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雲
オーストラリアの環境政策が大きく変わろうとしている。
総選挙で労働党が11年振りに政権を奪還し、ラッド首相が誕生するからだ。今までと大きく違うことは京都議定書を最重要視する姿勢を明確に示しているからだ。今回の選挙では温暖化政策が大きなテーマになることも示すことになった。
この1~2年で温暖化に対する世界の注目度が急速に大きくなっているのを感じる。
オーストラリアは温暖化の影響を最も大きく受けていると言われている。大干ばつによる農業被害の映像は近未来の地球の姿を彷彿さられるようで恐ろしささえ感じられる。
新しい政権が環境重視することは、当然とても好ましいことであるが、非常に難しい問題も含んでいる。原子力発電を停止させ、85%を石炭火力にするということだ。石炭を使うということは、原子力の危険性を排除するということに於いて、また自国内にある資源を使うということに於いては、いたって自然な選択のように思われるが、本当にそれで良いのだろうか。
現在の最大の問題は温暖化による環境破壊である。石炭を使うということはそういう意味に於いて完全に逆行である。新政権の長期計画を見たわけではないので何とも言えないが、原子力発電を停止したからすぐ石炭というのはまったく違うと思う。天然ガスも資源として豊富であるのだから、先ずは天然ガスに切りかえることが物の順序だろうと思う。石炭は石油に比べると非常に大きい埋蔵量と言われている。石炭は燃料として燃やしてしまわず、未来の物質資源として温存しておくべきである。石炭で始まった産業革命からやっと最も炭素分の少ないよりクリーン(二酸化炭素の排出量が少ない)なメタンの時代に入り、水素の時代が見えてきたというのに、また石炭に戻ることは正に時代への逆行であろう。桂の木日本と違って膨大な土地を持つオーストラリアであれば太陽電池の設置もかなりやりやすいと思う。
環境重視政府であるなら、この際さらに環境のことを考えてもらいたい。
ところで自国日本はハンガリーから温室効果ガスの排出枠を買うそうだ。それによって京都議定書で約束した数値を達成しようということだ。
何と生ぬるいことか。何時も全てのことに手遅れになるこに得意なこの国のことだから、今さら期待することに何の意味も無いが、少なくとも一生懸命働いている人達が税金を払って国の運営を委託しているわけだから、もう少し格好良い国にしようというポーズぐらい見せてもらいたいものだ。
京都議定書の求めている数値というものは単なる政治的な数値に過ぎず、既にバランスを崩してしまった環境に対する基準の原点は、二酸化炭素排出量ゼロなのである。それに対してどれだけ努力できるか、技術開発できるかなのである。そういう意味では6%なんていう数字はほとんど何も意味がないのである。
総選挙が近いらしいが、オーストラリアのように温暖化が争点になるようなことはシャッチョコダチしても起こりそうもない。いまだに環境悪化より道路の方が重要らしい。今になっても、そんなことをもっともらしい顔をして話しながらテレビに出ているなんて、これも至ってすごいことだ。
勿論これは政治家だけの問題ではない。選ぶ側のレベルにあるのだが・・・・

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ボート
本という物は止めどもなく増える物である。放っておけば多分居場所もなくなるぐらい増えてしまうだろう。そこまではまだ当分行きそうもないが、書架に立てた本と上の台との隙間に横に詰め込むようになって久しい。
本は収集することが目的ではないことは当然であるが、横向きにつっこむようになると単なる積ん読になりかねない。本は見つけやすく整理されて有ってこそ、ほんの役割を果たすものであろう。
そんな状況であるので、書架を新たに増やすべく近くの家具センターに行ったり、分厚い通販のカタログを見たりしたが、ろくな物がないことが分かった。書架全てが木材っぽく見せようとしたり、分厚く重厚に見せようとした偽物である。(何で似せブランドは取り締まって、地球上の永久ブランドである無垢木材の偽物は取り締まらないのだろう??)要するに貼り物である。正に典型的な単なる見てくれだけのもどき品である。確かに居間にでも置けばそれなりにデザインしてあるため、ちょっと見の見栄えは良いが、所詮偽物である以上心の底ではバカにして愛着も湧かないし、扱いもぞんざいになるだろう。直ぐに飽きてしまうのは目に見えているし、それよりも何よりも一体全体この偽物を廃棄する時はどうなるのだろうかと考えてしまった。
次の資源になり得るかと言えば、貼りぼてにされてしまった物にそんな余力は無いだろ。合板タイプの床材が無垢材に比べ8倍のエネルギーが掛かると言われていることから見れば、こいつもそのくらい掛かっていることだろうがもったいないことだ。薄くスライスしたり、大量の接着剤を使ったり、それを乾かしたり、と石油の中にどっぷりつけ込んで作られているため、もう二度と取り返しが付かない。
要するに何処にも取り柄がないのが貼りぼてのもどき書架である。(建築は「もどき品」が多く使われている。無垢床材もどき、檜正目もどき、漆喰もどきビニールクロス、無垢材もどきアルミサッシ、等々)
さてどうしようか!  本は整理しなければならないし・・・・
赤い実考えた末、事務所などで使う組み立て式のオール鉄の書架に決めた。これなら天井近くまでの背の高い物もあるし、巾方向に増やすことも出来るし、段の調整もしやすいし、材質は正真正銘の軟鉄だし、万が一しまって置くにしてもバラバラに出来て都合がよい。廃棄処分にする場合でもそのまんまほぼ100%が新たな鉄資源として使えるわけである。
要するに鉄資源を我が家にも分散備蓄したのと同じことである。
錆びないようにすれば永久に人に役立つ資源として何度も使えることになる。
無垢木材でこんな物が有れば勿論そっちを優先に選ぶのだが、今回探した範囲では見あたらなかった。(こういう無垢材のシステム家具があったら売れるのじゃないだろうか?)
デザイン云々かんぬんは有るだろうが、これからの時代の選択の一つのあり方だと思っている。
とは言っても30年以上前に買った家具はほとんど貼り物である。タンスや食器戸棚などがそうだ。
安かったからである。たとえ無垢材製品があって気に入っても、当時の給料では買えなかっただろうし、まあ、初めて建てた家が貼りぼての接着工法であったから、そんな物を選択するセンスしかなかったからだ。そこに17年住んで取り壊した時、貼りぼての接着パネルの処理に大工さんがだいぶ困っていた。
現在、友人の2人の作家に創ってもらった家具と、両方の実家からもらってきた桐の古びたタンスを愛用している。
貼りぼてのもどき仕様なる商品は、石油を無意識に使って良いと思われていた時代の素材の使い方であり、生産システムであるのだろう。
本物の材料をいかにして使うかがこれからの時代ますます大切になって行くのだと思う。


紅葉
単なる建物に過ぎない「家」を、人が生活できる空間としての「住まい」にするためには「エネルギー」が無ければならない。外から見てどんなに良い形であっても、どんなに高級な家具が入っていても,どんなに最新な設備が入っていても,どんなに優雅な内装がされていても、そこにエネルギーの投入がなされなければ、それは少なくとも「住まい」ではなく倉庫と何ら変わらないただの箱に過ぎない。エネルギーが無ければ人が住むわけには行かないからだ。現在もまだほとんどそうであるが、エネルギーとはイコールお金であり,お金さえ払えばいくらでも買うことの出来る商品なのである。当然、だから投機の大きな対象にもなっている。何時の頃からか分からないが,多分都市生活をするようなってから、そこでの薪あつめが難しくなるので、薪や炭を売る商売が発生したのだと思う。となるとかなり昔から一部の人にとってエネルギーは買う物であったのだろう。柿それが今に至っているのだろう。エネルギーをお金で買う以上、出来るだけお金を少なくしてエネルギーを使う快適さは維持しようとするのは又当然である。これが近年の省エネの思想である。省エネという考え方の発生は少なくとも温暖化問題ではない。これはエネルギー危機という作られた政治問題であるし、また単なる個人の倹約の問題から発生した考え方である。少なくとも特別環境に配慮した為に発生した概念ではない。
極端に言えば今の温暖化の問題とは何の関係もない考え方である。その為、建物に於いては熱を家から逃がさないため「高気密高断熱」とだけ言われるようになった。
現在、それら温暖化とは関係ない考え方から派生した事と、温暖化に対処するための方法がオーバーラップしているように見えるため,社会的に混乱が起きているように思う。特に建築界に於いてもそれらの関連性が全く理解されていない面が非常に多く見られるように思う。と言うより、温暖化対策など夢にも及ばず、それ以前の省エネ対策すらいまだに理解していないで家を設計してしまう建築関係者が多いのにはうんざりさせられる。枯れ蓮

省エネ対策と温暖化対策の大きく違う点は、前者はエネルギーを買ってくることが前提だが、後者はエネルギーを自分で取り込み溜め込みしてから使おうという事である。別の言い方をすると、前者は国の政策だよりであり、後者は自分の意志でエネルギー的に自立を目指すことである。又、前者はエネルギーの使用量をいくら減らしたかが問題であるが,後者はゼロに対していくら使わざるを得なかったかが問題である。つまり前者は単なる使った結果が基準であるが、後者はゼロ、つまり使わないことが基準である。このように省エネ対策と温暖化対策は180度違った基準の中で成り立っている考え方なのである。
その為、省エネを基準に考えた家はエネとは言っても実はエネルギーのことを考えていない家である。何故なら、エネルギーは結果として必要なだけ買ってくれば良いということを前提にしているのであるから、取り立てて考える必要もないのである。考えなくとも「家」の形は建つからである。建った後から必要なだけエネルギーをつっこめばよい,但しそれが多少気分的にでも少なくなったと思えればよい、だから例えばどんな熱貫流率のペアガラスか分からないが、それが外に逃げる熱の総量に対してどんな程度の役割かなども分からないが、兎も角、先ずはペアガラスを使っておこうなどということになる。相変わらず気分の世界、ムードの世界なのである。夕日
それに対して温暖化対策を考えた家を設計するにはムードで対応することは出来ない。あくまでも具体的な数字の世界である。先ず違うのは,エネルギーとは必要なだけ買う物ではなく、自分がこれから建てる土地でどれだけ得られるかを算出するところから始めねばならない。得られたエネルギーで生活するにはどうするかという所から設計のスタートを始めることになる。エネルギーはムード感や後から適当に付加すれば済むものでなく、明確な定量値なのである。設計とは多分その得られる具体的なエネルギー量を最大有効に生活に利用するための形を考えることであろう。勿論その前に太陽エネルギーを出来るだけ効率よく取り込む形を決めなければならないし、溜めておく方法と場所も考えねばならない。これからの設計は、先ずはその土地に固有のエネルギー量しかない、ということからスタートすることになるだろう。間違っても最後にエネルギーを買ってきて辻褄を合わせるようなやり方とは違うだろう。最後に省エネに熱容量はいらないが、温暖化対策ハウスには出来るだけ大きな熱容量が必要だという事である。これからは先ずは「物理=もののり」が必要であり、その後に「感じ」の世界が乗っかって行くようになるのではなかろうか。
地球という有限の空間の中にいる以上、温暖化対策とは「物の理」の世界への移行に他ならないと思うのだが・・・・

はと太陽電池について相変わらずペイしない論が横行している。何とも歯がゆいが如何ともし難い。この論議が出てくるのは太陽電池にも悪いところがあるということに最近気が付いた。それは世に出るのが早すぎたということだ。石油文明真っ盛りの中で、誰もが何の問題意識も抱かない時期に世に出たことが間違っていたのかも知れない。だから深く考えることもなくペイしない論が出てしまったのだろう。
石油文明どっぷりの中で確かに太陽エネルギーでもあるまい。特に少々の金を出せばいくらでも石油エネルギーによる電気が買える日本人にとって(だから金が一番大切だという風潮になっている)、「電気は太陽エネルギーでも作れますよ」と言ったところで、その将来における本当の価値を理解できる人がほとんど居なくてもしょうがないのだろう。
日本の教育ではほとんど未来を想像する力を育てるようなことをしてこなかったのだから、これもまあしょうがないと思うしかないのだろう。
鉄塔
しかし、ここで想像してみていただきたい。更に温暖化が急速に進み、あらゆる面で二酸化炭素を出すエネルギー源の使用が規制されたり、使用禁止になったとしたら、そんな中で太陽電池が出てきたらどうだろう。それでもペイしない論を持ち出すのだろうか。多分手のひらを返したように絶対必要論者に全員が変身するだろう。それだったらそうならない前に、ほんのちょっとでいいから、目先の少し先でよいから考えてみたらどうだろうか。突然豹変するのは余りみっとも良い物ではない。
もう既に温暖化の状況は大きく変わっているのだと思う。
この膨大な大きさの、ちょっとやそっとではバランスなど崩れるわけもない地球というシステムのバランスが、既に崩れてしまったために、温暖化現象が現れてきたわけなのだから、我々はかなり思い切った政策を取らねばならない所にいるのだろう。
いずれにしても早晩石油が無くなるのは目に見えているわけであるから、その場になってから慌てないように今から少しずつ用意しておくのは当然の事なのではないかと思う。それが正に危機管理ではないだろうか。
近未来のエネルギーの有り様を論じることもなく、考える暇を与えず、いきなり「太陽電池はペイしない」などという無責任な切り捨て方は大人としてはちょっと軽率だと思うのだが・・・・
ペイしない論者は太陽電池を使わないで電気エネルギーを何から取り出そうというのだろうか。
蜂11月17日の朝日夕刊に「IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)は地球温暖化についての科学的知識を広くまとめた統合報告書を承認した」ということが載っていた。その中で「今後20~30年の温室効果ガス排出の削減努力と削減への投資で、長期的な危険性をどれだけ低減できるかが決まる。大気中の温室効果ガス濃度の安定化は、今ある技術とこれから数十年間に商業化が見込める技術を組み合わせることで達成できる」とある。
今ある技術とは何か。その大きな一つが太陽電池であろう。温暖化対策はもう待ったなしの所まで来ている。国は国なりの対策を考えるのだろうが、今までの各省庁の行動の経緯を見ていると、国の対策というのは後手後手にまわることが定説になっている。つまり国のペースに合わせてやっていたのでは間違いなく遅れることになるのだ。そんなことで不快な環境に暮らすわけにはいかない。先ずは各人が努力し自分たちの環境を守る意識を持たねばならないだろう。そんな中で太陽電池を見たとき、ペイしない論が出てくるんだろうか・・・・


アクアレイヤー床暖房の熱源は自由に選択することが出来る。電気ヒートポンプ、太陽熱、電気シートヒーター、灯油・ガスボイラーなどどんな熱源でも組み合わせて使うことが出来るが、現在、熱源を選択する場合は太陽熱を直に使い熱源にするか、太陽電池で得た電気でヒートポンプを動かして熱源にすることを先ず考えるべきである。勿論、二酸化炭素が発生しないからである。しかし、いずれも太陽エネルギーを使うわけであるから、その土地が持っている条件によって、使えるエネルギー量は大きく左右されてしまう。20071117082359.jpgそれを見極めながら不足エネルギー分を補う他の熱源を考えるべきであるが、その時もヒートポンプは非常に有効な熱源である。ヒートポンプが有効である理由は簡単に言うと、例えば100wの電気を入れてやると300w分の熱が取り出せるからである。一見、エネルギー不滅の法則に反するように見えるがエネルギーが増えたのではなく、周りから200w分を持ってきたのである。ヒートポンプというのは正に周りから熱を汲み上げるポンプなのである。一般的には周りの空気の熱を使うことが多い。その為、気温の極端に低い寒冷地では空気の熱が少な過ぎ、ヒートポンプが有効に機能しないことが起こる。その点電気シートヒーターはどんなに外気温が低くても所定の発熱は確実にしてくれる(但し、単なる発熱体であるシートヒーターに電気を使い熱源とすることは、エネルギーの使用効率から見ると好ましいことではないので、その使用量を出来るだけ少なくするために、特に徹底した断熱性向上の努力が必要がある)。
能力の落ちたヒートポンプを使うより、現在に於いてはシートヒーターの方が実用的な場合もあるので、何でもかんでもヒートポンプにすればよいわけではないし出来ない。
ヒートポンプは理想的な熱源ではあるのだが残念ながら今のところオールマイティーではないのだが、技術屋魂はいつかどんな寒冷地でも使えるようなヒートポンプを生み出すだろう。
また、いくらヒートポンプの効率がよいといっても所詮電気を使うわけであるから、それならば深夜電力にすべきである。何故なら、折角、余剰電力があるわけだし、電気料金もかなり安くなるので実用上現在の深夜電力は大いにメリットがある。深夜電力が使えるためには床暖房に大きな蓄熱量が必要であることは言うまでもない。深夜電力が切れる朝7時以降夜の11時までの間の暖房熱を溜め込んでおかなければならないからだ。蓄熱量のない床暖房に深夜電力の使用は出来ないといって良い。その為、蓄熱性能を持っていない床暖房はオール電化で使用する意味はほとんど無いと言える。20071117082242.jpg
これからの住宅は深夜電力を使わないまでも、蓄熱機能である大きな熱容量を付加することは絶対に欠かせないことである。付けたり消したりして使うのであれば、熱容量が小さいことにも意味がある場合もあるが、石油やガスストーブでもあるまいし、温暖化の問題がクローズアップされている21世紀において、付けたり消したりでもあるまい。大きな熱容量付加することは太陽熱を利用する場合の絶対条件であり、家を設計する時の先ず考えねばならない項目の一つである。

BUSINESS TODAY のホームページで紹介されています。
新エネルギー世界展示会で取材された動画付きです。
一度ご覧下さい。

http://www.bbtoday.net/businessmovie/000966.html

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11月8~10日まで伊豆の下田で会社の研修会を行った。目的は勿論親睦もあるが、出来るだけ作られていない自然の景色の中に浸り、感動を得ることと、みんなで一つの目標に向かって行動し助け合いながら達成する、ということにした。
メンバーは1人欠席で5人と将来のイゼナ内定者3人の計8人が参加した。コースは吉田から入間へ抜ける海岸沿いの山道を選んだ。このコースを選択した理由は、36年前に中木から入間という、やはり海岸沿いの山の上のコースを歩いたことがあり、そのすばらしい景色に大いに感激した事による。20071112115744.jpg
今回インターネットで調べていたらそれらのコースが「家族向け、一般向け」と表示されて紹介されていた。先ずここで、これらのコース紹介が作られた年月日の確認をしなければ行かないのだが、それを怠るという何とも基本的な間違いをしてしまった。制作年月日が記されていなかったのは分かっていたのだが、それ以上確認することをしなかった。また路線バスの時間を調べ、随分少ないなと感じた時点で、今回のような周回できないコースには人がほとんど行かないだろうことは予測ができたはずなのだが(現実に一度も人に会わなかった)、そこまで気が回らなかった。それと「家族向け、一般向け」という記載にそれ以上の思考回路が停止してしまい、二万五千分の一の地図の等高線の間隔からかなりきつい傾斜は予測はしていたが、これも勝手に安全でみんなで楽しく歩けるコースであろうと決めつけてしまった。歩き始めると最近付けられたような靴跡が見られたので、それもコースに対して疑問に思う気持ちを失わせてしまった。20071112115702.jpg
しかし、少し行くと道の上に生えた草を踏みつけた跡が無いなとは気が付いていた。そうこうしている内に踏み跡さえ分からないような場所に何度か出くわしてしまったが、幸いGPSと二万五千分の一の地図は持っていたので、現在位置がかなり明確に分かり、そういう意味では多少安心はしていられた。しかし、コースガイドに55分と書かれていたにもかかわらず、3時間以上掛かってしまったのは何とも予想外であった。もしコース時間を鵜呑みにして昼からでも入っていたら、途中で日が暮れてしまい非常に危険な状態に陥ったと思う。午前10時に吉田をスタートしていたので4時過ぎに中木に着けたが、今考えてもちょっとゾッとする。なにしろヘッドランプは家から持ってきたのだが、実は必要になることはあるまいと思い旅館にわざわざ置いてきてしまっていたのだ。今回は幸い使わないで済んだのだが、どんな所でもヘッドランプを持って行くのは基本中の基本であることをつくづく思い知らされた。
20071112115816.jpgコースの状況がもし正確に分かっていたらここへは行かなかったと思うが、結果的には多少の擦り傷とかぶれ程度で少し疲れたが全員無事に予定コースを完遂することが出来た。
その原因は、10時にスタート(登山であれば勿論遅すぎる)したこと、出来るだけペースを落としたこと、GPSと二万五千分の一の地図とで現在位置がかなり正確につかめたこと、道が分からなくなってもみんなが特別焦らなかったこと、2時過ぎから雨がぽつりぽつり来たが大したことがなかったこと、などによると思う。いずれにしても、全員の協力があったために大事に至らなかったのだと思う。今まではほとんど自転車の距離と速度のためにGPSを使っていたが、今回は本当にGPSの有効性を再認識することが出来た。
今回の研修会を通して、危険と隣り合わせであるが貴重な感動を与えてくれる自然環境を、温暖化によって激変させてしまうことは、何としてでも食い止めなければいけないと改めて感じさせられた。20071112115729.jpg



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11月4日の朝日新聞の「声」に「料亭近くの車、エンジン切れ」という投書が載せられていた。黒塗りの車がエンジンを掛けたまま待機しているのをよく見かける、こういう車に乗る人は社会的立場がある人だろうからエコロジーは自分の車から考えたら、という趣旨のことを書かれていた(こういう人達に限らず、コンビニに止めて暖冷房のためにエンジンを掛けっぱなしにして買い物をしている安物の車も非常に多く見かける。日本は所得の大小に関わらずこういう程度の人がまだかなり居るようだ)。見た目には社会的立場がある様に見えるからといって、単なる成金に過ぎないかも知れないし、黒塗りの車に乗っているからと言って、必ずしも物事をきちんと認識し、考えているかどうかは別問題である。これは差し詰め、籐吉郎が信長の草履を温めていた400年以上前の光景と酷似している感じがする。籐吉郎は主人思いで温めたのだが、現在の主人思いはエンジンを乗るまで掛けず、車を温めておかないことだろう(籐吉郎は自分の体温であったため無害であったが、車を温めるのは有害である)。20071106225608.jpgそうすることにより二酸化炭素の排出まで考えているんだぞ、ということが世間にアピールできるからだ。但し、少なくても今の日本に於いてのこういう人達の現実は「君!車ぐらい何で温めておかないんだ!」と怒鳴りつけるだけだろうけど・・・・
アイドリングストップ、つまり走るとき以外はエンジンを止めよう、ということは正に新しい価値観であり、二酸化炭素排出を個人が減らすための行動の大きな一つである。アイドリングに対する古い価値観は、アイドリング状態がどういう事か、何をもたらすかを考えないで行動することである。これは技術の未熟さと人間の想像力が未熟なために起こった典型的な例であろう。
しかし、プリウスが出てからは多大の二酸化炭素を排出してまでアイドリングをすることの無意味さにを、人間に気付かせてくれたのではないだろうか。F1レースをする車でないのだから出発前のアイドリングは必要ないし、信号で止まっている時も、渋滞で止まっている時もエンジンを動かしている必要は本来全くないのである。エンジンは車を力強く走らせるために必要なのであり、減速する時と、惰性で走っている時と、坂を下っている(エンジンブレーキが必要な時は別)時と、止まっている時は必要ないのである。
新聞の「声」欄にこういう意見が出てくるのは、温暖化阻止のため自分のことだけでなく常に他人への影響を考える、という新しい価値観から出た現象であると思う。正に新しい価値観へシフトした現象であろう。当たり前の光景だったり、むしろ羨ましい光景だったことが批判の対象に成り下がったということだろう。20071106225621.jpgしかし、私自身が車に対する認識と価値観を変えることが出来たのは、思い切ってプリウスに買い換えたからだ。それまでは、確かに吹かし過ぎをした時はいやな気分だったり、渋滞の中ではエンジンを切ってみた事はあったが、積極的にアイドリングのことを考えなかったと思う。車に乗っている以上当然のことであり、しょうがないことだからである。
現在、ガソリンの値段が上がっている。石油の採掘量のピークが2010年前後と言われていることから見ると、もう余り下がらないのかも知れない。ガソリン代が上がることは、輸送に関わる全てのコストが上がることになり経済的な影響は非常に大きいが、そのことが切っ掛けで車を動かす回数を少なくする人も増えるだろう。
車を選ぶ時により燃費を重要視するようになるだろう。この際に自家用車を破棄して、タクシーとレンタカーに変える人も増えるだろう。メーカーも燃費とアイドリングゼロのことまで考えた車を出さざる得ないだろう。更に高性能のハイブリッド車や電気自動車が繰り上げて発売されるだろう。ガソリン代のアップで経済的には一時マイナスになるかも知れないが、結局は車産業も新しい活気を得ることになるだろう。目先の短時間の現象におたおたすることは無いと思う。モーターだけで何十キロも走れるハイブリッド車も出るようだし、200キロ走れる電気自動車の時代も目の前のようだ。そうしたらやっぱり買い換えたくなる。そうすれば昼間自宅の太陽電池で充電して使うことになり、二酸化炭素の排出ゼロの車社会は目の前である。しかし、車だけゼロになってもしょうがない。住まいの二酸化炭素もゼロを目指さなければならない。人間はやると決めれば出来ると思う。

20071103150703.jpg
もう11月になってしまった。正に光陰矢のごとしである。年を重ねる度に時間は加速度的に短く感じるようになるようだ。物理的時間は変化がないのにどうしてなんだろう?これからもどんどん短くなり最後はゼロになるのか・・・・
昨日、午前10時に1社と午後2時に1社の訪問があった。いずれもイゼナとは比べものにならないほどの大会社であり、10月に行われた「新エネルギー世界展示会」の時に両社とも社長がイゼナブースにいらした会社である。蒼々たる企業が展示している中で、イゼナブースにお立ち寄りいただいたことだけでも恐縮をしているのに、今回はわざわざ我孫子へ担当の方達がいらっしゃった。やっとイゼナの考え方や商品展開に興味を持たれる時代に成ってきたかなと感じさせられた。これは新しい時代の前兆の一つであると見て良いのだろう。
20071103150805.jpg石油エネルギーを金で買って自由勝手に使える社会から、全く反転して石油エネルギーが使えない社会に大激変しなければならない時代であるから、もっともっとそういう時代に対応する商品の開発合戦になっても良いと思うのだが、社会の動きはまだまだ代わり映えがしないように感じられる。
(特に床暖房の世界は相変わらず何も進歩がない。住む人が最も求めている快適さとは何の関係もない施工方法の事ばっかりで、いまだに熱を好きなように出せることが快適だと思って居るんじゃないだろうか。それは相変わらず二酸化炭素を出すことを奨励していることになる。快適さとは熱を意識的に感じることばかりではないし、二酸化炭素を出さないで快適さを作り出す工夫が必要だと思うのだが・・・・)
大企業と称される会社の動きは社会的な特性上仕方のない面も有るが、かなり鈍く感じられるように思う。それに比べ、我々のような弱小企業は明日にでも簡単に方向転換ができる特性がある。
超大型のタンカーが舵を切ってもおいそれと向きが変えられないのに比べて、手こぎボートはその場でくるっと反転することが出来るのと同じ理屈である。
20071103150731.jpg新しい時代(そういう意識がなければ話はそれまでだが)というのは、誰でもが同じスタートライに立てる可能性を持った時代であると言える。新しい時代というのは誰も見たことがないので、どうあるのか、何が必要なのか想像するしかない。それは大企業も、中企業も、小企業も所詮その中の個人が考えるのであるから、想像力さえ働かせられれば、当然、今は個人でも企業との競争のスタートラインに立てることになる。
マラソンで40Kmを過ぎるとトップと最後はかなり差が付いているが、それをいったん中止して、もう一回スタートラインからやり直し、と言っているようなものである。もしかしたら、そのまま回れ右をして反対方向に走ることなのかも知れない。いずれにしても「温暖化阻止」という一つの目標に向かって新しいスタートを切れる新しい時代に入ったのだと思う。企業は大きさではなく、個人の想像力が勝負になる時代ではなかろうか(但し、想像力の後は金の力も必要なのだ)。


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izena社長 前田誠一

Author:izena社長 前田誠一
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