。
特にナショナルポリシーとして開発体制が確立されているのはアメリカとわが国とあり、現在の世界の状況とは違っていたようだ。

また、学会誌の中で菅沼英一氏が当時の太陽電池の状況について書いてあり興味深い。
アメリカでの太陽電池の年間生産量は宇宙用として50Kw、日本では灯台および無線中継用電源として、何と20Kw、生産額で10億円ほどとある。
日本の年間生産量は、現在一般化している家庭用太陽電池の7棟分にも満たなかった訳である。

金モクセイ太陽エネルギー学会へ入ったとはいえ、当時マミヤ光機で太陽エネルギーに関する開発はしなかった。
その後も太陽エネルギーに関わる仕事を選んだわけではなかったが、学会を退会することはなかった。今の時代が来ることの、何か勘が働いていたのだろう。
今から思うと、当時の太陽電池の値段(1Wが3万円ぐらい)を知っていたからこそ、94年の補助金制度発足時に太陽電池を取り付けようという意欲が湧いたのだろう。
今、自宅に設置してある太陽電池は5.4Kwであるから、当時の金額にすると1億6000万円ほどになる。随分安くなったものだ。

現在ある家の企画をしている。勿論ソーラーハウス化であり、新しい蓄熱方式である。
当然、出来るだけ現在のローテク技術で出来る物を考えている。
そんな訳で太陽エネルギー学会誌を読み直してみている。
改めて見直してみると、これが宝の山であることに改めて感じさせられた。
「継続は力なり」と成れば良いが・・・・



私は株をやらない、と言うより知識がないのでやれないし、改めて今さら時間を割いて勉強する気もない。
その為、今回の世界同時株安の直接的な影響は受けていないが、間接的な影響は今後出てくるだろう。
自分には金だけ動かして金を儲ける生き方が、性に合わないと感じている。
いくら金が儲かる(全員が儲かるわけがない)からと言っても、それに時間を費やしている暇がないように感じている。要はセンスもないのである。蓮枯れ
金は今を生きるために絶対必要な物であるが、マネーゲームが出来ないのであれば、それ以外のこと全力投球しなければならない。
そういう生き方だけで良いのかどうか分からないが、それしかできないのだからしょうがない。と言うより、その前にマネーゲームをするだけの資金がない。
営業力も駄目だし、となると人の為になる新しい物を自分で開発して食ってゆくしかない。
勿論、そのやり方しか出来ないことがまんざらではないとは思っている。
特に今の先進国では、物を作ることより、マネーゲームで儲けられる人種の方が注目される傾向にある。
確かにそれで儲けている人間の方が高額は得ている。
但し、先日、研究の成功者としてノーベル賞を受賞した小林氏と益川氏が、文部大臣に教育のあり方に苦言を呈していたが、マネーゲームの成功者が教育論を語っても誰も聞かないだろ。
今は資本主義の世の中であり、法の許す範囲では何をしても良い訳であるから、マネーゲームも勿論正当化される行為である。
柿1013しかし、よく考えて見るとマネーゲームは社会の何に役立っているんだろうか、と考えてしまう。
人間は楽をしたい、便利でありたい、元気でいたい、安心していたい・・・・等のため文明を発展させた来たのだと思う。
それと比べてマネーゲームは社会の発展にどう関わってくるんだろうか。
マネーゲームというのは、要するに金がたくさん欲しいという欲望がそれを生み出しているだけではないのだろうか。
マネーゲームで金が儲かった場合、当然その金を使って又マネーゲームをしたくなるだろう。儲けた金が税金で持って行かれるから、という理由以外で慈善事業をするとも思えないし、マネーゲームはマネーゲームしか生まないのだろう。だからバブルが発生するのだろう。
物を作っている企業は人が幸福に感じる物を作っている(幸福感の内容がどうかはここでは論じない)。
サービスを提供している人や企業も又、人々に幸福感を与えている。
医療などはその冴えたる物であるし、農業などの食料品も正に人間の為である。
そういう人達が健全な形でいなければ私達は生きて行けない。
これらの人達は要するに他人のために仕事をしているのだ。
それではマネーゲームをする人達がいなかったら、私達は生きていけないのだろうか。否、である。生きて行ける。
もしそうだとしたら、必要のない物が社会を引っかき回していることになり、何とも理不尽な思いがするし、不合理さを感じる。
マネーゲームは要するにゲームでしか過ぎない。
枯葉1013ゲームを広辞苑で引くと、遊技、勝負事、競技、試合とある。ゲームとは、いずれにしても広い意味での「遊び」なのだと思う。
遊びというのは、迷惑の問題を抜きにすれば、他人とは関係のない行為であるはずだ。
それが経済を引っかき回し、挙げ句の果てに、それと何の関係もない一生懸命働いている人の人生までも左右してしまう、となるとゲームなどと言って放置しておいて良いものなのだろうか。
しかし、それが人類が努力して作り上げた最新の社会システムであれば、何とも手の付けようがないことでもある。
何と言っても、人間が正しいと思って邁進した結果が生み出した経済システムなのだからである。
まるで温暖化みたいだ。温暖化も特別望んだわけではない。経済を発展させ、より便利な社会を求めた結果である。
ホモ・サピエンスは一体何処へ行こうとしているのだろうか。
発達させた頭脳は何を考え出せば気が済むのだろうか。
マネーゲームとは相対的な勝負にしか過ぎないが、物作りは絶対的な勝負である。
いずれも金を稼ぎ出すための手段であるが、生きるための自己防衛という視点がなければ全ては成り立たなくなってしまう。
金の稼ぎ方はその人間の生き様、人生模様を表していると思う。
生きる美学の表現であると思う。
どうせなら格好良く稼ぎたいものだ。
(夜のニュースで「株安歯止め、東証、歴史的上昇」とあった。だからと言ってマネーゲームが終わるわけではなく、現在の危機が何とかなれば、懲りるどころか更にゲームは拡大するのだろう。)

20年以上続いている表向き異業種交流勉強会という飲み会(会員数合計8名)に参加している。現在は四ヶ月に一回ぐらいで都内に集まり、ケンケンガクガクとまではゆかないが、色々な話が飛び出し、いつも時間が足りなくなる変な会である。
前回集まった時に、時間無制限で話をするにはキャンプにしようということに成った。トンボ1012
キャンプの前日に急な仕事が入りT氏が来られなくなったが、総勢5名のキャンプになった。
キャンプの準備はほとんどH氏にしてもらったが、私も久し振りにキャンプ道具を取り出した。
焚き火が無ければ始まらないので、当然、鉈と鋸を先ず持った。鋸は倒木を切るのに無くてはならない必需品だし、鉈はそれらを燃やしやすい大きさにする為に必要だ。
それといつも自宅の暖炉で使っている吹き竹、ビールもしっかり冷やしたいという要望があったので、カセットボンベを使う吸収式冷凍機の冷蔵庫も引っ張り出した(こういう物を使わないのが本来のアウトドア生活)。卓上レンジやコッフェル等も持った。
それにプリウスを出すことにした。遊びではできるだけ車を使わないと決めてあるのだが、他の車で行くのであればプリウスの方が排気ガスは半分以下で済むし、冷蔵庫など大型の荷物もあるので出すことにした。
虫1012テントは4〜5人用を二張りとしたが、私は1人用の山用テントを別に持って行った。理由は、私も大きないびきをかくらしいのだが(自分では聞いたことはないが?)、人のいびきでは全く寝られなくなってしまうため、いざという時にはそこに逃げ込む為である。
孫と山でキャンプをする為に買っておいたテントが早速役立つことになった。近年、山用テントの軽量化は目覚ましく、背負って持って行くことだけを考えるなら最軽量の物を選ぶべきだが、軽さの前に張り安さを最優先にさせて選んだ。どんな悪天候の時でもいち早く張れる簡便さの方が重要だと思うからだ。
先に酔っぱらい寝込んでしまったK氏のいびきを聞き、予定通り山テンの出番になり、予想通り簡単に張れることが実感できた。(テントはニッピンのメスナーシングルドーム)
キャンプ場に着き、先ずはテントを張り、焚き火が燃え尽きないように十分薪を集めた。
次にイワナ二匹とヤマメ二匹をゲット、これで久し振りの骨酒も確保できた。
途中で仕入れたキノコをふんだんに使った鍋もでき、議論の為の準備万端が整った。
そこから取り留めのない議論が予定通り始まり、一時過ぎまで存分に話し合った。
議論をするのはシーズンオフのキャンプ場は絶好である。時間は次の日まで無制限だし、金は掛からないし、今の時代こういう風景があちこちにあっても良いのではないだろうか。
しかし、議論をしていれば良いわけではなく、実践に移さなければどんな議論も、酒にかまけた単なる戯言に過ぎなくなってしまう。
今回のキャンプ地は塩原温泉の先で、五十里湖の北側に位置するナラ入沢渓流キャンプ場である。
我孫子から往復で410Kmばかりの距離にある。この距離全体で燃費は27.4Km/リットルであったが、高速へ入るまでの52Kmは何と31.4Km/リットルだった。さすがはプリウスだと改めて感心した。イワナ
高速へ入ってからは80〜100Km/hで走った。如何にプリウスといえども100Km/hを越えると燃費はどんどん悪くなるし、その分CO2も増えるからだ。
200Kmぐらいの距離だとすっ飛ばそうと、のんびり走ろうと時間には大した差が出ないし、それならのんびりの方が燃費は安いし、安全だし、疲れないし、良いことばっかりである。
今はそんな心境であるのだが、インプレッサに乗っていた時の自分は一体何だったのだろうか、と反省しきりである。
車の運転の楽しさは至って情緒的なものであるが、燃費を節約してCO2を少なくする工夫をしながら運転することは、とても理論的である。
車の流れを滞らせないで、最大の燃費を引き出す為にアクセルワークを工夫しながら走ることは、脳が活性化されるようで何とも楽しい。
何と言っても工夫して運転した結果が数字で出ることが最も楽しい。
アウトドアというと四駆に決まっているが、既存のキャンプ場でやる程度のキャンプであるなら、二駆のプリウスで十分である。と言うより燃費がダントツのプリウスの方がアウトドア向きと言えるのではないだろうか。
もし、全ての車が少なくともプリウス程度の機能になったら、CO2の排出量の問題だけでなく、もう少しゆったりとし、落ち着いた高速道路と社会になるのではないだろうか。



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