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9月27日の朝日新聞にNISSAN GT-Rとトヨタ/マークXジオの発表が載っていた。当然だが両方ともガソリンで走る車だ。ニッサンがGT-Rを出すのは分からないでもない。これは理解できるという意味ではない。いまだに過去の価値観だけでしか動けないニッサンであれば、今時こんな車を出しても、致し方ないんじゃないかというあきらめの境地である。メーカーも売れそうな物を出すわけで、それはGT-Rのようなクルマを要求する人達が健在であるからだろう。多分、以前のGT-Rよりも燃費(CO2の排出量)は多少良くなっているんだろうが、GT-Rと言う以上しれていると思う。GTR.jpg5年振りの復活だそうだが今もって5年前の価値観に頼らなければならない(5年前と現在の温暖化による環境の変化と、それらが取り上げる頻度と、人の意識がどれほど変わったことか)とは、何とも情けない感じがする。ハイブリッド車が走っている時代にもう少しましな企画があるのではなかと思う。
問題はプリウスを出しているトヨタである。セダンとワゴンとミニバンの3役をこなせるのが特徴というマークXジオを出した。エンジンは2.4リットルと3.5リットルの2タイプ。内容は所詮4輪の車に過ぎないのだから、なんだかんだと言ったところでそうは代わり映えがしない。問題は何でハイブリッドでないかということである。X.jpg折角独自技術を開発したのに何故それを使わないかということである。値段から言えばプリウスクラスであり、マークXジオが買える人は当然プリウスが買える人達である。つまりマークXジオはプリウスと競合する車である。このことはプリウスには目もくれず、ハイブリッドでない車を選択する人達がいまだに圧倒的に多いことを意味しているんだろう。だからトヨタは相変わらず単なるガソリン車を生産し続けているんだろう。確かに多くが買ってくれる車が有ってこそ企業は成り立つのだろうが、ハイブリッド車があるならもっと戦略を変えられないんだろうか。ハイブリッド車のTVコマーシャルは少な過ぎるし、内容ももっと考えるべきではなかろうか。
プリウスに乗ったことがない人達は3っのことを決まって言う。その1、加速が悪い。その2、スピードが出ない。その3,格好が悪い、である。現に乗っている人にとってどれもほとんどストレスにならないし、不満を感じていないだろう。しかし乗っても居ない人からそういう批判が出るということは原因があると思う。一つにはメーカーがそういうことを一生懸命言わないことであるが、もう一つはこれが大きいと思うのだが、街を走っている一般的なプリウスの走り方に有るのではないだろうか。それはプリウスをあえて買う人は、加速力が有るにも関わらず、そんな機能にもう興味がないため、出来るだけ急加速をしないようにしているからだろう。急加速をしたところで、目的地に着くまでの時間は1分と変わらないのに燃費は非常に悪くなってしまうことを理解しているからである。時間が半分にでもなるなら「時は金なりで」それなりに価値があるのかもしれないが、一般的には急発進、急加速することにほとんど何もメリットもない。プリウスが急発進しないことで他の車もゆっくりスタートすれば、その分燃費が下がり全てにメリットが有るのではなかろうか。
その2のスピードの問題はその1とオーバーラップするが、プリウスのディスプレイに刻々と燃費が表示されることと、チャージした電池でかなりの距離が走れるため、アクセルを切って惰性走行でチャージしながら走ったり、モーターで走ったりと任意に燃費を調整しながら走るために起こる。つまりスピード優先(CO2排出量優先)でなく燃費を最優先にする走り方のために起こることである(この場合、あまり車の流れを悪くするのはどうかと思うので、後ろを気にしながらタイミングを見て左に寄って後続車に先に行ってもらう配慮も必要である)。20070929111954.jpg
その3のスタイルの問題であるが、特に車のスタイルは時代と共に大きく変わってきている。つまり今のスタイルは今だけ通用するスタイルに過ぎず、時間と共に変化するのが必然である。何時の時代でも新しい価値観を持って登場した物は、特に最初の内は否定的に見られる宿命にある。格好悪いプリウスに比べ、格好いいと言われている他の車の形は、エネルギーが金でいくらでも買えて使えると錯覚していた時代に作り上げられた価値観に基づいて作られたのだと思う。車は一般的に何十万台も作られる大量生産品の一つに過ぎない。そのためどんな形の車を選ぼうと所詮何十万人の人が買って持っているんだから、少なくとも自分自身のステイタス的存在物にはなり得ない。つまり単なる便利な道具に過ぎないのだから、デザインに対する感覚も、もうそろそろそれも変えて良いんじゃないだろうか。
これからの形という物は、形として必然的に存在すべき価値のある形が追求されて行くだろう。つまり少しでも温暖化を抑制するための形になって行くだろう。単なる主観は廃しされ、飛行機や新幹線のようにあらゆる抵抗値を最小にするような形が徹底的に追求されるだろう。そして誰が見ても客観的に納得する形が生み出されて行くと思う。これは車に限らず住宅も全く同じ道をたどるだろう。
最後に、トヨタはもっとプリウスの加速が良いこと、スピードが出ること、燃費の良いこと、居住性の良いことを宣伝すべきである。そして一度プリウスに乗ってしまえば、エンジンを掛けてる必要のないところではエンジンを切るという常識に気が付くだろう。燃費を良くする走り方とはどういう事か気が付き、すぐさまプリウスのファンになるだろう。
温暖化による環境の悪化は決して待ってはくれない。気分だけでは何の意味もない。実行有るのみなのだが・・・・
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2007年9月14日日本の本格的な月探査機「かぐや」打ち上げられ、順調に飛行しているようだ。小さい頃からロケットに興味がある私としては何となくワクワクし、感慨深い。人類が初めて人工衛星を打ち上げに成功したのは、忘れもしない1957年10月4日旧ソ連による「スプートニク1号」である。中学1年の時であった。それまで初めての人工衛星はアメリカ海軍のバンガードロケットが打ち上げるものとばかり思っていたが、失敗ばかりであり、その中での突然のスプートニク打ち上げに随分とびっくりした。H2.jpgその後バンガードロケットは1958年3月17日にやっと人工衛星を打ち上げたが、アメリカでも2番目に成ってしまった。1番目はピンチヒッターで急遽登板した陸軍のジュピターロケットが、ソ連に遅れること約4ヶ月1958年1月31日にエクスプローラー1号を打ち上げた。これは後のアポロ計画を成し遂げたドイツ人フォン・ブラウンによってなされた。彼は第二次世界大戦の時、ドイツにおいてV-2号という慣性誘導の弾道ロケットを初めて完成させた。日本のロケット技術の開発がスタートしたのは1955年4月12日に実験されたペンシルロケットが最初である。これは東大生産技術研究所の糸川英夫教授が中心になって開発された長さ23cm、直径1.8cmのいたって小さなロケットだった。当時小学5年生であったが秒速100mで水平に飛んだという報道に「あっ、という間に100mか!」とクラスのみんなで随分びっくりし感激したのを憶えている。あれから52年、「かぐや」打ち上げを見ているとその技術の進歩に本当に驚かされる。ペンシルロケットはその後ベビーロケット、カッパーロケット、ラムダロケットと進化し、1970年2月11日、フランスに次いで日本を世界4番目の人工衛星打ち上げ国にしてくれた。ラムダは更にミューロケットへと進化し、世界最大の固体燃料ロケットになった。その最大の物は全長30.7m、外形2.5m、重さは139tである。20070927093216.jpg長さは133倍、外形は125倍、重さは何と70万倍である。(「かぐや」打ち上げたのはペンシルと違う技術の経路により開発されたH-2液体燃料ロケットである)
ペンシルロケットに感激した当時、どうしても自分でもロケットを飛ばしたくて、アルミ製の鉛筆キャップにマッチの頭を削り取って詰めたり、花火から抜き取った火薬を詰めたりして飛ばすことを何度も試みた。荒川土手のグラウンドでドキドキハラハラしながら一人で実験(遊んだ?)したことを良く憶えている。
その後、方眼紙に一応定規を使ってロケットの設計図(単なる絵?)なるものを書いて楽しんでいた。その中で、とても良い気分にさせられたことがあった。それは前記したアメリカの人工衛星第一号を打ち上げたジュピターロケットシステムが当時書いた図と一緒だったことだ。それは先ず小さいロケットを開発し、それを束ねて大きなロケットを作るという考え方である。ジュピターロケットシステムは正にそれだったのだ。つまり1段目のレッドストーンロケットの上にサージャントという小さな固体燃料ロケットを束ねて多段化したもので、考え方が同じだった事に鼻高々だった(但し、誰も興味を示さないので、みんなに吹聴したわけでない)。20070927093333.jpgその後も自分独自のロケットを作りたくて、霧吹きの原理を使い、水の変わりにアルコールなどの燃料を入れ、口から吹き込む空気の変わりに授業で習ったばっかりの二酸化マンガンと過酸化水素から発生した酸素ガスを使った、世界初の気体液体燃料ロケットの構想(今考えると着想は面白いがどう見ても飛びそうにない)などを練って悦に入っていた。そんなことをしていたもんだから、本命であるはずの学業もかなり疎かになり、その後色々な目に遭うことになった。
ペンシルロケットは今から見ればまるでおもちゃのようであるが、それがミューロケットまで進化するとは誰が予測できただろうか。反対に今ミューロケットからペンシルロケットを想像できるだろうか。ささやかなスタートでも一歩一歩確実に努力すれば世界一のミューロケットにも到達できることを、日本のロケット史は教えてくれているような気がする。
温暖化も同じような気がする。どんな些細なこともそれがもたらす将来の結果はミューロケットの重さのように、何十万倍に膨らまなければよいのだが、もうその兆候は見え始めているのではないだろうか・・・・
『写真提供 JAXA』

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快適に生活をしようということは人間の本能である。その為の努力が文明の進化をもたらしたのだろう。どんな時代でも人間はその風土の中で、その時代なりのベストを尽くしてきたのだと思う。今見ると、昔の家は暗く隙間だらけで寒い家という印象ばかりが誇張されているが、その当時はそれなりに最も住みやすい家であったはずだ。暗くて寒いというのは今の感覚で見ているからに過ぎず、夏の過ごしやすさを追求し工夫した結果の最良形だったんだと思う。寒いと言っても、家の中は最も暖かくて快適な空間だったことは想像できる。いずれにしても利用できるエネルギーは自然しか無い中で、最も快適な生活を自然の仕組みを徹底的に利用して、工夫して作り上げたのだろう。しかし、化石エネルギーが潤沢に入ってくる時代になると、つまり自然のエネルギーを無視して化石エネルギーを勝手気ままに使えるようになると、もう自然エネルギーなど使う必要が無くなったと決めつけてしまったように思う。
20070924002518.jpgそれが、あたかも永遠に「絶対的な当然」であるかのような錯覚まで作り出してしまったんだろう。
その為、日射を遮る家の構造も必要なくなってしまい、設備を持って、つまり化石エネルギーを好きなだけ投入することによって、快適さを達成すれば良いと考えるようになってしまったんだろう。
エネルギーと言えば、化石エネルギーのことになってしまい、自然エネルギーつまり太陽エネルギーは蚊帳の外に追いやられ、家と設備がペアでなければ快適な生活は得られないという概念ができあがってしまったのだろう。しかし、いくら良い設備があっても、化石エネルギーが無ければ単なる鉄くずにしか過ぎず、快適さは得られないため、家は住まいでなく単なる箱にしか過ぎなく成ってしまうのだが・・・・
言い換えれば家は二酸化炭素の排出無くして快適さは得られないということになり、こういう概念が確立したことにより、家の形はエネルギーとは関係なく(エネルギーは設備に任せてしまった)、主観的な好みによって作る形となってしまったのではなかろうか。そして目先の快適さを追求する住まい手により益々二酸化炭素を大量に吐き出すことになってしまったんだろう。
20070924002220.jpg今日の新聞に北極海の氷が史上最小になったことが出ていた。遙か彼方の私たちの目に届かない所での出来事であり、想像力を働かせない限りそのことを実感することは出来ない。しかし、異常事態は予想をはるかに上回って進んでいるように思う。今全てを見通せる人(地球を俯瞰しながらデーターを集めている人工衛星がそれに当たるのかもしれない)がもしいたら、多分、「一度、二酸化炭素の排出は全て止めろ!」と怒鳴るのではないだろうか。
せめて、生活をしている住まいからの二酸化炭素の排出を、如何にゼロに近づけるか、一人一人が工夫し努力しなければならないだろうし、社会的な規制も掛かるだろう。
今までのような、設備を積極的に入れれば入れるほど、つまり化石エネルギー消費の多い家ほど高級であり、快適であるという考え方は改めねばならないだろう。これはもう好みの問題ではないと思う。住まいのエネルギーはもうとっくに買って手に入れる時代ではなく、自分で取り込み溜め込み使う時代に移行すべきであるのだろう。快適な住まいとは、地球環境にも住む人にも優しく快適でなければならない。自分のことだけを考えた生活は立ちゆかなくなるだろう。その為の住まいの形はどうあれば良いのかを、考え直す時が来たように思うのだが・・・・

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テレビからカナダが京都議定書の約束が達成できないというニュースが流れた。詳細は良く分からないが、経済成長が予定通り伸びないことが理由らしい。
一般的に考えれば、こういう理由の現実があってもしょうがないのかなと思いつつ、何とも釈然としない。カナダからこういう判断が流されると、自分も人間のつもりだが人間の事が改めて分からなくなってしまう。温暖化対策も大事だが経済の方がもっと大事だ、と今時まだそんな悠長なことを言っていていいの・・・・
必死で努力して知恵が出なかったのならしょうがない気もするが、反対勢力が強かったからだとか、無頓着な国民が多いためだという理由だったら人類はもう救われないのかもしれないと思うのは私だけなのだろうか?
本当にカナダ人はそれで良いと思って居るんだろうか。だとしたら、人間って一体全体何なのだろうか、などと他国のことを取り上げてばっかりはいられない。
テレビから街頭で「次の総理に何をしてもらいたいですか」という質問に対して、「温暖化対策」なんて言う人は一人もいない現在の日本。バカの一つ覚えのように「経済をもっと良くして欲しい」だと。一年中酷暑にでもなれば一年中南国のバカンスが楽しめ、外国人もたくさん遊びに来て経済も万々歳とでも思っているんだろうか・・・・
20070921135206.jpg日本の多くの国民がその程度のことしか言わないから、政治家だって票にならない「温暖化対策」なんて勉強するはずもないし、希望の持てる具体策なんて考えるはずもないのだろう。
温暖化対策に取り組むと言うことは、簡単に言えば「新しい社会システムの再構築」ということじゃないんだろうか。新しい価値基準に則って社会を新しく作り直そうよ、という事じゃないのか。これは正に経済活動そのものではないだろうか。ちょっと前の何処かの総理大臣が盛んに言っていたように「古い○○はぶっ壊す!」という実績があるのだから、もう一度「温暖化社会はぶっ壊す!新しい快適な社会に作り直す!」とぶち上げる政治家が出てこないものだろうか。まあ「○○をぶっ壊す」程度は随分ちっちゃな話だけど、それすらも今は言わなくなっちゃった。というよりも、ぶっ壊すのを待っていないで「取り替えちゃお~」と言うことになってしまったのか・・・・
古い体制(社会)をぶっ壊した後は必ず経済が発展していることは歴史が教えてくれていることである。江戸幕府体制が崩れ、明治維新に成ったこと然り、終戦により軍国主義体制が崩壊し、今に至っていることもまた然りである。但し旧体制内でうまくやっていたからと言って、新体制でもうまくやれるかというとその保証はないため、今うまくやっていればいるほど新しくなることに反対するのも人情だろう。でもどんなに反対してあがいても、歴史の変化がいったん動き出してしまえば、もうだれも止めることは出来ないことぐらい、これも歴史が証明してるし、誰だって分かっているはずなのに、なんて人間は未練たらしく現在にばっかりこだわるんだろう。面子もあるし、折角手にしたうま味を放したくないんだろし、見通しの出来ない新しい社会への恐怖心もあるのもまた人の常であるのも分かるが・・・・
20070921134817.jpgいずれにしても、温暖化が進んだ極悪な自然環境の中で経済活動をするより、ぱっと頭を切り換えて快適な自然環境の中で経済活動を営む方がどれだけ楽しいか、考えてみなくたってアホでも分かることだと思うのに・・・早く温暖化を終息させて、その為にはちょっとぐらい犠牲は出るのかもしれないが、いや、今回は他国と戦争をするわけではないので、誰も犠牲なんかに成らず新しい経済社会に拡大できるのだと思うのだが・・・・
人類は産業革命という二酸化炭素を激増させるエネルギー革命を成し遂げ、大きく振り切った振り子を、今度は二酸化炭素を出さないエネルギー革命という反対方向に動かそうとしている。これは多分歴史の必然なのだろう(但し人類が生き延びればの話だが)。だとするとやはりこれは人類最後の産業革命であり、二酸化炭素を出さない新経済社会の始まりと言えないだろうか。爆発的に拡大する新ビジネス社会の始まりじゃないだろうか。
エネルギー維新だ!と誰でもが「今度は俺が坂本竜馬に成ってやるぞ!」と言えるなんて楽しい社会ではないだろうか。
国や政治の動きを待っていたって、らちなんって明くはずもない。そんなレベルのスピードを待っていたんでは、自分や家族の人生すら守れないと思うのだが・・・・

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ひょんな偶然から現在まで28年間、色々な床暖房の仕事をしてきた。後半の11年間は独自に開発したアクアレイヤーヒーティングシステム(http://www.izena.co.jp)という床暖房を主な仕事にしている。これは水の大きな比熱と自然対流を利用して、熱をたくさん溜め込み拡散させる機能を持った床暖房である。床暖房を始めた頃、初めて接する建築業界に随分戸惑い、理不尽な思いをさせられた。その中で特に暖房機器としての床暖房の取り扱いが理屈に合わないことに気が付いた。それは家本体の設計が終わってから、つまり室内の温熱特性を決めてしまう断熱仕様、開口部の大きさ、サッシとガラスの種類、それに床暖房の設置できる面積などの全てが決まってしまってから、その中に床暖房を入れて暖房しようということである。いまだにこういう設計方法が平然と通用しているには三つの理由があると思う。20070919224936.jpg一つめは、家の中の温熱環境というものが、エネルギーをお金で買ってくればどうにでも成る、というそれを可能にする社会的前提があるからだろう。だから設計の最後になって暖冷房機器の選定をするということになり、またそれが通用したのだろう。その為一部の人達を除き、設計の過程で太陽熱を出来るだけ本体構造の中に取り込んでエネルギーを倹約しようなどという思考が育たなかったんだろう。二つめは、ちょっと想像逞しく成るが、明治維新で西欧の建築の形だけを取り入れたことではないだろうか。西欧文明を良くかみ砕き消化する前に、それまで風土の中で進化してきた木の建築を遅れている物として切り捨て、レンガによる欧米の家の「形」を取り入れた事にあるんじゃないだろうか。それ以来、住まいとは風土の必然性よりも、表の形を重視した物になってしまい、寒さ対策としては、その時同時に入ってきただろうスチーム暖房をすればいいや、と言うことになったんではないだろうか。そのことが家の形と暖房を切り離すことになり、今の設計概念を生み出したのではないかと想像している。三つめは、床暖房とそれ以外の暖房機器とを同じ暖房機器ということで、その特性を精査することもなく、ムード的に取り扱っていることである。「熱」とは本来純粋な物理現象でもあるにも関わらず、住まいという主観的で曖昧な中の一部として扱われるため、本当の熱の重要さが理解されずに来てしまったのだろう。それらの結果、家とは「住まい」であり、それは温熱環境も構造の一部として考えるべき物であったはずが、分離してしまったのではないだろうか。これでは温暖化を少しでも低減させる為の住まいの設計は出来ないのではないだろうか。人の住まいを設計することは、エネルギーの消費を設計することであり、二酸化炭素の発生量を設計することであると思う。社会に対して責任ある「住まい」の設計とは、温熱環境の設計とはどうあるべきか、これからますます考えてゆかねばならないだろう。

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今、仕事の方向を大きく変えようとしている。温暖化を少しでも遅らせ時間を稼ぐために、自分に何が出来るかを考えなければならないからである。太陽電池を設置し、プリウスに買い換え、自転車で旅に行ったことぐらいで満足しているわけにはいかない。これはもう実行していることだし、それはそれとして次に何をするかを考えねばならない。今までやって来たことが温暖化を招いたのだから、単純な話、更に今までと違うことをするしかない。それを分かりつつ実行しなければ、やはり人生に悔いを残すことになると思っている。仕事も当然変える必要があるのだが、そうは言っても今すぐ全てを手品のように変えてしまうことは出来ない。先ず自分が今まで考えてきたことを出来ることから実行に移すしかない。その為には、今までやって来たことの分析と反省が必要になる。20070918074818.jpg私にとっては「床暖房とは一体何なのか」ということを改めて問い直してみなければならない。床暖房とは何かというと、いろいろな捉え方があるだろうが、その大きな一つに電気やガスや灯油のエネルギーを使って床を温め、暖房する物だということである(つまり二酸化炭素を出すための物である)。これは致し方のないことだが、こういう物を扱ったため地球温暖化に大いに貢献してしまったのである。社会通念上いたって真面目に仕事をしたことが環境悪化をもたらした訳だが、「致し方がない」からと言って見過ごす訳にはゆかない。反省し、新しい手を打たなければ温暖化はますます加速し、ますます住みにくい環境になってしまうからである。
それでは温暖化に貢献しないように仕事をするにはどうするか。これも理屈は簡単、今までの考え方の基づいた床暖房を止めればよいということである。つまり電気やガスや灯油を使って床暖房をすることを止めればよいのである。二酸化炭素を出さないエネルギーに変えればよいのである。太陽エネルギーに変えればよいのである。そうすれば二酸化炭素は全く出ない。仕事は先ずこれで新しくスタートしようと決めた(但し、今すぐ今までのアクアレイヤーを止めてしまうわけではない)。そう決めたことが集熱床材の開発につながり、10月10~12日の第二回新エネルギー世界展示会でお披露目することになった。


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温暖化のことが、一年前には想像できないほど多くの人の話題になってきた。その状況の変化は激変と言えるほどである。なにしろ、あの温暖化に対しては全く無頓着で能天気だった何処かの大統領までが言い出した(今に至っても単に政治的なポーズに過ぎないのかもしれない。だとしたら救いようがない)くらいだから、よほど尋常ではなくなっているんだと思う。何%ぐらいの人が温暖化のことを気にしだしたのか分からないが、かなりの人が大変なことになりそうだと思い始めたのは間違いないと思う。人々の状況がこのように変化してきたことは何を意味するんだろうか。自然環境の変化に特別興味もないと思われる人達までが気が付き始めるということはどういう事を意味しているんだろうか。つまり少しの変化程度では何も気が付かないであろう人達までが、おかしいと思い始めたことは、第六感が動き始めるほど変化が顕著に成ってきたからであろう。20070916105757.jpgそういう現象は一般的には末期症状を意味するのだと思う。ちょっと違う例かもしれないが、企業の開発会議において新商品の検討をする場合、役員の大部分が反対するような商品であれば、開発を決定すべきであり、賛成するようであれば新規性に乏しということにで却下すべきであるという事がよく言われる。多くの人が賛成するということは、似たような物が既にあるため誰でもが簡単に想像できたことであり、今更時間と金を掛けて世に出しても新商品としての意味がないということである。
二酸化炭素の増加グラフを見ると既に加速度的な増加域に入っていることが分かる。このグラフが意味するところは二酸化炭素量が空気中に含まれる適切な量を大幅に超え、尚かつ今後も急速に増え続ける事である。つまり植物などにより吸収される量を大幅に上回っている事を意味している。この状況を普通の感覚で捉えると、自然のシステムが余分な二酸化炭素を吸収し終えるまで二酸化炭素の排出を抑えようという感覚が当然であろう(例えば食べた食物が胃の中で消化されず、食道の途中まで詰まっているところへ、また詰め込んでいるようなものである)。つまり、今は本当は人間の行動によって排出される二酸化炭素を一端ゼロにしてじっと時間を稼ぎ、余分な二酸化炭素が自然界で吸収されるのを待つのが本当は取るべき道なのではないだろうか。それが自然な人間の感覚なはずである。現在の状況は6%減らせば良いのだなどという甘い状況では決してないのだと思う。ところで、地球上の自然界が持っている二酸化炭素吸収能力とはどのくらいなんだろうか。20070916105842.jpgそれが分かれば全世界の国が排出して良い二酸化炭素の総量が決まることになる。それを国ごとにどれだけ分配するのかは大変な事になるだろうけど、本当はやらねばならないことだろう。大紛糾になり、成り行きに任せておけば戦争にも成りかねないだろうから、この際、全人口で割って一人あたりの量を均等に出すしかないだろう。また何か問題が出そうだが、その後、生活の仕方に会わせて排出量を売り買いするしかないだろう。いずれにしても一時今と違う基準で生きなければならないことになるだろうが、そのくらいは率先して我慢する必要があるだろう(戦争を強制され、意に反して命を失った人達の人生を考えればたいしたことでもないだろう)。これからはそういう時代を覚悟すべきだろう。温暖化を防止しようという目的は、単に二酸化炭素の排出を抑えた生活をすることではなく、エネルギー源の全てを太陽に変え、澄んだ空気と水の環境を取り戻そうという戦争なのかもしれない。

IMG_3316*.jpg孫の名前は七威斗「ナイト」と言う。由来はともかくとして、今では当人は勿論、周りもすっかりこの名前に馴染んでいる。何時までも「ナイト」の心意気を忘れないで生きて欲しいと思う。そんな訳で五月の節句は鎧甲でなく甲冑を飾っている。但し、小さいが鯉のぼりも飾っているので、EUと日本が合体したような何だか訳も分からない節句の雰囲気である。
甲冑は写真の通り全身ではない。これは勿論ナイトのためにわざわざ作ってもらった物であり世界に一つしかない。作者は私の20年来の友人の鍛鉄作家の川合さんだ。現在、山梨県富沢町に工房があり活躍されている。お願いしたら快く引き受けてくれたが、初めての甲冑なのでだいぶ手こずったらしく迷惑を掛けてしまった。かぶることは出来ないが鉄板をたたき出して作ったのだから、まあ本物の甲冑の様な物と言えるだろ。結構迫力はあり大変気に入っている。写真のまん中の盾は照明であり、川合さんの師匠の松岡さんに作ってもらった。上の槍の様な物は鯨漁の銛を模したもので、はやはり松岡さんの弟子の前川さんが作った物である。いずれも鍛造したもので自慢の品だ。20070913130630.jpgヨーロッパで進化した甲冑と我が日本の鎧は同じ戦闘用でありながら随分と形が違う。風土による歴史の違いが生み出したのだろうけれど、どうしてこれほど違ったのか時間が出来たら是非調べてみたいと思っている。これは単なる思い付きの私見に過ぎないが、甲冑を作る技術が産業革命とつながっているし、クルマや航空機の発展の土台を作ったような気がしている。また甲冑と鎧の違いに洋服と着物の違いがあるように思う。甲冑は体の線の通り作ってあり、正に洋服と同じ思想に基づいて居るんだろう。鎧はやはり着物と同じ様にひらひらとした感じがあり、同じ風土の上で生まれたことを物語っている。20070913130650.jpg甲冑を進化させたその思想と制作技術が機械技術を進化させ、最初に産業革命に到達したことと関係があるようにも思えてならない。また甲冑を見ているとロボットを連想するが、鎧からは余りイメージが湧かない。しかし、現在ロボットは鎧の日本で進化していて、ヨーロッパではそれほどでもないのも面白い現象である。このように、どうしてそれが生まれたのかを調べることには非常に興味あることである。やはり物を新たに作り出すと言っても、いきなりそれがポンと出てくるわけではないし、必ず出てくる風土的必然性があると思うし、その技術の歴史を遡り、その思想の流れを知ることはこれからの技術開発にも大切なことである。20070913130715.jpg甲冑をより進化させるために板金を含めた金属加工技術が大きく進化したのではないだろうか。甲冑を作る文化は産業革命を生み出したが、鎧を作る文化だから産業革命を生み出せなかったのかもしれない。合理性より美的感性が優先されたからなのだろうか。しかし、刀は最も進んだ金属加工技術の一つだと思うのだが、どうしてそれが機械社会に進化しなかったんだろうか。甲冑はどう西欧合理性の思想と結びついているんだろうか、興味津々である。20070913130734.jpg歴史を遡り、現在まで続いている流れを知ることは、未来を見通すことに通じると思う。未来は見えないのだから、過去の出来事から想像するしかないからだ。
甲冑文化が産業革命とつながっているなら、また温暖化ともつながっていることにもなる。
温暖化を生み出した人類を理解するためにも甲冑の変遷を知ることは、もしかしたら面白いことなのかもしれない。
大河ドラマ風林火山の1シーンに鎧甲の騎馬武者達が丘の上を軽やかに疾走しているシーンが出てくる。何とも勇壮に見える。これが甲冑の騎士だったらどうなんだろうか・・・・

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現在「エコライフ」「エコな生き方」、「スローライフ」等という言葉を良く耳にする。これから来る時代(もう来ていなければならないのだが・・・)の新しく作られるだろう価値基準の引き金になる生活の仕方であろう。しかし、一般的な捉えられ方はかなり誤解されているような気がする。エコ=我慢する、ささやかに生きる、慎ましい生活をするというようにある種のマイナスイメージに捉えられているのではなかろうか。したいこともせず、電気やガスなどのエネルギー消費をケチり、水道水をちょろちょろ出して使い、出来るだけ車に乗らず、歩いたり自転車に乗り汗をかき、野菜は庭で作り等々のイメージである。今までの慣れきった常識的な生き方から見ると、かなり押さえた生き方、金を使わない(というより金が出ていかない)生き方のように感じられるのではないだろうか。
「エコな生き方」とは、より二酸化炭素を出さない地球環境にとって合理的な生き方のことではないだろうか。それに比べ、今の二酸化炭素を排出する一般的な生き方は、結局、温暖化により悪化した環境を回復させるために莫大な金と労力を今後費やさなければ成らないのだから、とても合理的とは言えないだろう。そう考えると「エコライフ」「エコな生き方」とは慎ましやかで、我慢した、貧相な生き方のことだと決めつける訳にはいかないだろう。クルマで考えてみるとどうなるか。以前持っていたインプレッサのガソリン消費量(二酸化炭素の排出量)に比べて、今持っているプリウスは約1/3である。それだけプリウスを持っている方が「エコな生き方」と言える。勿論プリウスで旅をするより、自転車の旅の方がよりエコであるが。それではエコなプリウス、よりエコな自転車はつましい生活をするために存在しているのかというとそうではあるまい。貧相な時間の使い方なのかというとそうではあるまい。1/3の二酸化炭素排出量で同じ距離を走るからと言ってプリウスの運転が楽しくないなどということはない。プリウスは他人が迷惑を掛けるだけに過ぎない排気音を楽しむクルマでないし、急発進による加速感を楽しむクルマでない。コーナーをきしみ音を出して走り抜けることを楽しむクルマでないし、歩行者にその存在を誇示するクルマでもない。まして個人の主観によって異なる単なるデザインによって選ぶクルマではない。プリウスを所有することは以上のような価値観を楽しむためではないのである(だからといって、プリウスがクルマとしての走る価値が低いわけではない)。プリウスはそれらとは違う楽しみを得るために買うのである(但し、いくらプリウスといっても他のクルマに比べてましだという程度であり、相変わらず排ガスを出すクルマには変わりない。プリウスも乗らなければ乗らないほどエコな生活である)。IMG_3611*.jpg
つまり「エコライフ」「エコな生き方」とは、単に楽しみ方を変えることなのだと思う。価値の捉え方を変えることなのである。今までの生活と比較することではないのである。クルマの旅と自転車の旅を比較して、その楽しさの優劣を言い合ったところで何も意味がないだろう。それと同じように、今の生活と「エコライフ」「エコな生き方」を比較してどうのこうの言っても意味のないことである。
究極な「エコライフ」「エコな生き方」とは、生活の中で二酸化炭素を出すエネルギーを使わない生き方のことだろう。それは慎ましいどころか太陽エネルギーを大いに使って、今より更に快適な生活を目指すことだと思う。「エコライフ」「エコな生き方」とは、生きる楽しみ方の視点、つまり価値の内容、今までの常識というものをちょっと変えた生活のことなのである。
つい何年か前にディーゼル車の排ガス規制がスタートした。その時巷ではそれに反対する一部の人の動きがあった。ディーゼル車を使って生活している人達である。その気持ちも分かるが、健康的な見地からと、地球環境的に筋が通った論理の前には従わざるを得なかった。一般の人は「エコライフ」「エコな生き方」をしている人達をまだ「趣味でやっている」程度にしか捉えていないところ有るが、今の地球環境から見れば、どちらが筋が通っている生き方なのかは一目瞭然であろう。
また「エコライフ」「エコな生き方」とは、他人に出来るだけ迷惑を掛けない生活の事とも言えるし、工夫で物事を解決する生き方とも言えるだろう。いまだに価値観の視点を変えず、今の生活を続けることは(今までのいわゆる社会に迷惑を掛けない生活)、自分の意図には関わらず温暖化を加速してしまい、何とか温暖化を阻止しようと頑張っている人達に対しては勿論、結局は自分の子供や孫にさえ迷惑を掛けることになるのではなかろうか。




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この100年の間の新しい発明やその質の変化は社会に劇的な変化をもたらしたが、その結果として最後に指数関数的とも思える温暖化環境の悪化現象に曝されることになった。
そうなって初めて、人間の生き方の根底に流れている思考が「先を考えない便利さ」の追求であったことが明白になった。
便利さの指数関数的拡大に伴い、それに比例するように温暖化も拡大している事にやっと気が付いたからである。
便利さの増加はエネルギー消費量の激増をもたらしたのだ。
発明とは「こうしたい」「こうあったら良いな」という思いが生み出すものである。それは言い換えると「思いつくまま」の行為と言えるのではないだろうか。しかしこれは人間の本能であり、それに基づいた欲望である。理性を含まない単純な欲望(「欲しい」という本能だけで行動し、先のことは考えない欲望)であるように思う。
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そして「思うままに」それらが成し遂げられる社会的環境を「自由」(勿論自由はもっと多くのことを含んでいる)であるとして、さらに自由度が増すように政治的努力をし、社会を形成してきたのだろう。自分はこうしたい、こうありたい、こうあって欲しい、という気分の赴くままに人類は世界を作り上げてきたのではなかろうか。気分の赴くままの結果は、一切「未来を考えない」(というより考えられなかった、が正しいだろう)文明を作り上げることに成ったのだろう。
人類は少なくとも何万年もの間は非常に緩慢な文明の進化の中にいた。つまり進化に対して非常に長い時間を掛けて生活に馴染ませながら次の進化に向かっていたと思うのだが、それがこの100年ばかりの間は馴染む前に更なる進化という、今まで体験したことのない正に核分裂のような指数関数的な変化に曝されることになり、ますます未来を予測する能力を身につけている余裕が無かったんだろう。しかし、それが文明であり、それが全く正しいと思って謳歌してきた。
そこに突然、新しく開発した便利な物が世に出すのは良いが「その後の結果まで考えろ」という、今まで全く考えたこともないことを考えさせられることになった。
IMG_3623*.jpgつまり極端に言い方を変えると「二酸化炭素を出す物は作るな」ということである。
それは少なくとも今まで何とも思わず肯定され、営々と築き上げられてきた「常識」が、今度は全く逆向きの「非常識」なんだと言われることなのである。これこそ「晴天の霹靂」、それらを目の前にして戸惑い、今までの常識にしがみつこうとするのは人間として当然であるが、それさえも否定せざるを得ない状況に立ち入ってしまったのが現在ではないだろうか。
9月5日のテレビで、人類が滅びるまでの時間は2時間29分しかないということが放映されていた。つまり現在は9時31分だということである。この1年で15分時間が進んだそうだ。何が基準なのか良く分からないが、こんな捉え方が出てくること自体やはりせっぱ詰まって居るんだろう事が想像できる。
いずれにしても、どうもかなり時間はなさそうだ。今すぐに、どんな些細なことでも今の自分にとっての「非常識」を実行して行く必要があるのではないか・・・・


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子供達とよくキャンプに行った。キャンプは人間の生活の原点に近い行為である。キャンプ生活をすると実際の生活で何が必要なのかがとてもよく見えてくる。キャンプといえば先ずテントであり、焚き火である。テントは夜露を防ぎ、雨風や寒さから身を守ってくれる必需品である。いつでもそうだが、テントを張り終えその中に入った時のあの安堵感は何とも言えないものがある。たった1枚の布に過ぎないテントだが心理的な防壁としては十分に働いてくれる。人間とっては布1枚でも状況に応じて立派な住居になり得るのだ。IMG_3715*.jpg自転車の旅で雨にあい、飛び込んだ軒下や木陰も大きな安堵感を与えてくれる。こんな体験をしていると住まいという物はいたって相対的な存在価値であるのだなと感じてしまう。つまりその時の心の持ちようでいかようにも成る物なのではないだろうか。但し、そこに「熱」が無いと「住まう」「生活する」「生きる」ということは成り立たなくなる。「熱」つまり「エネルギー」の消費が行われて初めて「人間の住まい」になるのであって、「エネルギー」が無ければ単に動物の「巣」と同じである。
現在はまだ「エネルギー」は無尽蔵に金で買える物という風に錯覚されている時代である。それは「エネルギー」が「石油」と「原子力」によって見えないところで供給されているからであろう。供給された結果(二酸化炭素や核廃棄物の排出)も自分の目で見ることが出来ないため、ほとんどの人は今でもまるで気にしないのだろう。IMG_3616*.jpgしかし、人間は見えない物に対して想像力を働かせるという能力を与えられているはずなのだが、どういうわけかその折角与えられた能力を機能させようとはしていないように見える。
人の住まいになるだろう可能性のある「箱」、通常これを「家」と言っているのだが、これを「住まい」にするためには「エネルギー」の消費が絶対必要になる。「エネルギー」の消費が考えられていない「家」は血の通わない単なる「箱」に過ぎないのではないだろうか。
今まで「エネルギー」を消費することは二酸化炭素の発生が当然(これは意識はしていないが)であり、その結果、温暖化といういたって厄介な問題を背負い込むことになった。今の状況の全てがよく見えるわけではないが、いろいろな情報から判断し想像力を働かせると、悠長なことは言っていられない局面に入ってしまった様に思う。つまりもうこれ以上「二酸化炭素」は出してはいけないのではないだろうか。しかし、生きている以上「エネルギー」は消費しなければならないし、となると「二酸化炭素」を出さない「エネルギー」に変えなければならないことになる。誰でもが自由に使える「二酸化炭素を出さないエネルギー」となると「太陽エネルギー」しかないのは、そのくらいは誰でもが想像できるだろ。IMG_3683*.jpg単に今の生活を楽しむ事を続けるのも良いが、「二酸化炭素の排出を無視して良い」という時代を生き、今度は「二酸化炭素を出してはいけない」という価値観の逆転が起こった新しい時代に生きられる事は、明治維新の激動の中に生き、その一部始終を見ることができた以上に画期的な楽しい体験なのではないだろうか。「二酸化炭素を出してはいけない」という新しい生活の工夫を楽しめるのではないだろうか。そんな時代に生きられるとは、そんな変化のプロセスをこの目で見て体験できることであり、本当はすばらしいことではないだろうか。人類が滅びるまでの文明のなかで、こんな激変はそう起こるものではあるまい。このような時代だからこそもっともっと楽しめるはずだし、自分の新しい可能性も探せるのではないだろうか・・・・

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先日、第2回新エネルギー世界展示会出展の為の打ち合わせがあった。どうもおかしい、第1回よりも応募する企業が減ったことと、千葉県の出展企業に対する補助金が減ったことである。この年になっても、このような結果がどうして出たのか、意味が良く分からないし、社会の動きが読めない。こんな風に自分の予測するイメージと、現実の動きの差が大きく出てしまうと、非常に理解に苦しんでしまう。少なくとも去年の今頃に、日本の政治家で二酸化炭素を50%減らそうなんて言うほどの地球環境に対する認識は残念ながら存在しなかった。しかし、本気なのか単なる政治的ポーズに過ぎないのか分からないが、ポーズにしたとしても、そう言ってもおかしくない環境であると認識し始めていることは間違いないだろう。だとすると、去年に比べて少なくとも温暖化に対しては大きく前進したことになるはずだ。にも関わらず、千葉県の補助金が減るとはどういう事なんだろうか。温暖化に対してどういう認識でいるんだろうか。温暖化を食い止める以上に、今、もっと大切なことがあるんだろうか。もっと予算を付けるべき所があるんだろうか。IMG_3667*.jpg1兆も2兆もというなら兎も角、たかが4社の出展でしかないのに、それが減るとは意味が分からない。本来なら、環境に対して頑張ろうという企業には、数など決めず、どんどん出展出来るように援助すべきであろうと思うのだが、それが逆になっている。
つい最近、友人から、アメリカに行く飛行機の窓の景色が激変している事を聞いた。3年前まで有った氷河が激減し、海へ流れ込む川の水が泥水と化しているということであった。以前は氷河からのきれいな水が流れ込んでいるのが見えたが、余りにも変わってしまったらしい。1年前に比べて、より多くの人達が温暖化の危険さを更に認識したと思うし、温暖化予測に対するシミュレーションもより精度が上がり、より正確な危険情報を発信している。IMG_3673*.jpg先ず何よりもマスコミの取り上げる量が非常に多くなった。それに加え現実に温暖化が原因と思われる多くの異常現象が現れてきているというのに、少なくとも新エネルギー展の現状を見ると、全く逆行しているとしか思えないのはどういうことなんだろうか。昨日の朝日の夕刊に「先進国、40%削減を」という記事が載っていた。ウィーンで開かれている国連の気候変動枠組み条約の作業部会が出した結論である。2020年までに先進国が90年比でで25~40%削減する必要があるという内容である。
こういうことを言わなければならないほど事態は切迫しているのだろう。京都議定書も達成できない日本にとってはかなり厳しい事である。こんなことまで言われ始めているのに、大部分の日本人にとってはいまだに他人事なのだろう。周りの生活を見ていてもほとんど何も変わっていない。相変わらずどんな近くでもクルマをつかうし、駐車場に止めて人がいなくてもエンジンが掛けっぱなしだし・・・・もしかして家族の誰かが死ななければ気が付かないのかもしれない(しかし、62年以上前の日本人はそれでも気が付かなかった・・・)。IMG_3674*.jpg人間は好むと好まざるとに関わらず、その時代によって運命が決められてしまうのは当然のことである。時代によって、その時の価値観で人生が意図せぬ方向へ曲げられてしまうのは、これも世の常である。しかし、現在に求められていることは、自分の意志でこれからの社会を少しでも生きやすくしようとするだけであり、その為に今までの常識ではなく、新たな常識を持って生きようと言っているのに過ぎないのである。戦争の時のように自分の意に反して死が待ち受けているわけではない。当時の常識(命令)を選ばざるを得なかった特攻隊員の人達の無念さ、理不尽さに比べればごくごく些細な常識の変化に過ぎないと思うのだが・・・・
近い将来、孫達に非難されない生活がもっとできないんだろうか・・・・

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