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私が初めてカメラを持ったのは小学校5年生(昭和30年)の時だったと思う。サイコロみたいな形をして黒のプラスチックでできたブローニーフィルムを使うコダック社製だった。主に遠足と運動会に持って行ったことを憶えている。これよりシンプルなカメラはないだろうというようなカメラである。シャッター速度も絞りもピントも決まっていて、ただ上からのぞき込んでシャッターボタンを押すだけだった。中学時代は二眼レフのヤシカ4*4を使った。これは確かローライのデザインをほぼ盗用した物であったと思うが、形はとても気に入っていた。(こんな事を思い出してみると、当時の日本はドイツやアメリカなどから今の中国の様に見られてたんだろう。大体の物は所詮真似からしか進化できないのだろう)ペンD*高校・大学時代はハーフサイズのオリンパスペンDをサイクリングに山に持っていった。ペンタックス*社会に出て初めてアサヒペンタックスSPという一眼レフを手に入れた。
被写体はほとんど家族のスナップであり、単なる家族の記録用だった。このカメラはTTLスポット測光という、撮影するレンズを通して被写体を直接測光するという機能を備えていた。
それ以後持ち物の軽量化のためにオリンパスXPも使った。オリンパスXA*APS のカメラに変えようかと思案している内に一眼レフもデジタルカメラが主流になり始めた。最初に手にしたデジタルカメラはリコーの光学ファインダーの無いタイプだったが、余りにも使い難く、つぎはちゃんと光学ファインダーの付いているキャノンのPowerShotG1に変えた。G1*.jpgそして今はEOS Kiss Digital Xを使っている。レンズは18~55mmと17~85mm(ブレ防止付き)の標準ズーム、10~22mmの広角ズーム、70~300mm(ブレ防止付き)の望遠ズーム、それに100mmと60mmのマクロを持っている。6本の交換レンズはそれなりに使い分けている。自転車旅行や山へ行く時は標準ズームを1本、広角ズーム、望遠ズームとマクロレンズを1本けいと計4本を持って行くことが多い。ボディーも入れると何と2.8Kgぐらいになってしまう。旅先で「あのレンズが有ればな~」と後悔したくないし、再び同じ所へ来て撮ることは出来ないかも知れないと思うと、無理してでも交換レンズを複数持って行くことになってしまう。しかし何でこんなにレンズを持って行くかというと、今までの経験上、素人がそれなりに撮るためにはボディーの性能よりも、レンズが決めてではないかと思い込んでいるからである。特にスナップを撮る時の70~300mm望遠レンズと、花や昆虫などを接写する時の100mmマクロは手放せない。100mmマクロのボケ味は何ともすばらしいと思っている。いおす3*
写真を撮る為には、自然の景観を何時も注意して見る必要がある為、葉の一枚一枚、花びらは勿論、雌しべや雄しべの一本一本、虫たちの小さな動きまでにも目を凝らすようになる。同じ場所でも自然は季節と共に、時間と共に、見る角度や方向によって、日射の強さや向きによって時々刻々と変化している。自然の変化に対してとても敏感でなければならない。見慣れた場所でもふと気が付いて慌ててカメラを取りに家へ飛んで帰ることが時々ある。しかし自分が美しいと感激した情景も、カメラで持ち帰ることの難しさにがっかりすることが常である。
もし、自然の写真を撮りたいという人間がもっともっと多くなったら、もっともっと自然を大切にするんじゃないかと思うし、もっともっと自然に優しくなり生き方も変わるんじゃないだろうか。
また写真を撮るということは、全ての物を景観として眺めようとする訓練になると思う。特に人工物(主に建物)とその周りの自然とのバランスに注意するようになる。バランスが取れているように感じさせてくれる景観はとても心地良さを与えてくれるが、それがぶち壊されている場所は嫌悪感と同時に怒りと無力に対する絶望感さえ感じさせられる。
バランスの究極は勿論ファインダーの中の切り取られたような狭い範囲ではなく、地球環境全体のバランスである。バランスが取れている時、それを構成している全ては心地よく美しいのだろうと思う。多分、人類が発生していない地球上はとても美しかったんではなかろうか。知的生物と自認する人間は唯我独尊欲望のまま、自然に対するバランス観など微塵もなく、文明進化が人間の幸せ、人間の命は地球より重いという錦の御旗の元に好き勝手をしてしまった。残念ながら、現在に至ってもそれはとても止まりそうもない。その結果、極め付きのバランス破壊現象として温暖化という環境破壊を招いてしまったのだろ。
写真を撮り、残すことは自分の感情を何時までも残せる様な気がするし、自分が生きて存在していた証が残せるような気もする。残された人にとっては大した物ではないかも知れないが、今生きている自分にとっては、少し大げさな言い方だが、永遠の命を与えられたような自己満足が得られる様にも思えて楽しくなる。
これから写真はますます力を入れて行きたいと思っている。特に温暖化による自然変化の様子も捉えていければと思っている。
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3日間の出張やら師走やらで時間が空いてしまった。鳥
インドネシア・バリ島で開かれた気候変動枠組み条約締約国会議(COP13)が終わった。感想は一言「人間は何を考えてんの!」である。相変わらず幅を利かせているのは経済、経済、経済・・・・・である。誰のための経済なのか、何のための経済なのか、経済だろうが何だろうが、所詮快適な地球環境が有るから成り立って居るんじゃないのだろうか。その根幹がおかしくなろうとしているのに、それでもまだ「経済」と言っているのが何とも理解が出来ない。ハリケーン「カトリーナ」による被害額は16兆円だそうだ。その上お金に換算できない人命が多数失われている。ニューヨークに巨大なハリケーンが襲ったことを想定すると、被害額は算出不能なほど大きくなると予想されているらしい。でも経済が大事だというのは何なんだろうか。人類は本当に知的生物なんだろうかと考えてしまう。全ては環境有っての物だというのに、今は正に超大型船「地球環境丸」に浸水が始まり、傾き始めてるというのに、その修理を急ごうともせず道路だとかイルミネーションだとか・・・・この国では相変わらずドンチャン騒ぎのお祭り騒ぎが止まりそうもない。二羽温暖化による環境破壊は、もう既に自然が壊されつつある現場を見なくとも一目瞭然で理解できる所まで来てしまった。それは二酸化炭素の急速な増加量を表している極端に右肩上がりのグラフ(温暖化の加速は二酸化炭素だけでなく、もっと強烈なメタンなどもある)である。近年、爆発的に増加しつつあることを表しているこのグラフだけを見ても、普通の人間なら非常な異常さに気が付き、尋常でないことを感じないわけにはいかないだろう。このグラフの形は、制御棒を外されたウランの連鎖反応のように見える(この現象が極端に急速に発生すれば原子爆弾である。当然途中で止めることなど全く不可能である)。
もし原子炉でこのような現象が始まったら止めるすべはほとんど無い事は当然であるが、他のあらゆる事もこのような現象が短時間に現れた場合は「制御不可能」を意味している。
この現象はよく「池と水草」の例を持って解りやすく説明されている。ある朝、庭の大きな池に、水面を覆うと酸素を通さないという危険な水草が1つ葉を広げているのが見つかった。翌朝は2つに、翌々朝には4つ、次は8つ、16、32・・・・と増え続け、少しずつであるが池を覆っていった。ある朝見たら池の半分が水草に覆われていたが、まだ半分有るので安心していた。結果は目に見えている。次の朝には全面が覆われ、池の中の魚たちは早晩皆窒息死することになってしまう。
地球環境に於いては1日よりも長い単位であり、多少余裕があるように見えるが、急速に結果が近づいていることには変わりがない。この例を理解できない人はいないだろう。しかし、この例を想像力の中で現実として捉え、本当に危機感を感じられる人はどの位居るのだろうか。この近未来に対して個人個人はどう対策を立てなければならないのだろうか、どう生活を変えて行かなければならないのだろうか。経済を動かしている個々の仕事をどう変えなければいけないのだろうか。温暖化の危険に気づかない時代の価値観を相変わらず引きずってないだろうか。いまだにその権威にしがみついていないだろうか。庭
現在は多分半分の面積が水草に覆われてしまった状況を通り越したのだろう。多分1日の猶予もならないのだろう。
また、二酸化炭素の増加のことばかり言っているが、それにより海陸とも砂漠化が進行し、光合成をする植物が減少し、酸素が減少することに大きな問題はないのだろうか。本当に気温が上がり、海面が上がる、と言うことだけなのだろうか。二酸化炭素が増加しても、それに比例して光合成も増加しているのであれば二酸化炭素は増えない。しかし、今の現象はそれとは全く逆の光合成機能が見事に反比例しているように見える。至って気がかりである。
人類は産業革命で化石エネルギーというパンドラの箱を開けてしまったのだろう。
しかし、孫がいるのにギブアップはしたくない。
一人では何も効果は上げられない。みんなが力を合わせるしかない。
人類は発生以来初めて、未来を考えることの大切さに気が付いたのだろうか・・・・


1215

赤*
カメラを見るとその進化をつくづく感じることが出来る。勿論、自分はその技術の進化に何も関与できたわけではなく、新しく出たのもを買うのみである。写真がうまくなることに特別努力もしていないが、実は少しずつうまくなっているのではないかと内心感じている。しかしこれは残念ながら自分のレベルが上がったというよりも交換レンズの性能が大きく物を言っていると思っている。どうだんつつじ*勿論、失敗しないようにボディーがどんどん進化していることもある。ピントのことを考えなくとも良いし、しっかり構えなくとも手ぶれなく撮れるし、遠くからも人の表情は撮れるし・・・・要は人間の力ではなく道具の選び方のような気がしている。
今やカメラは何も知らなくても、シャッターボタンの位置さえ分かっていれば、何とか写真は撮れてしまう。こういう商品現象をどのように理解したらよいのだろうか。
写真がきちんと撮れるように絞り値もシャッター速度も考えないでカメラ自身がそれをやってくれちゃうわけで、それが今当たり前だけれど本当にそれで良いのだろうかと考えさせられてしまう。
現代の商品文明は、弘法筆を選ばずではなく、筆の選び方によって自分の能力が至って表面的ではあるが、あたかも進化したような錯覚を与えてくれる。赤黄色*
以前インプレッサに乗った時、それまでよりも自分の運転が上手くなったんではないかと感じたのを今でも良く覚えている。
現代人というのはほんの一握りの研究者や技術者の努力によって商品化された物を購入して使っているに過ぎない。その上、それらの商品は人がますます努力をしないでも済むように、使用者には関係なく相変わらずどんどん進化しているのである。
携帯電話という商品は特に典型的な例である。それは人類を突然魔法使いのように、どんなに離れていても、何処にいても、誰とでもすぐに自由に話せるようにしてしまった。正に大部分の人類にとっては単なる見掛上に過ぎないのだが、努力なしで棚ぼた的に得られた機能である。すごい能力が突然降って湧いたようものである。携帯電話という筆を選んだ人間と、声を張り上げて人に情報を伝えようとする人間の見た目の能力差は月とすっぽんどころではない。つた*車やオートバイもそうだ。現在誰でも乗って居るわけだから、どんな車でもオートバイでも動かすのに特別な技術や能力は何もいらない。特別な能力など無くても誰でも遠くへ行けるし、速く走ることが出来る。誰でも乗れて沢山売れればよいようにメーカーは作っているんだから当然である。大部分の人間はただ買って乗らされているに過ぎない。人はただ金を出す「物」に過ぎなくなってしまったようにも見える。万人が使える商品群の中から単にチョイスする事だけが、あたかも生き甲斐であるかのように、あたかも自分だけの個性であるかのように錯覚させられているようにも思える。
しかし、このような商品が何も無い時代、全て自分が工夫して作り出し、生きて行かねばならなかった時代の人々に比べ、私たちは人間としてどんな進化をしてるのだろうか。何時も考えてしまう。社会のあり方は確かに恐ろしく進化しているように見えるが、その社会を構成している人間は一体全体どんな進化をしたというのだろうか。どう考えても生き抜くための人間力は退化しているのではないかと思えてならない。技術の進化と人間の獲得する能力には反比例の関係があるように見える。つまり技術は進化し人間は劣化するという事だとしたら・・・それを考えると何とも複雑な気持ちになってしまう。



紅葉4熱は壁や屋根や床などあらゆる面から逃げようとするし、ガラス面からもサッシ面からも逃げていこうとする。勿論隙間からも逃げていってしまう。熱の逃げる量は材質や構造によって大きく異なっているし、特に面積によって大きく異なる(壁とガラスの熱の逃げる量を比較するとペアガラスを使っても10倍ぐらいガラスの方が大きいこともある)。断熱の評価とは家全体から合計でどのくらいの熱が逃げたかを見ることであり、壁でいくつ、天井からいくつ、窓からいくつ・・・・を合計した数値が家の断熱評価になる。窓面積が少し大きい家だと逃げて行く熱の半分はガラス窓ということもある。
これから家を作るに当たり断熱性能をどう考えて行かなければならないのだろうか。はたして家の形が決まる前に適当に決めてしまって良いのだろうか。断熱材の性能を決めるのは、いたって当たり前のことだが「人が快適に住まう」という視点から考えることではないだろうか。人が快適というのは、家の中での快適は勿論であるが、もっと大切なのは環境の快適さであろう。また断熱がしっかり考えてあればエネルギーを買う金も少なくて済み、身体の快適さばかりでなく精神的にも至って快適な生活を送ることが出来ると思う。いずれにしてもこれからは特に断熱のことをしっかり考えてゆかねばならない。紅葉8
家の断熱仕様を考える場合、これからは先ずどのくらいのエネルギーで生活をするのかを決める必要がある。つまりエネルギーの購入費用としていくらぐらいで抑えたいのかを決めることである。これは当然どのくらいの二酸化炭素を排出する生活をするのかを決めることに他ならない(たまに勘違いされることがあるのは深夜電力の料金が安いためにエネルギーの使用量も少ない、二酸化炭素の排出量も少ないと思われていることである。確かに深夜電力は原発による電気の割合が多いから二酸化炭素の排出は少ないと言える)。これがこれから先ずやるべき事である。更に高いステージで考えることは太陽エネルギーの取得量に応じて、それ以内で生活をするために家の性能をどうするかということである。
つまり、いずれも生活するためのエネルギー量を先ず想定してそれを満足させるための断熱性能を考えるということである。その為には、壁、天井、床面の断熱性能、ガラスとサッシ部の断熱性能とその面積に対して、目標とする数値が得られるように個々に決めなければならない。紅葉7これからは漠然と主観だけでガラス部の大きさを決めてしまうことは難しくなるだろう。また昼間は日射の入るガラス部も夜は猛烈に熱が逃げて行く部分になることは明白なので、夜に出来るだけ逃げない対策をしっかり取るべきである(4年前から断熱ロールカーテンの開発をしているが諸々の都合でまだ完成していない)。そうしないと目標値を達成することは難しくなるだろう。
住まいとは個人の物であるが、建てた途端に社会的な存在になってしまう。景観に於いても勿論のことであるが、同時に地球環境を左右する存在にもなってしまうことである。温暖化に対応するためには、結果としてのエネルギー量(最後に負荷計算をして初めてその家の熱性能を知る)でなく、目標としてのエネルギー量を満足させる設計が求められて行かねばならないと思う。


紅葉5
壁の断熱材はかなり簡単に「グラスウール100mm」とか「ウレタン30mm」とか「次世代基準」相当だ言って片付けてしまうことが一般的である。ガラスに於いても然り、大きさに関わりなく「ペアガラス」で統一されている感がある。これからの時代、と言うよりも今からそういう一般論的に処理してしまうだけで良いのだろうか。何故なら、個別でなく一般論で済ませてしまう事が出来るのは化石エネルギーがいくらでも好きなだけ買えるという前提に於いて成り立っている論理からの発想だからである。簡単に言ってしまえば、10坪の家と50坪の家の断熱材を同じ100mmにし、室温を同じにした場合、50坪の家は10坪の家に対しておおよそ5倍のエネルギーが必要になってしまう。
エネルギーをいくら使おうとそれが問題であることに気が付かなかった時はそれでも済んだかも知れない。しかし同じ人間が生活して生きて行くのに、大きな家に住むから5倍の二酸化炭素を出して良い、ということがこれからも成り立ち継続させて本当に良いのだろうか。二酸化炭素の排出量を激減させ、温暖化を止めるためには、小手先で今までしてきたことをこねくり回したところで達成することなど不可能だろう。紅葉1
何度も書いたように、思考をスタートさせる原点が180度全く逆(二酸化炭素を大量に排出することが進歩発展と見なされたことから、如何に排出を抑えるかが進歩発展という風に価値観の逆転をした)だからである。プラスチックでいくら木材のように見せようと努力しても、技術が進歩し見た目はどんどん同じようになってきても、所詮プラスチックはプラスチックに過ぎず、どんなことをしても木材にはなれっこない事と同じような気がする。「化石エネルギーを如何に多く使うか」という論理で組み立てられた現代文明を「化石エネルギーを如何に使わないか」という文明に変換させるためには、どう考えたって新しい論理を創るしかないと思う。その視点からこれからは断熱材の仕様を、通り一遍の一般論からではなく、個々に即して決めるような設計手法を考えねばならないだろうし、価値観を持たねばならないだろう。
断熱ということを住まいの暖房ということから見てみると、それは家の中から外に向かって単位時間に逃げる熱量を少なくすることと言える。少しでも温度差があれば熱は低い方に向かって強引に流れようとする。それを少しでも長く引き留めて快適な温熱空間を持続させることが断熱である。
その結果、断熱がしっかりされた面の温度は、ほぼ室温と同じになり暖房感をより自然に近いものにしてくれる。

次回に続く


イチョウ*
1500年代コペルニクス、ケプラーが地動説を主張し、1616年と1633年のガリレオ宗教裁判で「それでも地球は回っている」は有名な話である。
天動説とは地球を中心にしてその周りを太陽を始め全ての星々が回っているという、言うなれば1日単位の宇宙観のことである。
地動説は地球が太陽の周りを1年365日で回っているという現在は当たり前の宇宙観である。
天動説とは知っての通り、俯瞰的に太陽系を見ることが出来なかった時代の自己中心的な捉え方であり、地動説は惑星の動きを観察測定することにより初めて科学的に知り得た事実である。
しかし、普段私たちは相変わらず太陽が東から上がって1日が始まり西に沈み、又日が昇るまでの24時間を、疑いもせず一つの基準にして物を見て考えている。07天動説地動説_+*
エネルギーが好きなように買って使えた今までは、そういう24時間単位の捉え方でも暖房設備の設計に於いて辻褄を合わすことが出来た。つまり寒い冬の1日に対して満足することが出来れば、それで設計は完了とされ、特別に問題にされるわけではなかった、というよりもそれが常識であった。しかし、温暖化が大問題になってしまった現在、従来のような24時間単位でエネルギーの使用量を決めるような設計の仕方で良いのだろうか。つまり冬の有る1日を想定をして熱負荷計算をし、暖房機器の性能を選定するような設計はこれからは成り立たないのではないかと思う。
温暖化の環境破壊から地球を守るためには、化石エネルギーから太陽エネルギーに移行させることが究極の目標である。
そうなると今までのような1日の想定だけによる設計(つまり化石エネルギーの使用を前提にした設計)では、冬中の暖房ということを満足させられなくなってしまう。残念ながら太陽エネルギーはその日その日の天候に左右されてしまう気ままなエネルギーであるからだ。
太陽の可視光エネルギー分を使う太陽電池を使って生活を考えて見ると良く分かる。発電量は季節の外気温度や日射の強さや天候により1年中めまぐるしく変化している。現在のように系統連係がされていれば勿論その日の不足分は電力会社が補充してくれるので、太陽電池を取り付けるに当たり、形状的な設計は多少有るにしても、エネルギー的な設計を特別配慮する必要がは無い。24時間単位の物の捉え方で何ら差し障りがないことになる。しかし、自立したエネルギーで生活を考えた場合は、この程度の太陽電池の捉え方ではどうしようもないことは自明である。電気が使えたり使えなかったりしたらとても生活にならないからだ。少なくとも1年間の全発電量の範囲以内で生活できるシステム及び住まいの構造など総合的な設計ができなければ設計したことにはならない。
これから温暖化から脱却するためには、365日、1年単位で全てのことを捉えて行かなければならないだろう。これには今までと全く逆の発想が必要になってくる。例えば、1日単位で考えると立ち上がりが早い、つまり熱容量は出来るだけ少ない方が良いとなるが、1年で考えると熱容量は出来るだけ大きい方が良いということになるのである。
天動説的とは今だけを考え、設備機器で対応することだけを考える発想であるが、地動説的とは先まで見通し、設備機器ではなく構造で対応する考え方と言える。
コペルニクスが地動説が唱えられてから500年近くになる。そろそろ我々も地動説的発想に転換しなければならない時期にきているのではないだろうか。

温暖化がもたらすものは環境の悪化と、もう一つは当然だが急速なエネルギー源の変革だと思う。人類の文明がこれからも継続して行くための条件は、一刻も早く化石エネルギーに見切りを付けることである。つまり化石エネルギーから無尽蔵に近い太陽エネルギーに変換することである。温暖化を阻止するためにはこれしかないと思う。太陽エネルギーは使えるか、とか使い難いではなくて、使いこなさなければ明日は無いのではないかと思う。06水素エネルギ_+
人類は火を使って文明を発達させてきた。土器もそうだが特に金属を使うようになったのは火の中の熱エネルギーを使う技術を開発したからである。
図を見ていただきたい。これは人類が頼ってきたエネルギーの変転を表した図である。最初の薄緑のエリアは主に植物を燃焼させて熱エネルギーを取り出した時代である。基本的には自然界で二酸化炭素の循環は行われるはずである。但し実際は切った分だけ植林したわけではないだろうから、二酸化炭素の吸排出の一致が完全に成り立っていたわけではないだろう。しかし人類が今までに何十万年も使った大部分の時間はこの時代である。
それに比べ石炭からメタンまでの今までの時代は高々300年に満たない。
火を使い始めてからの時間に比べると化石エネルギー文明はほんの一瞬の時間である。これから続いたとしても何十年のオーダーだろうからいずれにしてもほんの一瞬には変わりがない。
今の時代つまり化石エネルギーの時代と言っても、その中で化石エネルギーの使い方が変化していることが見られる。
同じ化石エネルギーといっても、そこに含まれている炭素と水素の割合が変化していることである。圧倒的に炭素分の多い石炭から、水素が炭素の4倍あるメタンへと変化していることである。石炭を燃やすと主に炭素が燃焼して二酸化炭素を大量に出すが、メタンの場合は水素が多いために排出物として二酸化炭素も出すが、水が多く出てくることになりよりクリーンということである。
人類は二酸化炭素を出さないということを意識して石炭から石油へ変えていったわけではないだろう。単なる経済の法則の結果に過ぎないのだろうが、いずれにしても水素が多いエネルギーの方向に向かっていることには確かでありそうだ。しかし、炭素が1つと水素が4つのメタン以上に水素が多い組み合わせの物質はもう存在しない。となると後は炭素が取れて水素のみになるしかないことになる。つまり水素エネルギーの時代になることは文明の必然ではないだろうか。意識するしないにかかわらず燃料としては水素になるのではないだろうか。
宇宙で一番多い物質は水素であるし、何と言っても人類の全てのエネルギーを供給している太陽は水素で出来ていることを考えると、宇宙の中の地球上で人類が太陽と水素に頼ることは、これも又至って自然なことだし、定められた原理なのではないだろうか。
無論全てのエネルギーが電気になる可能性もある。これは今我々が使っている電線が超伝導タイプになることと超高性能バッテリーの開発が条件であるように思う。そうすればわざわざ水から水素を取り出さなくても済む時代が来るかも知れない。
いずれにしても、二酸化炭素をより多く出すことが進化であり、発展であり、ステータスや快適さの拡大で有ると思われた時代は終わるのだろう。同時に今まで作り上げられてきた社会的な権威のほとんど全ても変換せざるを得なくなって行くだろう。それが見極められるかどうかが今後のビジネスにとって最も重要なことだと思う。


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