今まで行ってきた目先の経済活動が、金を動かす量は増やしたが、それにより必ずしも社会を良くして、国民を幸せにしてきた訳ではないにもかかわらず、この国は相変わらずその経済活動だけを継続しようとしている。
その為、その危険さが明確になったにもかかわらず、自分たちの都合の良いように、いい加減にでっち上げた、想定条件で作られた原発を懲りもせずまだ動かそうとしている。

4月30日NHK総合AM8時20分〜9時5分に「キミたちの未来 僕たちの選択〜時任三郎 世界エネルギーの旅〜」において、脱原発を目指しているドイツと、風力発電を選択したデンマークと、世界で唯一の核廃棄物処理施設を作っているフィンランドの事情が放映された。
ドイツではシェーナウの町でウルズラ ・スラーデックさんの脱原発に取り組んだ経緯が語られていた。
彼女はシェーナウで市民による独自電力会社設立の中心人物である。
切っ掛けは1986年のチェルノブイリ原発事故である。
シェーナウの町も放射線に曝された為、母親として立ち上がり、市民による電力供給会社を作り、送電網の買い取りまでやった。(http://www.youtube.com/watch?v=QPgUskB9L4I)
古い美しい家並みの屋根には太陽電池取り付けられていることがとても印象的であり、同時に、人間の生活にとってエネルギーの自前が最も大切だという強い自覚が感じられた。
差し詰め日本で言えば、白川郷や大内宿、美山町の茅葺き屋根に太陽電池を取り付けたような物である。
そこまでしても、生活に必要な電力を原発に頼らず、自分たちの力で何とかしようという意気込みが伝わってきた。
(太陽電池とは日本でもおなじみの、あの長方形のパネルである。ある建築関係の人から「あんな格好の悪い物は使えない」という言葉を聞いたことがある。その人は、勿論、外から見た形以外に、エネルギールギーと住まいのことなど考えた事があるとは思えなかったが・・・・太陽電池は、太陽からの電磁波を直接エネルギーに変化する自然が生み出した光合成に近いシステムである。人類が初めて自然の原理に近づけた技術である。これはこれからの技術の先駆けとなる技術であり、格好が悪いなどというレベルの評価で切り捨てるべき物ではない)
意識の大きな違いを感じた。
現実をしっかり見つめていることを感じた。
この違いの差は何で起きるんだろうか・・・教育なんだろうか、歴史が培ってくれた人間力の差なのだろうか・・・・
生きて行く為の認識の差なんだろう。
原発による電気はいらない、でも電気は必要だ、それなら必要な電気は自分達で作る、
至って当たり前の、常識的な発想が素直に成されている様に思えた。
原発は反対、しかし、身銭は切らないで省エネの生活をする、一見最もらしいく聞こえる。しかし、それでは説得力はない。
ドイツとこの国の差は、そんな行動力、実践力、快適な生活の追求力、人生を楽しむ力、未来を思いやる力の差であるように感じた。シェーナウの町の実情で見る限り、少なくとも、未来を考える力と自然へのダメージを思いやる心に於いては大和民族よりも、ゲルマン民族の方が数段優れているのではないだろうか。
社会の大変革期を迎えた時に力を発揮するのは、その国の人達の本当の人間性と人間力なのではないだろうか・・・・

デンマークでは1978年、原発賛成意見と原発反対意見を同数を両側に併記し、其れを国民に判断させた。
そして、自然エネルギーを選択した。
どうして同じ人間でありながら、その人間達が形成している政治や行政がこうも違うんだろうか。
この国は原発を採用し、増やして行くために、国民の判断どころか、泥棒ネコのように、こっそりと出来るだけ誰もが気が付かないように欺しながら進めて来た。
其れを進めた政治家、官僚、特に司法(自分たちの頭で思考をすることもなく、行政の行うことを無分別に追随し、国民を欺き続けた罪は至って重い)、業界こぞって税金の甘い汁を出来るだけ国民に気付かれないように吸っていたのだ。
そして事故を起こし、多くの人が悲惨な目に遭ってるという最中に、根本的な原因追及や、この国が全力を出すことによって出来る対策を検討することもなく、電力が不足し大変なことになるという脅しだけを最優先しているように見える。
未だに現状維持をして甘い汁を吸おうとしているのだろうか・・・・
これは人間力の差と言うことでは言い表せないほどの差である。
明治維新から始まった、欧米に追いつき追い越せということは、単なるかけ声だけで、人間力においては益々その差を広げられるばかりであるように見える。
多少技術力があるぐらいで、人間としての総合力では差を付けられる一方であることを感じない訳には行かない。何とも情けない。

フィンランドの原発事情も唸ならされるばかりであった。
先ず、原子力発電所内に、其れを持っている電力会社の本社があることである。
勿論そこに社長室が有り、社長がいて、社員が居るのだ。
正に仕事に対しての真剣度が違うのだと思う。
経済的な合理性から言っても正解なのだろう。
何故、同じ人間でありながら、同じ経営者でありながら責任に対する考え方、対処の仕方がこうも違うのだろうか。
此処でも何故、こんなに差があるのだろうか。
原発を採用すると決める第一の条件は、廃棄物の処理方法を決めることであるとし、現在考えられる最適と思われる核廃棄物の処分場と処理方法を同時に決め、その工事をしながら原発を建設したのだ。
現在の情報化社会に於いて、電力会社の本社が東京や大阪などにある必要はない事など明らかである。
原発の敷地内に本社があった方がよっぽど合理的なのだと思う。
フィンランドは絶対に事故は起こさないぞという意気込みが感じられる(それでも原発は反対だが)が、この国の電力会社には、余りにも多くの隠していたことがばれてしまったこともあり、責任感や安全性を最優先しようという意気込みなど全く感じることが出来ない。

しかし、どんなに安全対策を考えたとしても、全てを見通して、全ての安全対策を人間が取れない以上、絶対に事故を起こしてはならない原発に存在理由は無い。ましてや超地震大国であるこの国には、採用すべきシステムではない。
電気は何ででも作れる。特に今となってはその可能性は急拡大している。
わざわざお湯を沸かす理由だけで、核分裂を利用する必要など微塵も存在しない。
今から50年後には、寿命からして原発は存在していない。そんな先が見えたシステムであるなら、さっさと捨て、一早く新しい社会の構築に全力を投入すべきである。
戦争によって完膚無きまでに壊滅させられたインフラの中で、日本人は立ち上がった。
それに比べれば、現在の節電しなければならないかも知れない状況など、たわいもないことである。

「これが結論! 日本人と原発」竹田恒泰著 小学館101新書 を読んだ。
竹田氏は旧皇族・竹田家に生まれ、明治天皇の玄孫に当たるという希な作家である。
「日本人なら原発はやめられる」という副題に惹かれて、ろくに内容を見ずに買って読んでみた。
結論は「ガスタービン・コンバインサイクル」という優れた火力発電所に置き換えれば、原発など必要ないどころか、二酸化炭素の排出量も減らすことが出来る、ということである。
現在、原発を全て止めても電力が不足することはあり得ないということも、数字を使って説明が成されている。
それは、原発を建てる度に、それらがまとまって停止しても、電力不足を生じさせないために、バックアップ電源として火力発電所を建て続けた結果なのであるという。それは取りも直さず、原発が不安定な発電システムだからである。
その証拠に、2007年の新潟県中越沖地震の時、柏崎刈羽原発7基が緊急停止したが、東京では停電が起きなかった。
それを可能にしたのは、バックアップ用の火力発電所が瞬時に立ち上がったからである。
原発と火力の全てをコンバインサイクル発電に置き換えると、従来と同量の化石燃料で、その全てを賄うことが出来る上、コンバインサイクル発電の高効率化で、原発の全廃はむしろ二酸化炭素の排出を削減することが出来るそうである。
原発推進派は、原発は二酸化炭素を出さない温暖化の切り札と言っているが、ウラン採掘の過程、その後の輸送や精製の過程などなどで大量の二酸化炭素を排出しているとも指摘している。
また、原発推進派は自然エネルギーの問題点を執拗に指摘し、原発の安定性などを訴えるが、そもそも、原発を廃止するだけなら、自然エネルギーを持ち出す必要もないとも言っている。
予算の面で言うと、原発4基分、総工費8000億円でコンバインサイクルを設置すれば、原発の総電力量の全てを賄うことが出来るし、何よりもコンバインドサイクルの大きなメリットは、都市の港湾は勿論、駅前にでも設置することが出来ることである。
それも、やろうと思えば5年ぐらいで全原発分の発電設備を作れる可能性があるらしい。
そうすれば大規模な送電設備も必要ないし、送電ロスもほとんど無くなるなど、かなり具体的に書かれていて面白い。
但し、コンバインサイクル発電はいくら効率がよいとは言え、天然ガスを用いる火力発電であるには変わらず、長い時間で見るとやはり過渡的なインフラシステムと言える。
天然ガスが永久にある訳ではなく、いずれ枯渇すると成ると、やはり最後は太陽エネルギーの時代に成らざるを得ない。
この本はそのことについては述べていない。
飽くまでも、現在直ぐにでも原発の無い社会は可能だし、原発でない方がより良い社会が構築できることが書かれている。
また、日本人が大切にしてきたこと、これまで築いてきた歴史、伝統、そして、日本人らしさ、日本人の精神を思えば、原発は日本にふさわしくないと強く考える、とも述べ、原発は日本の国柄に合わず、保守の思想にそぐわないだけでなく、国民を愚弄し、大自然を冒涜し、皇統を脅かし、皇恩を踏みにじり、皇室を蔑ろにするものだと私は思う、とも言っている。
旧皇族であるための捉え方なのだろう。
超地震大国ということだけで原発は全くそぐわないと考えていたが、少なくとも、今までこういう視点で原発を考えた事は無かった。
しかし、原発の無い社会を作るための具体策の一つとして、当面コンバインサイクル発電に変えて行く事はかなり可能性があるように感じた。
また、天然ガスを太陽エネルギーにより作り出した水素ガスやバイオガスに変えて行けば、自然に太陽エネルギー社会に移行する事が出来るのではないだろうか。
この本を読んで、原発の全廃は全く可能である確信が更に深められた。
であれば、未来の日本のために、先ずは、原発の全面廃止宣言をし、次に、発送電を分離し、発電の自由競争を促し、そうしながら太陽エネルギー立国を目指すプログラムを作るべきである。
そして具体的には、原発以外の全発電システムの効率化に今すぐ取りかかるべきである。
また、竹田氏は原発に保守、革新は関係ないと述べている。
原発を止めた後の具体策の参考の一つになると思う。
一読をお勧めしたい。

3月27日の報道ステーション「原発再稼働 私はこう思う」で自民党衆議院議員の町村信孝氏が発言した。
原発事故から一年も経っているのにこの程度の発言しかできない政治家と称する御仁に、なぜマスコミはこんなに時間を与え、公共電波を使わせるのか気が知れない。

(町村)「まず政府がはっきりとした考え方を示すこと」
(質問)考え方を示すのは、先ずは、「原発の安全とは何か」ということを示すことではないのか?
(町村)「地元の方々の了解を得た上で、順次再稼働する・・・」
(質問)地元とは何を持って指すのか?金がもらえる地元でなく、金はもらえないが、事故の影響だけを受ける地    域が全て地元ではないのか?
金をもらっている地元だけでは、まだ金が欲しいために偏った意見しか出てこないのじゃないか?
それに基づいて国の方向を決めるなんて、頭がおかしいと思うが?
(町村)「雇用が今、海外にどんどん逃げていってしまう。日本の経済を考えた時に、そして我々の日々の生活ということを考えた時に・・・」
(質問)原発問題が起きる前から、企業は海外にどんどん移転しているのではないのか?
原発を動かすと企業は日本に残るとでも言うのか?
それとこれとは関係ないと思うが?
(町村)「私はできるだけ“自前”のエネルギーというものが、どこまで調達できるかということが大切であって・・・」
(質問)原発を動かすウランは全て輸入でないのか?
それともプルトニュームは自前のエネルギーとでも言いたいのか?
(町村)「トイレットペーパー事件なんていうのは忘れている方もいらっしゃるようですが、・・・」
(質問)トイレットペーパーと原発の危険性とどっちが大事なのか?
(町村)「技術開発はこれから進みますから、太陽光にしても風力にしても、もっと効率よく発電できるとかですね。開発を進めていくということによって、原発のウェートというものは当然下げることができるんだろうと。」
(質問)今でも発電効率はそこそこ行っているんじゃないの?
現実に世界は其れで動いているんじゃないの?
ドイツやスエーデンなど今ある発電高率でやっているんじゃないの?
それらの国で、もっと発電効率が上がったら転換しよう何て話は聞いたことがないけど・・・?
効率じゃなくて、太陽光や風力エネルギーにしようと国の方針を決めることと、それに向かって予算を大量に投入すれば良いだけじゃないの?
本当に原発以外のことを考えているんだろうか・・・・・
(町村)「ビジョンを今、自民党も現状持っていませんから・・・・」
(質問)何で事故から一年も過ぎているのにビジョンの一つも作れないの?
何の反省も無しに、今まで原発をどうやったら継続できるかを考えていただけじゃないのか?
何でこれからの日本の将来のビジョンを作れない人間達が政治をやっているのか不思議で成らない・・・・
(町村)「自動車だって毎年数千人の方が亡くなる。でも皆さんは自動車を使い続ける。原発を自動車と同列に論ずるつもりはないが・・・・」
(質問)同列に論じるつもりがなければ、単に言わなければ良いのじゃないのか?
何でそんな区別が付かないのか?
原発と自動車の技術の根本的な違いを考えた事はあるのだろうか?
あえて同列に論じて、それで納得して原発を動かしたいと思う人を増やしたいからの発言なんだろう・・・・
(町村)「しっかりとした安全基準、さらに想定を上回るような事態が起きた時の国の規制のあり方、電力会社の対応のあり方というものを、新たに決めていくということです。」
(質問)詰まり事故はどんなことをしても起きることがある、という訳だが、一度起きれば自動車事故なんか比べられない、それこそ未曾有の災害になってしまう事が分かったのに、まだ経済だけのために原発を動かしたいの?
大体、国の規制で人々の安全が保てると思っているの?
電力会社の対応と言ったって、所詮、私企業である以上たかが知れているんじゃないの?
国民の安全を守ることとは何の関係もないんじゃないの?
安全を守ることとは原発を止めること以外にあるのだろうか・・・・

などを聞いてみたい・・・・・

「未曾有と想定外・東日本大震災に学ぶ・私達は今回の災害を転換点にできるのか」を読んだ。
著者の畑村洋太郎氏は現在、原発事故調査・検証委員会の委員長であり、失敗学会を立ち上げた方である。
失敗学から見た今回の原発事故と、その元にある核分裂技術をどう見られているのか非常に興味があった。
しかし、読み終わって何とも物足りなさが残った。
核分裂技術を今までの技術の延長と見ている様に見えるからだ。
核分裂技術とは何か、という本質論が語られていない。
この本は、それが目的ではないのかも知れないが、やはり、原発というより核分裂技術を人類が扱って良いのかどうかまで、掘り下げないと問題の解決には成らないと思う。
そこに入り込んでいないのは、やっぱり何となく世のしがらみの影響の方を受けているように感じた。

あらゆるシステムは設計の時点でフェイルセイフを目指す。
フェイルセイフとは、どんな想定外の事故が起こっても、人が死んだり、怪我をさせないなど、人に危害が加わらないでシステムが停止する設計をすることだと思う。
しかし、原発が一旦事故を起こしてしまえば、フェイルセイフ思想では対応できない。
何故なら、事故により必ず放射物質が放出され、それを排除することは出来ないため、少なからぬ被害を不特定多数の人に与えることになるからだ。
それも被害が出るのが何時に成るか分からない。
その為、核分裂技術を使うシステムに於いてはフェイルセイフという考え方は絶対に成り立たないのである。

それに対して、核分裂以外のシステムでは、事故が起こった時、人にとって安全側に動作する設計をすれば、それだけでフェイルセイフは成り立つ。
それ故、フェイルセイフ設計が成り立たない核分裂技術は人類が扱う技術ではないのである。
また、本の中で、アメリカのクイーンズ大学ジェラルド・J・S・ワイルド名誉教授が提唱している「リスク・ホメオスタシス理論」は、「安全になったために生じる新たな危険というものがある」ということを述べている。
つまり、完全な安全などはあり得ないと言う事である。
言い方を変えると、人間に完全な設計などは出来ないと言うことである。
どんなに安全性を求めても、その先にまた新たな危険が発生してしまうのであれば、核分裂技術はこの社会に絶対存在させてはならないことに成る。

また、「これからの選択」の中で、欲得や便利さに流される人間の性質を考えると、日本ではまだ、原子力にある程度、依存せざるを得ないと思っている・・・・とある。
正に欲得や便利さを今まで通り引きずった考え方である。
また、この著者も風力発電、地熱発電などが代替えエネルギーは頼りない、と言っている。
しかし、原発だっていきなり54基が出来た訳ではない。
初めはゼロだった訳で、原発社会にするには、そんなことが出来るんだろうか・・・そうしなければならない、となって、54基も作ったのではないか。
高速道路もしかりである。
高速道路網を作ろうと決めたから、今のようになったのではないか。
原発を作ろう、高速道路網を作ろう、新幹線網を作ろう、などなど、決めたから実現したのではないのか。
決めれば何でも出来るのではないのか。
まず自然エネルギー社会にしようと決めれば良いだけではないのか。
敗戦後の何もない中から、みんなが「やるぞ!」「頑張るぞ!」と決めて行動したから今に成ったのではないのか。
もし、自然エネルギー社会に向かおうと決めたとしても、プルトニュームを含む大量の放射能物質は何とかしなければならない。
原発を止めてもこの問題は大きく残る。
だからと言って、原発を継続する理由にはならない。
所詮いずれは太陽エネルギーの社会に成らざる得ないのである。
それならば、日本の経済の将来を考えて、少しでも早く太陽エネルギーに全てを依存できる技術開発を真っ先にすべきである。
それが日本の社会を支える経済を、また蘇らせることだと思う。

色々書いたが、「未曾有と想定外・東日本大震災に学ぶ・私達は今回の災害を転換点にできるのか」は是非読んでいただきたい一冊である。

朝日新聞2月16日
脱原発、冷める民主・自民 エネルギー政策はや「停滞」
という記事の中に、民主党エネルギープロジェクトチームの会合で、経団連など経済3団体の幹部は「電力が足りなくなる」「安全を前提に原発を速やかに再稼働すべきだ」と訴えた、と書かれている。
また、記者会見で谷垣総裁が「安全性を考えた上で再稼働は必要」と述べたとある。
何れも「安全」という全く抽象的で耳障りの良い言葉を使っている。
利権と金だけしか考えていない、これらの御仁が原発の安全性とは何かなどと言う事を本当に考えたことがあるんだろうか。
大体、原発は動かさなければ損をする以外に、原発とは何かと言う事を考えたことがあるんだろうか?
人間が行う技術と安全などという至って奥の深い究極のテーマに対して政治家ごときが突き詰めて考えた事なんかあるんだろうか?
大体、政治家などに軽々しく「安全」と発言などさせておいて良いのだろうか・・・
安全などと言う言葉を使う前に「原発の安全とは何か」と言うことに対して、どう考えているのか、先ずは具体的にきちんと明確にすべきだ。
勿論、保安院が安全という結論を出したなどというのは何の答えにも成らない。
(今回の原発人災事故の担い手でもある保安院が恥ずかしくなくいまだにしゃしゃり出てくるのはどういう事なんだろう・・・恥を知れ!)
また、人をバカにしたような、防潮堤を15mにしますなど、高さのことはどうでも良いので(どうせまた想定外だったと言うのが関の山である)、安全の原点その物をどう考えているのかハッキリさせるべきである。
特に、「人間は不完全である」、と言うことと「原発の安全」との関係を明確にすべきである。
それとも政治家や保安院や電力会社は不完全な人間などいないのかな・・・・
また、どんな大きな地震が起き、どんな大きな津波が起こるか誰も分からない訳であるが、その予測不可能な自然災害に対して、原発が安全であると言う論理的証拠を明確にすべきである。
先日、何処の自治体だか記憶しなかったが、津波対策に対して、いくら防潮堤を高くしてもそれで完全だとは言えないから、詰まり安全性は確保できないので、避難というソフト面を充実する必要が有ると言っていた。
至って真っ当な考え方である。
予測できないことが起こるのが自然災害であると理解している為の発言である。
それに対して浜岡原発は防潮堤で安全が確保できると原子力安全・保安院などが言っているのは、
自然災害の全ては読めるつもりなのだろうか・・・
避難というソフト面で対応できるとでも言うのだろうか・・・

原子力安全委員会や原子力安全・保安院などが、名前だけで安全など考えた事も無い連中がたむろしていた為に今回の事故は起こったのである。
何故、今でも相変わらず、これらの連中が安全などと言う事を口に出来るのだろうか。
また、市場調査によると原発反対意見が多いように言われているが、それらの有権者が選んだ政治家ごときが、何で原発維持の方向へ舵を切る権利があるのか。
自分の置かれている目先の利権以外は何も考えていないのだろうが、未来を考えることは経済だけを考える事ではないのだ。
本気で孫や曾孫の代が原発があることに感謝するとでも思っているのだとしたら、先ずは自分達の家族、特に孫達を率先して自然豊かな原発のある自治体に住ませるべきである。
原発の金で大いに潤っている地元は下手な都会へ行くより素晴らしい施設が整っている。
それをせずして、安全等という言葉を軽々しく使うべきでない。
がロードレーサーに乗ったくらいで、エコポーズぶって安全などと言う言葉を言ってもらっては困る。



脱原発を図る為により多くの人が「原発反対!」を叫ぶことは大切である。
真正面から「脱原発」の意思表示をする為に、多くの国民が署名することも重要である。
現在、54基の原発のほとんどが止まっている。
にもかかわらず、それでも日本は動いている。外堀
現在、節電の話しはとんと無い。
至って不思議な現象である。
それなら54基の原発は何の為に作ったんだろうか???
こんな狭い国土に、何故、54基も必要が有ったんだろうか???
(これは特に周波数転換をする変電所の電線をわざと細くして、わざと融通でき難いようにし、個々の電力会社があたかも独自に原子力発電所を多く作らねばならないようにしたトリックである)
この世界でも名だたる大地震地帯の国土の上に、あえてこんなに高密度に作る必要が何故あったんだろうか・・・・
地震国と原発の組み合わせのメリットは何なんだろうか???(揺れた方が発電量が増えるのか???)
しかし、この地震が起きず、原発事故が起こらなければ、この国と電力会社と政治家は安全だと言い続けながら、まだ何十基も作ろうとしていたのだ。
これ以上電気エネルギーを国民にがぶ飲みさせて、誰が何をどうしようと考えていたんだろうか?
勿論、今回の電力事情を見ればこれ以上電気エネルギーはいらない事は明白になった訳だから、にもかかわらず増やそうというのは少なくとも国民の為ではない。
増やすことにより誰かが得をする為なのだとしか考えられない。
増やすと儲かるのは、先ず原発を作っている大企業である。
これは特別な保護を受けながらやっているのだろうから、価格競争もなく、多分言い値で金が入ってくるのだろう。
発注側の電力会社も儲かるんだろう。この資本主義の社会であれば、儲からなければやらないのは、いたって当然なことである。
国民の幸福の為になんて考えている経営者が電力会社にいるとは思えない。
勿論口先では何とも言えるが、もし考えていたなら、少なくとも「絶対安全」なんて、全国民に向かって言う事は良心が許すはずもない。
大体、神でない人間が「絶対安全」なんて絶対に言えるはずもないからだ(それとも神だと思っているのかな・・・)。
多分、所詮、国の民でしかないと舐めているから「絶対」なんて言う言葉が平気で使ったのだろう。
ただし、株主の幸福はとても一生懸命考えているかも知れない・・・・
原発は前記したように大地震帯にこの国があると言う事だけで、採用する技術ではないことは明らかだが、その他のどんな方向から見ても正当化する理由は、原発ムラが儲かるということ以外に見つけることは出来ない。

それであれば、原発の存在を経済的に廃止させる方法も考えなければならない。
先ず、自分が住んでいる市町村で、50Kw以上の高圧電力を必要とする施設などの電力を、東電や関電ではなく、先ずは特定規模電気事業者と価格競争をさせてから買うようにさせることである。
これは2月3日朝日新聞に武蔵村山市の記事が載った。
より安定的に電力を得たいために、小規模な出張所などを除いた大半の施設で特定規模電気事業者から電力を買うようにしたとある。それにより、東電に払っていた1億円に比べて1400万円削減することが出来たのである。詰まり税金の倹約であり、最も市民の為になることであるので、何処の市町村もやれる訳である。
もしやれない所があるなら、市民の利益よりも担当者に利益のパイプでもあるのかも知れない・・・・
更に競争させる様なシステムにすれば、電力会社もどれだけ金が掛かるか解らない原発などやっていられないだろう。
それに電力会社の選択は、勿論一般家庭でも出来るようにならなければならない。

もう一つは、上とも関係があるが、発送電分離である。
いま経産省で検討が進められており、今年の夏までに何らかの結論が出るはずのようだ。
発送電分離をすることにより、電力の分散化が促され、多くの自然エネルギーが参入し、益々原発の必要性を低下させる様にしなければならない。
今でも原発無しで何とかやれるのであるから、そこに自然エネルギー電力がどんどん加わって行けば、電力量は増えることは有っても、減ることは無い。
原発でない安定した既存の電力の上に自然エネルギー電力が単に加わるだけなので、よく言われる自然エネルギーの不安定さは、実は全く関係ないことである。
脱電発の外堀を埋める為に、先ずは市民の為にある市町村自治体が率先して特定規模電気事業者から電気を買うようにすること、それらを加速する為の発送電分離に対して政治的に圧力を掛けて行かねばならないという2点が重要であると思う。
これらの2つの事は、少なくとも技術の問題ではなく、舵を切ればよいだけの単なる政治の問題であり、その気になれば今日にでも変革は可能なのである。
それに何と言ってもエネルギーを自分達の元に取り返す、という発想と気概が必要だと思う。
私達は基本的にエネルギーは買ってくる物、与えられる物、それが当たり前で最新の良い生活だと完全に洗脳されてきた。
それが最良の価値観だと思わされてきた。
その価値観の上で全ての基準を決めて、仕事も生活もしてきた。
現在、それらを支えてきたエネルギーのあり方が根本からひっくり返ろうとしているのであり、ひっくり返さなければならないのである。
全てをゼロベースで考えられる楽しい時代(既得権のある人、済みません、早く転換した方が良いですよ)が来ようとしているのだと思う。
それは取りも直さず自然エネルギーをベースにした、人類史上最大の新しいビジネスチャンスの創出でもあると思う。エイ!エイ!オ〜!

太陽a
今回の核分裂熱発電所事故は、どんな理由を付けようが完全なる人災である。
先ずは、手を出してはいけない核分裂技術に手を出した人災。
廃棄処理が出来ない事が分かっているのに推し進めた人災。
地震や津波を舐めて掛かり、過去の超地震国である実情を本気で調べなかった人災。
想定外の状況が生じた時、手が付けられない(今回これを見事に証明している)事が分かっているのに推し進めた人災、等々完全なる人災である。
大きな津波が来ないと判断したこと自体が物事を甘く見ている結果である。
本当に真剣に考えていなかった結果である。
これらは何れも結果論ではない。
何故なら、私の仙台の友人は地震の専門家でも、ましてや津波の専門家でもない単なる素人なのだが、但し不明な物があると徹底的に調べないと気が済まない性格である。
その彼に、去年に会った時、869年の貞観地震の時の津波が、5〜6キロ内陸まで来たこと、そこに津波被害を後世の戒めとするために建立された波分神社があり、そこに行ってきたことも話してくれた。
そうしたら311が起こった。
この事実は、実は誰でもちょっと真剣に考えれば、今回の津波の予測は出来たことを意味している。
政治と役所と電力会社と核分裂熱発電業界は単に物事を真剣に考えなかったのであり、考える事に気が付かなかったのである。
気が付かない事が起こるののだから、核分裂熱発電など初めから採用するべきではないのである。

アクアレイヤー床暖房の深夜電力利用に付いての質問を受けた時、こう答えていた「現在に於いて、同じ条件で暖房をするのに、深夜電力を利用した方がランニングコストはガスや灯油より安くなります。しかし、深夜電力は核分裂熱発電所が止められない為に作られている電気です。必要無い時間帯に作られている電気だから安いんです。但し、核分裂熱発電所は反対です。何故なら、一旦事故が起これば人間の手に負えない技術だからです。そんな技術を人間が扱ったてはならないと思うからです。ジャンボが落ちても多くの人の命が失われ、多くの悲しみが生み出されます。でも事故としては一過性です。しかし、核分裂熱発電所の事故は明らかに違います。だから反対です」と、言い続けてきた(しかし、もっともっと力を入れるべきだった)。
私は勿論、核技術の専門家などではない。核分裂の原理ぐらいは多少知っているが、その技術に於いて殆ど何も知らないに等しい。
しかし、一旦事故が起これば取り返しの付かないことぐらいは分かっている。今まで生きてきて、人間に「完全」なんてことが存在しないことぐらいは分かっているからだ。
技術屋の端くれとして、どんな簡単なシステムでも完全な図面なんか書けないことは、分かっているからだ。
何らかの設計をしたことのある人なら誰でも気が付いていることであると思う。

分かっていたこととは言え、人間が扱える技術には限界があることを、今回の核分裂熱発電所の事故が改めて多くの人に示してくれたのだと思う。
日経サイエンスの2012/02号に「迫る巨大地震・最悪のシナリオは何か」が特集されている。地震と津波に関する最新の見解である。
これは現在ある全ての核分裂熱発電所が作られた時には認識されていなかったことであろう。
これを見たら誰がこの国に核分裂熱発電所を作ろうとするだろうかと思った。
にもかかわらず、ストレステストをしたら安全であったと語っているのは、どういうレベルの人間なんだろうか・・・・
何れにしても、超地震国というだけで核分裂熱発電所を作るなどということは全く論外のことであり、馬鹿げたことだと思うのだが・・・・

四回連載 終了

太陽3e
それにしても、核分裂熱発電に関わり危険性を身をもって感じているほんの一握りの技術者だけが、その実情を告発しているのに、残りの大部分の技術者が何も発言しないのはどうしたなんだろうか。
大部分の関係者は核分裂熱発電は、本気でとても良い物だと思っているんだろうか。
技術者は技術をもっと客観的に見ることが出来る人種だと思っていたが、実情はどうも私の勘違いらしい。
大部分の技術者は単に食う手段としてだけ、たまたま技術関係のことを選んだ人種と定義し直す必要が有るかも知れない。
もう少し技術者ということに誇りを持っているものだと思っていたし、そういう目で見ていたのだが、どうもそうではないらしいことを今の年になって再認識させられた。

産業界は孫さんと一部の経営者を除いておおむね核分裂熱発電所賛成である。
口先では日本を憂える様なことを言っているが、所詮、目先の自分の企業のことしか考えていないからだろう。
国の行く末を左右しているのは、大企業であるわけではない。ましてや役所などではなく、私達一人一人の存在である。
現に、人口が減少して行くと社会は大慌てになってしまうではないか。
エネルギーが不足するという根拠は一体何なのか、と考えると実は根拠などはない。
この社会に必要なエネルギーの絶対値など存在しないからである。
現に、節電ということに成ればみんなの努力で簡単とは言わないが、なんとかかんとか少なくする事は出来る。
節電によって社会が崩壊したなどという話は未だ聞いていない。
核分裂熱発電所を直ぐにはなくすことは出来ないと言っているのは、そう言っている方が物事が分かっている人間に見えている、だろうという風に錯覚しているからに過ぎないのではないのだろう。

ハングリーに成ればなるほど人間は知恵を出してきた実績を持っている。
もし何とか出来なければ、この国は国として立ちゆかなくなると言う事である。
そんなことが起こるはずがないことを、特にこの国の歴史は明確に示している。
明治維新を行い植民地になることを防いだし、敗戦からも立ち直り経済大国を築くことが出来た。
未だに核分裂熱発電所を残して社会を変えたくないと言う輩は、どんな理由を付けたとしても、それは所詮、度胸がないことと、夢がないことと、想像力がないということを示しているに過ぎないだと思う。
先人達と違い、少なくとも未来社会でなく、今の自分の利益だけを考えているだけなんだろう。
大体、核分裂熱発電所が無いと社会が立ちゆかないことをどうやって証明するのだろう。
今、自分のやっていることが変わってしまうことが単に怖いだけなんだろう。
そんな者達に我々の今の社会も、勿論、子供や孫や曾孫達の未来社会を任せる訳にはいかないのは当然である。
今この時代に、最先端を走ることを率先し、太陽エネルギーに変換することに邁進することは、むしろこの国の未来に於ける経済を牽引することに成るのではないだろうか。

次回に続く

夕焼け雲2

しかし、ここまで社会システムが巨大化してしまうと、未来を見ずに現状を維持したい力も巨大である。
核分裂熱発電所が無ければこの国の経済は成り立たないし、二酸化炭素の発生も抑えられないという声が、特に産業界に大きい。
本当にそうなんだろうか。
確かに目先の利益だけを考えている人に取ればそう感じるのも仕方ないかも知れない。
しかし、この国が世界の中でエネルギー対策を根本から見直さねばならないという状況に於かれていることは、マイナスなどではなく、最大のチャンスを手に入れたと捉えるべきではなかろうか。
これだけの被害者が出たのだから、せめてそれを生かそうという考え方が無ければ、この国の国民は救われない。
66年前の敗戦の時の状況を思えば、エネルギーを根本から見直さねばならない今の状況など、天国にいる楽さに等しいのではないだろうか。
核分裂熱発電をやめ、太陽エネルギー社会を目指そうと決めても、既存のエネルギーが社会から無くなるわけではない。
核分裂熱発電所が全て止まった所で電気が全て無くなるわけではない。
少なくても70%(現実には核分裂熱発電の占める割合は10〜20%だろう)ぐらいはそのまんまである。
その他、社会の全てのシステムは健在なばかりか、むしろ健全な生活が営まれるのはないだろうか。
そういうい恵まれた中でエネルギーを太陽エネルギーに全力で転換しようというわけである。
基本的なインフラは十分備わっている中での非常に恵まれたエネルギー変換である。
そして、一旦決めれば多くの予算が集中され、常に既存のエネルギー70%に太陽エネルギー分が付加されて行くのである。
変動するとか安定しないなどということは、現実に殆ど関係ないことだ。
その上、付加された太陽エネルギー分は、少なくとも化石エネルギーを輸入しなくて済むことに成る。
プラスの現象しか起こらない。
もし、石油や天然ガスが切羽詰まってから転換するのであればそんなわけには行かないだろう。
いずれやらなけばならないのであるのなら、早ければ早いほど条件は良いのであり、有利であることは今までの歴史が生み出した社会の鉄則である。
それなのに、未だに本当に有識者なのかどうか解らない有識者とマスコミから言われている人達は、殆ど全員が核分裂熱発電所は直ぐには無くすことは日本社会にとって不利になると言っている。
また、太陽エネルギーは、まだ1%弱しかなく、全く頼りにならないと訳の分からないことを真顔で言っている。
誰が考えたって予算も付けず、力も入れていないのだから当たり前なことである。この場に及んで今更ぬけぬけと良くそんなことを言えるもんだと思う。
もし、核分裂熱発電所と同じだけの予算を投入し、力を入れてきたなら、誰も太陽エネルギーが頼りにならないなんて言わないだろう。
有る番組で、某国立大学の関係者が「サンシャイン計画で実験した太陽エネルギーの全ての技術は失敗だった」というようなことを真顔で語っていた。
サンシャイン計画というのは核分裂熱発電を主流にする為の単なる当て付けのセレモニーであったに過ぎないのだから、当然の結果である。
技術というのは誰でも知っている通り、時間を掛けて、何回も改良して初めて実用化する物である。
実験に大した予算も付けず短時間で結論を出したのは、核分裂熱発電が有利だという事を印象づける為だったに過ぎないだろう。
それを今更サンシャイン計画が失敗だったなどとわざとらしく持ち出すのは考えられないことである。
単なる核分裂熱発電村の一員の発言に過ぎないので過剰に反応する必要もないが、こういう事が放映されると影響も大きいので気を付けねばならない。
国民は、まんまと役所と核分裂熱発電産業界とに計画通りやられたのであると思う。

次回に続く

太陽1d
人生67年の間の時代は、振り返ってみると、人類始まって以来の技術激変の中に生きて来たのだなということを感じる。勿論、物心つくまでの期間は、その後いろいろな書物を読んで知り得たのだが・・・
昭和19年5月1日に生まれ出た時、父はビルマ作戦に参加していた。日本は敗戦に向けて、ひたすら加速している時代だった。
一歳の夏、広島と長崎に人類初の原爆が落とされた。
やられほうだいやられ 、都市は焼け野原となり、300万人以上の犠牲者を出して敗戦をむかえた。
そして、その後、世界は多くの技術革新を繰り返して行く事に成る。
戦時中に実用化されたジェットエンジン、ロケットエンジン、そして勿論、核爆発技術・・・・
工業に於いてはコンピューター、トランジスター、トランジスターラジオ、コメットジェット旅客機、テレビ、太陽電池、ICBM、人工衛星、核分裂熱発電所、集積回路、新幹線、カラーテレビ、マイクロコンピューター、携帯電話、インターネット、光ファイバー、液晶テレビ、あらゆる家電製品・・・・
遺伝子工学は生命の謎に迫ろうとしているし、素粒子物理学は物質の極限を解明し、宇宙の誕生から、宇宙の全てを明らかにしようとしている。
この様に67年間生きてきた間で切りがないほどの多くの分野で技術革新が成なされた。
人類史上、これまでも、これからも、こんな技術激変の時代は来ないのではなかろうかと思うほどである。
そういう意味では、まれに見る興味有る体験が出来た時代であり、巡り会ったことは幸運と言って良いだろう。

しかし、その多くの技術革新による社会は、莫大な化石エネルギーをがぶ飲みしなければ成り立たず、自然が持っている能力では吸収できない大量の二酸化炭素を吐きだした。
そして、起こるべくして起きた大震災により、絶対に起こってはいけない核分裂熱発電所が崩壊した。
人間は技術革新にあまりにもいい気になり、己がコントロール出来ない技術まで調子に乗って手を出した結果であろう。

人間が物を動かし何かを生み出す時、100%の変換は出来ない為、必ず廃棄物が出る。
物事が分からない時代なら兎も角、今は何がどのように排出されるかは分かっている時代である。
ウランと中性子を入れ、核分裂させると、熱エネルギーと高レベルの超強毒性放射性廃棄物が出て来る。
石油火力発電所であれば、石油を投入し、燃焼させると、熱エネルギーと二酸化炭素廃棄物が出て来る。
これは自然の基本原理であるので、これが安全に完了できる技術だけが人間の採用すべき技術であるはずである(人類は未だに全てに於いてその社会に至っていない)。
強毒性の核廃棄物まで無害に処理できて初めて、そのシステムが実用化できると判断すべきなのに、その常識を全く無視し、利益を得られる者達が自分に都合の良い所だけを取り出し、実用にしてしまうほど驕りに満ちていたのだ。
この時代に生きていて、終盤近くに成ってそんな物を見せつけられることに成ってしまった。
勿論、今までの技術革新の全てを否定することはないと思うが、この核分裂熱発電所の崩壊を期に、大量に二酸化炭素を放出する文明その物を、それが生み出した核分裂熱発電技術を考え直すべきで時が来たのあると思う。
当然であるが、問題が起こった時、対処すべき術を持たない核分裂技術など人類の技術とは言えず、本来は論外である。
大体、超地震国というこの国に核分裂熱発電技術など、それだけでも常識的に初めから持ち込むべき技術ではなかったはずだ。

次回に続く

マスコミの原発を取り上げる頻度が下がってきた。
セシウムからの放射線が当たり前になってしまったこの国では、問題意識ももうそろそろおぼろげになってしまい、取り上げても、余り注目度を得られなく成りつつあるからなのだろうか・・・
黄葉
まあ、超熱しやすく、超冷えやすいこの国の超低熱容量民族社会(太陽エネルギーを利用する社会には馴染めないのかも知れない?)だからしょうがないのかも知れないが、100年先に化石燃料や原発の社会が成り立っていないだろう事を考えると、一刻も早く新しい社会の方向に舵を切る必要があると思う。
経済界が好きな、他国に遅れを取らない為にも急がねばならない。
とは言っても、もう既に産業革命を成したヨーロッパの幾つかの国は、最後の産業革命の栄誉も自分達が手にしようと動き始めている。裏を返せば、結果として当面の経済競争を有利に展開しようという目論見も見え隠れするような気もするが、いずれにせよ、化石燃料とウラン(勿論プルトニュームも含む)から手を引く事は時代の必然であろう。

先ず、提案したい。原子力発電(原発)という抽象的で曖昧な言い方をせず、どなたかはもう使われているかも知れないが「核分裂力熱発電」としたい。
「原子力」とは「原子の力」という曖昧な意味である。
しかし、実際は「原子の力」という曖昧なことが膨大な放射能と核廃棄物と熱エネルギーを出すわけではなく、原子を形成している核が分裂した時に強毒性の膨大な放射能と核廃棄物と熱エネルギーが放出されるのである。
それ故、原発は「核分裂力熱発電」と言うべきでであり、原爆は「核分裂力熱爆弾」と言うべきではなかろうか。
この方が、より現実に即した感覚的にも解りやすい表現に成ると思うので、今後はこの言葉を使うことにする(ちょっとめんどくさいが・・・)。紅葉の林

核分裂力熱発電とは文字が表す如く、核分裂の力により発生した熱を使って水蒸気を作り、タービンに送り込んで発電機を回すシステムである(勿論、大量の放射線を出し続ける核分裂廃棄物が発生する)。
太陽電池のように太陽光エネルギーを直接電気に変える斬新でシンプルな構造でなく、分類的には所謂単なる火力発電所である。
単に湯を沸かす為の湯沸かし器に過ぎない。
薪や石炭や石油ボイラーでなくて大げさにも核分裂により発生する熱エネルギーを使っているのである。
この大げささだけを見ても、万人から見れば核分裂力熱発電は非常識である。

人類は熱エネルギーと共に文明を築き上げてきた歴史を持っている。
人類は火を利用することを憶えて、初めて人類の道を歩み始めることが出来たのだろう。
正に火という熱エネルギーをコントロールする技術を手に入れたことによって、人類になり得たのだろう。
(薪を燃やす火が暴走してもその内消えてしまい、それでオシマイになるが、核分裂が一旦暴走すると人間の手には負えないばかりか、至って長期間の置いて壊滅的な被害をもたらすことが現在証明されつつある)
そして、その火を移動させる為に、絶やさない為に、土器を発明したり、屋根を作り出したのだろう(屋根のない草原で雨に濡れることを平気で生活をしていた祖先が、わざわざ屋根のある家を持ったのは、単に濡れるのがやだからではなく、火の保持も重要な一つの理由であったのではないだろうかと考えている)。
その屋根の下で、何十万年も木を燃やして火を作り、暖を取り、明かりや煮炊きに使ってきた。
金属を溶かし武器や道具を作ることを知ると、文明も急速に進化させたが、同時に森の伐採量も増え、森をどんどん消滅させていった。
そんな中で、それまで作り上げてきた技術と相まって産業革命が行われた。黄葉3
産業革命とは森林が無くなりつつある為に石炭を使わざるを得ない事が重なり、急速に社会が変化したのだろう。
つまり、石炭を燃やす事により取り出せる大量の熱エネルギーを利用する社会へ移行したのだろう。
それが、約300年前のことである。
木材を燃料として火を使い始めてから50万年ほどという説があるが、それを考えると300年前の出来事とはつい最近の出来事なのである。因みに、50万年を1メートルとすると300年は0.6ミリである。人類の歴史の中で大規模に熱エネルギーを使い始めたのはつい最近の出来事であることがこれでも分かる。
石油が採掘され始めてから約100年前、核分裂が発見されてから70年、「核分裂力熱発電」が開発されてから60年ばかりである。
そして、スリーマイルと核分裂力熱発電事故が32年前、チェルノブイリ核分裂力熱発電事故が25年前である。
そして、8ヶ月前に福島第一核分裂力熱発電所が大事故を起こし、いまだに放射性物質は日本中に飛び散りつつある。黄葉2
石油時代に移行しては0.2ミリ、核分裂力熱発電が実用化してからは0.1ミリほどである。人類史上本の最近の出来事にしか過ぎない。0.1ミリぐらい後戻りすることは至って些細なことではなかろうか。
しかし、忘れてはいけないのは、私達はそれらのエネルギーで生きているのではない。
膨大な太陽エネルギーの庇護の元で、つまり太陽エネルギーの手のひらの中で生かされているのである。
我々は太陽エネルギーの中でちょろちょろと化石や核分裂からの熱エネルギーを焚いているに過ぎないのだ。
現在、そのことを改めて見直す必要がある。

私達はエネルギー無しには一日たりとも社会を運営することは出来ない。
しかし、私達人類は太陽エネルギーのベースの中で将来を見据えて意図的にエネルギーを選択してきた経験はない。
木が燃えると熱エネルギーが得られることは、偶然見つけたに過ぎず、その時点で使い続けたら将来どうなるかなど当然考えるわけがない。
出たとこ勝負の成り行き任せなのである。
石炭もしかり、石油のしかり、勿論核分裂もしかりである。
(人間とは将来の結果より、今の儲けを優先する本能を持っている生物である)
核分裂力熱発電所の事故はスリーマイルとチェルノブイリと福島だけではない。
その陰に、人智が及ばず発生した事故は数知れないのだろう。
それがたまたま大事故にならないように見えるに過ぎず、予測不可能で発生した事には変わらない。
脆性破壊や照射脆化など危険性を本当に人智が及んで解明されているとはとても思えない。
そんな危険を冒してまで何故生活を維持する必要が有るのか。
たかが熱エネルギーを取り出すことでしかない。切り株と葉
地球は四六時中、これから50億年もの間太陽熱エネルギーに曝されている。
危険を冒して核分裂をいじくっているよりも、全くメンテナンスフリーの太陽熱源を利用することを考える方が至って常識的ではないだろうか。
核分裂力熱発電所のシステムに比べて太陽電池は何とシンプルな事か。
たかが電気である。何で危険を冒してあんなに複雑なシステムを組まなければならないのか、一般の感覚としては正に非常識の何物でもないと思う。
太陽電池は膨大な量は必要だし、世界中の電気エネルギーネットワークは必須だが、太陽電池の様に、誰でもが関わることが出来るエネルギーシステムの方が、誰にでも分かりやすく、これもまた至って常識的なのではないだろうか。
単純に、熱源として「核分裂炉」と「太陽」を目の前に置き、どっちを選択しますかと言った時、大部分の人は当然「太陽」を選ぶだろう。
また、「核分裂力熱発電所」と「太陽電池」を目の前に置き、どっちを選択しますかと言った時、そのシステムの余りにも大きな違いに、大部分の人は当然「太陽電池」を選ぶだろう。
それが大部分の人の理解できる範囲であり、常識的な感覚であるからだ。
学校教育に於いて、もしエネルギーを得る為の客観的な授業をしていたなら、多くの優秀な子供達が太陽エネルギー社会を目指して社会に羽ばたいていったことだろう。枯れ葉
人類が使うエネルギーに専門家でなければ理解できないようなシステムは必要無い。
万人が理解し、納得できるシステムに変えようという思想が必要である。
今私達が今すべき事は、たった0.6ミリの中でも0.1ミリの価値観に依存するのではなく、それまで人類が太陽の恵みにより営々と生きて来られた999.4ミリの歴史を受け継ぎ、改めて進化させようとする意志を改めて持つことではないだろうか。

2011/10/19朝日新聞の〈耕論〉原発と司法、において、原発の安全性をめぐる裁判は、これまでほとんどが原告敗訴だった、ということについて書かれていた。
これまでの原発訴訟で原告勝訴は2例だけ。高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)の設置許可を無効とした03年の名古屋高裁金沢支部の判決と、北陸電力志賀原発2号機(石川県)の運転差し止めを認めた06年の金沢地裁判決である。
だが、いずれも上級審で原告が逆転敗訴した。これらの状況について元裁判官の海保寛氏が語った事について書いてみたい。
先ず、海保寛氏が語る内容に絶句せざるを得なかった。3わら
海保氏は言う。
原発訴訟をめぐっては、最高裁が一つの「判断基準」を示した。要するに「国の審査指針は専門家が集まって作ったのだから、司法としては見逃すことができない誤りがない限り、行政庁の判断を尊重する」これが司法の流れを主導していくと考え、私もそれを前提に判決を書きました、と述べている。
最高裁の「判断基準」を参考にするというのは司法に於ける通例なのかも知れないが、そんな理由で原発という特殊な技術の安全性の裁判に判決を出していたのだと知り愕然とした。
ここには裁判官として、一人の人間として「原発とは一体なんぞや?」という原点を見つめようとする視点が全く入っていない。裁判の判断とはこんな程度なのかと初めて知ることができた。 
これではこの国の住民が救われるはずはない。
何故、行政が言う「専門家」というものが適切な専門家であると判断出来たのか。
行政の判断に何故誤りがないと判断したのか。そもそもスタートの根本からおかしいと言える。要するに、原発について自分では何も判断していないと言う事ではないのだろうか。
裁判官とは行政で言う専門家を単に鵜呑みにして、裁判として判決を出すというセレモニーのピエロをやっているに過ぎないのではないだろうか。
行政の言う専門家の判断を踏襲し、結論とするような裁判官に私達は税金など払う必要があるのだろうか。
初めから、原発(核技術)の問題というのは、今までの一般技術とは全く異なるのは自明のことである。いくら文化系とは言え人間として感ぐらい働かないのだろうか?
その判断もろくに出来ない裁判官に裁判を任せる民主主義のシステムとは一体何なのだろうか。チョウチョ

大体、超強毒性の核廃棄物を出し続け、その処理方法の見通しも立っていない技術を、其れまでの技術と同じ技術であるかの様に軽々しく扱う訳にはいかないはずだ。
どんな事が有ってもfail safe側に移行する事の確証が持てないのが核技術であり、そんな技術を敢えて地球環境の生命圏の中で扱うなど論外なことであるはずだ。核反応はわざわざ生物圏内でやらなくても太陽に任せておけば良いことである。しかし、何故そのことに思いが行かないのだろうか不思議で成らない。
こんなに重大な問題に自分で判断しようという姿勢が伝わってこない。

原発の安全性を検討するのに原子炉内の部分の議論をすることなど、正に重箱の隅を突く様なことであり、本来、議論に値しないことである。にもかかわらず、其れが原発の安全性を本気で検討しているのだと思われていることに恐ろしさを感じる。
また、「しかし、どんなことが起きたら複数の管が同時に壊れるのか。専門家ではないものですから、想定するのが難しい」とも言っている。「専門家ではないものですから、想定するのが難しい」だから、行政が選んだ専門家の見解に従うと言うなら、原発の安全性に対する判断など初めから引き受けるなと言いたいし、裁判をする必要はないだろう。
一般社会から見れば、行政が選んだ専門家というのは、行政に都合の良いことを言っている原発に関わっている人間に過ぎないというのが常識であると思う。そんなことが見抜けずに「専門家」の言う事だから尊重せざるを得ないというような最高裁の判断は何ともお粗末である。
また、「多重防護の仕組みがあり、訓練もなされている。ならば、そうそう大きな事故は起きないのでは」と全く思考停止である。ここでも人間がやる行動の不完全さと、原発の本質との関係について、まるで考えてもいないし、解ってもいないようである。
また「福島第一原発の大事故には衝撃を受けました。一番驚いたのは、すべての電源が失われたことです。原発の安全設計のもとになる審査指針は、長時間にわたる全電源の喪失は想定していません」これも、人間のやることは常に不完全であり、全てを想像することが出来ない、という人間として当たり前のことを理解していない表現である。ボート
想定外と言って済ますことが出来ない原発は、だから人間の扱う技術ではないのである、ということまで至っていないのである。
これらの文章を見ていると、裁判というのは、裁判官というのは、現状の裁判システムを維持する為にあるのであり、少なくともこの国の住民を幸せにする為に有るわけではないことが良く解る。

「すでに米国のスリーマイル、旧ソ連でのチェルノブイリの事故がありました。私は福島の事故のように身近なものとして受け止めていなかった。認識が甘かったと思います。」とも言っている。ここでも想像力の全くの欠如であるし、社会の出来事に対して不感症な生き方をしているのだろう。
チェルノブイリ原発事故発生後、こんな重大な出来事であるから、当然、中学校から生徒に対して何らかの話しがあるものだと思っていたのだが、当時中学一年生であった長女に聞くと何もないと言う事であった。それが何とも不思議な気がした。事故の2〜3日後、たまたま家庭訪問があったので、何故、こんなに重大な出来事である原発事故について何も生徒に話さないのか、文部省などから止められたのか、と聞いて見た。担任は一時間ばかり涙を流しながら無言であった。生徒に話さなかったのは意図的ではなく日本全国でチェルノブイリは他人事であり、鈍感だったのだ。想像力が育てられていなかったのだ。(その後、その担任の先生からチェルノブイリ原発事故の話しがちゃんとされたことを長女から聞き、至って真面目に教育に取り組まれている方であることを知った)わら道

どうせ技術のことなど大部分の国民は分かりぁしない、と高をくくり、専門技術が分らなくてもその善し悪しの判断できる知識と想像力を奪ったのは、文部省を始め国と政治が一体になって行ったのだろうか。国ぐるみで国民を欺き、推し進めたのが原発事業であるのだろう。
もし、原発というのは処分の当てのない超強毒性の核廃棄物出し続ける発電システムであることを明確に教えていたなら、国民はそれでも原発に賛成しただろうか? 
原発とは予測不可能な自然災害に対して完全なるfail safeシステムは出来ない。つまり絶対に失敗することが許されない技術など人類にとって不可能である、ということが教えられていたら、原発に賛成しただろうか? 
地球上に私達生命体が生存できるのは、太陽の核反応や宇宙からの強烈は放射線から守ってくれるバリアがあろからであるのに、選りに選ってそのバリアの中で放射線を発生させるなど、宇宙の生命原理に反する行いである。驕り過ぎも良いところであり、一部の人間にそんな勝手なことを許してはいけない事を教えていたなら、原発に賛成したのだろうか?
今回の事故で、少なくとも原発を置く自治体に膨大な交付金などを与えて同意を得る決定の仕組みが、至って遅ればせながらナンセンスであることが多くの人に認識された。
一旦事故が起これば、お金をもらって良い生活をしてきた自治体だけでなく、お金の恩恵を受けず、その為、無頓着であった、より多くの自治体に属する住民にも、非常に多くの災難をもたらすことが、これも至って遅ればせながら理解することが出来た。電柱
これは原発の置かれる自治体のみという、非常に狭い地域の同意などで原発はスタートしてはいけないという事を再認識させた。何処の原発であろうと、一旦何かあれば国全体が影響を受けるのであるから全国民の同意が必要ということは当然なことである。(今まで通り賛成させたいなら、今まで原発自治体の住民に払っている交付金などのお金を全国民に払うべきではなかろうか?お金の恩恵も受けず、被害だけ被るのは、至って不公平である、という言い方もある)
何れにしても、今回の〈耕論〉の記事は、政治と行政と業界に加え、司法までがぐるになって原発を進めている実態を知る事が出来た。また、裁判官になるような人は、全ての事に対して原点から考えるような人が成るものだと思っていたが、自分では考える事すらせず、行政の要請により最高裁が出した判例を、自分の頭を使わずオウム返しにしている人達なのであることを知った。
裁判官のこの従う態度は、上役に媚びを売り、人生の目的を単に昇進をすることであると決めている人種なのかと勘ぐりたくなってしまう。

民主主義のお題目である三権分立は、何処の国で成されているんだろうか?
三権分立どころか、この国では、行政といっても事務方の一権独裁なんではないのだろうか。
この新聞記事から読み取れることは、司法とは行政の単なる一部所であり、出先機関に過ぎず、行政の太鼓持ちに過ぎないのではないだろうか、ということである。
こんな社会の構造を変えるには、一にも二にも三にもきちんとした政治家を選ぶしかないのだが・・・・皆さん、これから続く世代のために諦めず頑張りましょう!

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