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先回「戦時国策スローガン」に付いて書いたが1回で終わらせてしまうには何とも勿体ないので、その他使えそうなフレーズをご紹介と一体全体スローガンって何だったんだ・・・ということを考えさせられた。噴水
確かにそれがどんなに良いスローガンであっても、結果が負けてしまったのだから、スローガンの効能は無かったわけだ。その理由をきちんと考えておかないと、いくら立派な温暖化撲滅スローガンを作っても、これから立ち向かう強敵温暖化にまたしても負けてしまうことになってしまう。しかし、当時、本当に本気でスローガンを作ったのだろうか・・・・いろいろな団体の中の担当者がスローガンを作った訳だが、本気な人間も居たろうが、今でも多くの人が社会現象に対してそうであるように、私達も戦争に大きく貢献して居るんだぞ、ということのポーズを取り、表面的に繕う為に作っていたんじゃないだろうか。そうであればどんなにスローガンを叫んでも負けてしまうのは当たり前だろう。これだけ多くのスローガンが出たと言うことはそれだけ国民の意識が冷めてノンビリしていたからだろう。その事が分かっていたから、なおのことスローガンを作ることを競い合っていたのかもしれない。気合いを入れるのにスローガンはそれなりに効果があるとは思うし、それが少しでも機能してくれるなら、作らないより作った方が良いのだろう。しかし、身分不相応な相手、物理的に絶対負けることが分かっている相手と闘うとなれば、武器はおのずと精神論に行き着き、神頼みしかやる手は無いだろう。しかし、見事にスローガンでは勝てないことを証明してくれた。菜の花
本来、精神論=ローガンは、先ず具体的な目的があって、それを達成する為の行動プログラムあって、その中での行動のレベルアップをするためのものだ。しかし、明確な理念に基づいた具体的な目標もなく、それがなければ当然それを達成するための具体的な行動プログラムも作れない訳だから、それを繕うためにスローガンいくら掲げたところで全く機能しないのは当然である。八紘一宇などと安易な思い付きとしか思えない目標では、どんなスローガンでも有効には働かないと思う。
それはさておき、温暖化戦争で使えそうなスローガンを拾い出してみる。
「建設へ いま一億の動員令」二酸化炭素を出さない新しい社会に向かって全員で力を合わせて行こう。
「いつも笑顔で新体制」今までの慣れ親しんだ価値基準を捨てなければならないのは大変だが、新基準に向かって笑顔で行こう。
「新体制 僕の家から自身から」二酸化炭素を出さない新しい社会を作るのは家庭と自分自身の実践からである。
「一人ぐらいが国策乱す」自分一人やってもしょうがない、自分だけぐらいやらなくても良いだろうということが地球環境をもっと悪くしてしまう。かも
「総力戦へ 総戦士」温暖化撃滅は国民一人一人全員で力を合わせるしかない。
「まだまだ足りない辛抱努力」人がやるのを待ってからでは遅すぎる。二酸化炭素削減の工夫をもっともっと辛抱強く努力しなければならない。
「心ゆるめば国ゆらぐ」価値観を変えた生活に辛抱できないのなら、地球がダメになってしまう。
「決める肚から 湧き出る力」一旦温暖化を阻止しようと肚に決めれば、やり抜くための力が沸いてくるものだ。
「一億一家 苦楽は共に」地球環境は一つなので、誰でもが被害者になってしまう。全人類で力を合わせこの苦境を乗り切ろう。
「日の丸ひろげて世界を包め」日本の技術力を持って世界のあらゆる所に温暖化阻止の和を広げよう。
「時と廃品 活かして使え」「まだ早い、が もう遅い」「身よこの備え、この構え」「出るぞまだまだ 出せ底力」「希望新たに鉄の意思」・・・・・・切りが無いぐらいある。
最後に「月月火水木金金」時間がない、休むことなく温暖化撃滅に向かって頑張ろう・・・・・・

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面白い本を見つけた。「戦時国策スローガン・全記録  帝国ニッポン標語集」といやつだ。何と4237句もの標語が集められている(どうやって調べたのかそれが知りたい)。内務省、大政翼賛会、各県庁、各新聞社、各出版社、東京標語研究会、中央文化連盟、国民総力朝鮮連盟、標語報国会、帝国農会、性病予防協会、鉱山統制会、蚕糸業組合、精農連盟、鉄道省運輸局、朝鮮繊維協会、各県警察部憲兵隊、児童愛護連盟、児童保護協会、司法保護連盟、樺太連合保護協会、県国民学校、台湾結核予防協会、日本宣伝技術家協会、軍人援護会・・・・・・などなどあらゆる団体から戦意高揚のためのスローガンが出されていたのだ。挙国一致で戦争を遂行していったということは、こういうことだったんだと改めて知らされた。蕾
この国は六十何年か前に、こんなスローガンを掲げて「進め一億 火の玉だ」と頑張った貴重な経験があるのだ。この意気込みがあれば、現在の敵、温暖化の撃滅も夢ではなかろう。六十何年か前に挙国一致と言うのは少し早すぎたが、それを踏まえて今回は「挙世界一致」で行かなければならないのだろう。
そこで先人達が編み出したスローガンで現在使えそうな物を解析してみた。
先ずは何と言っても「欲しがりません勝つまでは」である。これは、温暖化を撃滅し勝利するまでは、石油を欲張って沢山手に入れるようなことはしない、という意味であり、全ての原点になるスローガンと言え、温暖化掃討作戦にも是非使いたい。濡れは
「非常時乗り切る協力一致」これは温暖化によってもたらされた環境悪化という非常時から、元の環境を奪い返すまでみんなで一丸となって協力していこう、というこだ。これも当然なことだが現在は意外となされていない。
「示せ世界に平和と正義」日本が率先して二酸化炭素を出さない新しい生活の仕方で、より快適に生きられることを示そう。太陽エネルギーにより発電された電力の地球ネットワークが出来れば、少なくともエネルギー争奪戦争から人類は解放されることになり、かなり多くの平和がもたらされる、ということで、戦争が起こるのはエネルギーだけではないが、この国も資源とエネルギー欲しさに国境を越えてしまった苦い経験がある。
「協力一致、強力日本」日本全体で温暖化のという敵に向かって一致団結協力すれば、日本はリーダーシップを取ることが出来、強力な発言力を持て、温暖化戦争の最前線ばかりでなくその後の経済活動でも大きな力を発揮することが出来る。
「結べ一億心の絆」「つなげ一億心と心」「進め一億皆戦士」「一億が心一つに道一つ」「力だ意気だこれからだ」「この時 この意気 この力」これらも温暖化撲滅のスローガンとしてはなかなか良い。いずれも、もう機は熟している、今やらなければ後れを取りかねない、一気に力を合わせ総攻撃で温暖化を撃滅しよう。これらはどれも至って情緒的、精神的ではあるが日々の省エネ生活の邁進に大いに力づけられる。
「熱だ力だ総力戦」温暖化をのさばらせているのは、熱エネルギーの浪費である。国民総動員の大きな力を持って温暖化ごときを制圧しよう。
「笑顔で耐えよ長期戦」価値観を変え、生活パターンを変えても笑顔で長い人生を生きて行こう。ゆず
「事変は長期、勝利は根気」温暖化による環境事変に対しては、時間を掛けて根気よく快適環境を取り戻そう。
「最初の意気込み最後まで」無駄を省き、二酸化炭素排出の少ない生活を始めたら、その意気を忘れず、温暖化をやっつけるまで頑張ろう。
「長期の戦に短期は禁物」もうバランスが崩れてしまった温暖化は簡単に回復しそうもない。じっくり腰を据えて勝つまで戦っていこう。孫達のためにも。
「国が有っての命と金だ」まさに地球あっての命と金であり、自分だけの命と金を考えても、そのことを考えさせてくれる快適な地球環境がなければ全てが成り立たない。などなどこんなスローガンが有れば温暖化対策など何てこと無いんじゃないかと思う。最後に「鬼畜欲望」か?・・・・こんなスローガンを参考にすれば少しは自分のことしか考えない世相が変わるんじゃないかと思ったのだが・・・・よく考えてみるとこれらのスローガンを立てて戦ったのだが、結局か300万人以上の犠牲を払って負けちゃった訳で、これらのスローガンをブチ上げて言葉に酔っている暇があったら、自分の生活を見直し実行しなければ温暖化戦争にもまた勝てないのかも知れない???

さぎ生活の周りを見ると殆どの物がとても便利になった。便利のかなりの部分が「自動化」によってもたらされている。つまり人が判断して手を掛けずとも、決められた手順であるが、物が自分で動き、ある仕事を成し遂げてくれるということである。ハンディキャップを持った人がそれに影響されずに楽しい生活が出来る為の自動化は至って重要であると思うのだが、商品の差別化のために、他社との違いを出すためだけの、ただ沢山売れればいいやと言うためだけの自動化は、ただ単に人間をだめにしていくような気がして成らない(多分余計なお世話)。現在の究極の自動化は「パソコンゲーム」だと思う。何の訓練も努力もなしに、あたかも超能力があるような世界に連れて行ってくれるからだ。本来そういうことは自分の頭の中で夢を見て想像し努力して成し遂げることであるが、その努力なしに安易に虚構の世界に連れて行ってくれる便利な物の代表格であろう。また「パソコンゲーム」は虚構の世界で時間をつぶしている間に現実の世界で体験する時間を奪っていることが大きな問題だと思う。
オートマチック車も勿論自動化である。エンジンの能力を自分なりに引き出したいと思うのであれば、マニアル車にすべきだと今でも思っているし、マニアル車で坂道発進が出来なくなるなど自分の運動神経の老化を判断するために、マニアル車はそれなりに有効であると思っている。今は殆どオートマチックになったため、何才になっても何となく車を走らせることが出来、本来道路を走る資格を失うべき人間に対して野放し状態になっているように思う。だからずっとマニアル車で来たのだが、ハイブリッド車を運転してみるととてもマニアルでは成り立たないなということを感じる。
これは前にも書いたように燃費を良くするための目的で開発された車であるから、当然走っている時のあらゆるデーターを見ながら、燃費に対してそれらの最も良い組み合わせを見つけながら走らせることになる。どれだけの情報がインプットされて走っているのか運転している本人には全く解らないが、少なくとも人間の頭にそれらの情報を入れたら間違いなくパンクして即事故につながるだろう。よし
温暖化対策を考えながら車を運転するのであれば、その為には燃費を最大のテーマにしなければならないとなると、コンピューターに頼んで判断してもらうオートマ化しかないだろう。人間が自身で移動する速度に比べ10倍20倍30倍の速度で移動し、猶且つCO2を最小にするために、路面の状態、4輪に掛かっている負荷の違い、発電量、充電量などなど・・・・のデーターから各々の最適値の組み合わせを見つけなければならないなど、これはどう見ても人間の能力では不可能でありコンピューターに制御されたオートマしかあり得ない。それでは老化による運動能力の低下はどう判断するのか・・・・結局は完全オートマ化になるのだろう。人は行く先をコンピューターに指定するだけであり、あとは全く人が関与しなくても良くなるのだろう。そうすると動く個室の中で何をやるのも自由になり、どんな社会になって行くのだろうか・・・・
カメラの自動化にはかなりその恩恵を受けている。しかし、自動化される以前のカメラを多少知っているから自動化されたことを恩恵と感じるが、初めから今のカメラを使うとなると、そのありがたみは理解できないのではないだろうか。そればかりでなく、物事の理屈を考え理解する脳みそ機能も放棄することになってしまうのではないだろうか。写真を撮るとは、自分がそこで感じた場面を、感じたままに残したいという衝動だと思う。
単に事故現場写真のように、何処に何があったという事実関係だけがきちんと見れさえすれば良いのであれば、単に良く写るカメラが有れば良いのだが、出来るだけ感じたままを残したいと思うのであればやはり写真が撮れる理屈と仕組みを理解していなければならないと思う。花自動化されたカメラを買っただけでは、シャッター速度と絞りの関係、被写体の早さの関係、絞り値とピント範囲の関係、明るさとシャッター速度と絞り値の関係などなど・・・・全く理解することは出来ないだろう。自動化されていなければそういうことを理解しない訳にはいかなくなるが、オートカメラはそういう自然界の理屈を学ぶチャンスを奪ってしまうことになるとも言えないだろうか。ただオートフォーカスやブレによる有る程度のピンボケ防止機能は非常に有効であり、至って重宝している。何しろ300mm(35mmフィルムに換算すると450mm相当ぐらい)の望遠ズームでも三脚なしで何とか撮影することが出来るのだ。孫のスナップを撮るのを楽しんでいる素人にはすばらしい機能と言える。当然動きが速いのでオートフォーカス機能にも大いに感謝している。
このように自動化は正に諸刃の剣である場合が多い。単純に「便利だね」と言って買っちゃって良いかよく考えなければ成らないと思う。特にトイレのふたが自動で閉まるという機能は何で必要なのだろう。トイレのふたを閉めないという習慣は一体全体誰が必要なんだろうか。そんな商品を考えている暇があったら技術屋のプライドに掛けても、もっと何か世のためになる事を開発すべきではないだろうか、と思うのだが・・・・


床暖房を通して住まいを見ているが、人の生活は冬だけでなく四季の全てで快適でなければならない。特に夏に対しても快適でなければならないことは当然である。白鳥
今まで(現在もそうかも知れないが)夏場への配慮は冬場と同じように余り真剣に考えられては居なかったように思う。それは性能の良いクーラー(エアコン)が簡単に手に入るようになったからだろう。どんなに暑い部屋でもクーラーのスイッチを入れさえすれば冷風が吹き出し、何とか涼しさを得ることが出来るからだ。その為、日射の方向とそれによって引き起こされる室内への太陽熱の流入に対して、余り配慮された設計がなされていなかったのではないだろうか。しかし、何度も書いているように、ここに来て温暖化対応に対する状況が非常に大きく変化し始めている。夏場対策も適当な大きさのクーラーを入れればいいや、Low-eガラスで日射カットなどと安易(冬場の日射も入り難くなり、少なくても一年を通してCO2発生の低減には余り寄与しなくなってしまう)にはいかなくなったと思う。暑くとも寒くとも必要に応じてエネルギーを買って来れば、何とかなるんだという発想程度では家は作れなくなったのだと思う。新芽これからは、先ず第一にCO2を出さなくても快適に過ごせる家はどうあるべきかを考えるべきだろう。クーラーが無くても夏を快適に過ごせるようにするためには、先ず何を配慮すべきなのか考えるべきである。そんなことは日本の夏では不可能なんだなんて最初から諦めないで、これからは先ず徹底的に可能性を探るべきであろうと思う。
夏に配慮しなければならないことは三つある。一つ目は開口部から入り込む直射光(輻射熱)。二つ目は屋根や外壁を通して入ってくる伝導熱。三つ目は隣の屋根や壁、コンクリートのテラスからの反射熱や2次輻射熱などがあり、それらに対してここに対策を施さねばクーラーを使わず快適な住まいを作ることは出来ない。
勿論これに風の流れや冷輻射面を作ること、夜間冷気や放射冷却の利用を考慮することも至って大切なことである。
一つ目の直射光の差し込みの防止は室内が必ずどんな時間帯も陰になるようにするしかない。入射光防止のためにLow-eガラスは、少なくとも冬には太陽熱を取り込む南面には使うべきではないだろう。広葉樹でもツタ植物でも良いし、必ずしも庇と袖壁にしなければいけない訳ではないと思う。要は直射光を入れない工夫である。
二つ目は正に断熱材である。冬の室内の熱が外に流れ難くするための断熱材は、夏の外からの熱も入り難くしてくれる。材料によっては100℃以上にも上がってしまう屋根部に於いては、特に断熱材の配慮は欠かせない。茅葺き屋根の下の心地よさは1メートルもある茅の断熱性能が生み出していることをもう一度問い直してみる必要がある。それに比べて現在はいくらクーラーが使えると言っても余りにも薄すぎると思う。椿三つ目の外部からの反射熱や2次輻射熱の対策は前もって配慮すべきであるがなかなか難しい。東、西、北面であれば今度はLow-eガラスという手もあるかも知れない。但し一言でLow-eと言っても目的に応じて色々な特性の物があるのできちんと選択する必要がある。まあ余り難しいことを言わずにゴーヤとかヒョウタンとか植物で上手く目隠しをすれば生活をより楽しくできるかも知れない。
CO2を出来るだけ出さないで快適な生活をしようとすると、今まで余り考えなかった自然の仕組みの利用を先ずは徹底的に検討しなければならない。そうすると結局は「太陽エネルギーの利用の仕方」に行き着いてしまう。
CO2を出さない住まいの形と生活の仕方は、これだけ多くの設計士が居ることを考えると、そのみんなが一生懸命考えれば、意外と早く実現してしまうのではないだろうか・・・・

前回、家の断熱性能が暖房効果を決めるのであり、床暖房という発熱器あくまでも脇役に過ぎないと書いた。基本的に化石エネルギーを使う床暖房はこれから益々脇役になるような設計をすべきであろう。泡
「家と床暖房」との関係を「身体と衣服」との関係で考えてみたい。人間の体温は人によって違うが大体36℃前後である。36℃前後である理由は生物が専門ではないので良く分からないが、多分、体内の化学反応が最も効率的であるのと、タンパク質や細胞など身体を構成している材料の耐熱性との関係なのだろう。
人間はこの36℃前後の体温を維持するために文明を進化させたのだと思う。新芽もし体毛のように一定の熱貫流率であったなら、これほどあらゆる地の果てまでは生息することは出来なかっただろうし、文明も進化しなかったのだろう・・・・しかし、北極圏に住むには体毛を増やし何故熱貫流率を変えなかったんだろうか・・・・適応する時間が無いほど急いで北極圏に行かなければならない理由が有ったのだろうか・・・・と言うことはさておき、人間は36℃前後の体温を維持するために厚着になったり、薄着になったり、それでは足りずに暖房機器から熱をもらったり、クーラーからの冷風で身体を冷やしたり、扇風機の風で発汗気化熱を奪ったりして何とか体温を一定に保とうと日夜努力している。一般に言われている快適気温が18~20℃というのは、体内で発生する熱と、体外へ放出される熱流のバランスが最も最適で化学反応がスムーズに行われる温度なのだろう。寒いときは当然だが重ね着をして空気層の数を増やしたり、ダウンジャケットのように空気層を厚くして、熱貫流率を小さくして外気に逃げてゆこうとする熱の量と体内で発生する熱の量をバランスさせようとしている。人間の身体は外気温が下がり身体から逃げてゆく熱量が増えたからと言って、その分をどんどん体内で発熱させるようにはなっていない為である。衣服は逃げる熱量を調整することができる断熱材という言い方もできる。床暖房は人間の身体と同じように、家という身体の中で一定の熱量しか発生することが出来ない熱源装置である。床暖房の温度は人間が接触するため無闇に上げることは出来ないので、おいそれと発熱量を増やすわけにはいかないことを前回書いた。また家は人間の衣服のように必要に応じて断熱材を増やすわけにもいかないので、外気温が下がり熱量がもっと必要になっても床暖房だけでは対処しきれないことが起こることもある。黄梅床暖房はこのように暖房用の熱が設計値よりも必要になったときには対応できない。但し少なくはすることができる。ここが人間の身体とは違い優れたところであり、この機能があるから断熱性能をきちんと設計しておけば外気温がどんな状況になっても対応することが出来るのである。つまりどんなに外が寒くても、身体は寒くならないダウンジャケットをあらかじめ家に着せておくことが断熱性能の設計ということになる。外気温は勿論地域によって大きく違うし、何度までクリアー出来ればよいかということも生活の仕方、特に室内でどんな服装で居るのか、また違う視点から、例えばCO2をどれだけ押さえた生活をしたいのか、どれだけのランニングコストで冬を過ごしたいのか・・・・によって変わってくる。もし厳冬期用のダウンの上下を着るなら断熱材は勿論床暖房も必要無い(私はお断りだが)生活にすることができるかもしれな。
このように温熱環境の設計は生活に対する考え方と最低外気温を何処で見るかによって大きく変わってくる。

このところ急に寒くなったためなのだが、今まで水温を28℃に設定していて暖かかったのに急に効かなくなった、という苦情が来た。これはアクアレイヤーが故障したり性能が低下したのではなく、単に外の温度が下がったために感じられた当然の現象に過ぎない。雪横

一般的に床暖房は色々な面でいまだに理解されていないことが多い。これは床暖房という物がどういう物かということをきちんと説明してこなかったメーカーの責任が大きいと思う。特に部屋の広さの7割ぐらいの面積に敷き込めば、どんな所でも快適な暖房が出来るかのようなイメージを植え付けてしまったことが、その後の室内熱環境をきちんと捉える考え方を設計業界から奪ってしまったように思う(勿論床暖房だけの責任ではないが、どんな吹き抜けでも暖房できるという神話を作ってしまった罪は大きい)。しかし、床暖房を入れなければ快適な暖房空間にならないような家は、これからの時代には通用しないのではないだろうか。何故なら既存の床暖房の殆どは必ず何らかの化石エネルギーを使いCO2を発生させるうシステムだからだ。
もう一度、床暖房の「性能」ということについて書いてみたい。床暖房の性能というと二つに分けて考える必要がある。一つは単なる物理的な性能のことである。つまり1平方メートル当たりの発熱量だとか、耐荷重だとか・・・・である。床暖房を採用するに当たって、この発熱量の合計と暖房したい部屋から逃げる熱量との関係をしっかりと掴まなければならない。床暖房を入れて暖かいかどうかは床暖房が決める問題ではなく、家の性能が決めることである(このことも殆ど理解されていない)。床暖房を生かすも殺すも開口部を含めた家の総合的な断熱性能が決めることである。だから床暖房のカタログを見て暖房効果について論じることはナンセンスである。
椿もう一つの性能は人がどう感じるかという「体感性能」のことである。床暖房の性能とは本来この部分で検討されるべきである。これは床暖房が本質的に持っている特性で、家の熱特性などによって変わることではないからだ。
体感性能とは「こもり熱」に対する性能のことだが、アクアレイヤー以外の床暖房では全く述べられていない。
もし床暖房のカタログを集めて検討するのであればこの「体感に対する性能」をしっかり見るべきである。つまり、「こもり熱」を除去する構造を持っているかどうかということである。(温度に応じて流れる電流量を増減させるPTCという面状ヒーターがあるが、これは「こもり熱」の排除が目的ではない。温度上昇により電流を減らすといっても、電流が切れるわけではないので相変わらず発熱し続けることになる。PTCというのはあくまでもヒーターの過剰過熱防止機能であり、ヒーター保護機能である)
床暖房はよく薄いとか厚いとか議論される場合が多いが、それは家を作る側の都合だけのことであり、最も大切なお金を出す住まい手にとっての快適さの議論とは何も関係ない。床暖房を選択するに当たり何を基準にしたら良いのかもう一度考えてみる必要があると思う。
また暖房機器を機能別に分類するとおおよそ三つに分けられる。一つ目はエアコンのように空気を温めるタイプ。二つ目は石油ストーブのように空気を温めることと同時に輻射熱を利用するタイプ。三つ目は床暖房のように熱源に直接「体を接触」させることと輻射熱を利用するタイプである。
その他暖房機と称して500~1000Wぐらいのヒーターを人に向けて暖をとるタイプもあるが、それらは一般的に部屋全体を温めることを目的としていないので暖「房」機器とは言えず除外して考える(暖房とは房を暖めることを意味する)。
雪朝焼けこの三タイプの中で床暖房が唯一「体を接触」させて暖かさを得るタイプの暖房システムである。その為、足らないからと言って温度を無闇に上げることは出来ない。これは暖房機として大きな制限であるので、他の暖房機器と同じつもりで捉えるべきではない。つまり設置してしまってから熱不足に気が付いても後の祭りであることが多い(勿論ある範囲内での発熱量の増減は可能であり、アクアレイヤーの水温選択の最大値は一応35度にしている。本来、熱不足に対する対策は温度を上げることではなく、部屋から逃げる熱量を減らすことであるので、特に開口部からの逃げを少なくする対策を立てるべきである)。床暖房を採用するにはそれだけシビアーに設計する必要がある。
一般的に床暖房は部屋面積の7割ぐらい設置さえすればそれで十分だと言われることが多いが、一般論としての物理的な熱量のことで有ればそれでよいかも知れないが、住む人にとって快適な空間を設計するのにそれを鵜呑みにすることはナンセンスに近い。床暖房の選択の基準は当たり前であるが住む人にとってどれだけ良いかということである。その一つに暖房設備が有ることを感じさせないということ、自然な感じであると言うことがある。また、床暖房のカタログをいくら眺めたところで快適な温熱空間の住まいが出来るわけではない。住まいの温熱空間を作る主役はあくまでも建物自体の性能であり、床暖房はそれを補足する脇役に過ぎない。床暖房はそうのような位置付けとして捉えるべきである。
熱のことを定量的に捉えることはこれからの住まいの設計には欠かせない。
熱=エネルギー=CO2だからである。熱の使用量、つまりCO2の排出量を数字で明確にしながら、これからは住まいを設計しなければならないのではなかろうか。
生活の中でのCO2の排出量の低減値の限界を越えるのは生活の仕方だけでは出来ない。住まいの構造と仕組みが至って重要であると思う。

昨年の暮、ちょっと用事がありプリウスで往復171Kmを走った。何とリッター27.8Kmだった(これがプリウスにとってどの程度のことなのか知らない)。出来るだけ他の車に迷惑を掛けないようにした上で、如何に燃費を良くするかを考えながら走るのは楽しい。カモメ
燃費節約(乗らないことが最大の節約)の運転の仕方で最も重要なことは、先の先まで読むことだと思う。このことはかなり安全運転にも関係があるのではないだろうか。ちょっと腹が立つことは、通過できると思っていた信号が直前で変わってしまうことである。大きな運動エネルギーを持っているのに、それをブレーキ熱で捨ててしまうのは何とももったいないと思ってしまう。緩やかな起伏のある道路でアクセルを切り、良い調子でバッテリーに充電しながら下り、さあこれから惰性で登ろうという時にブレーキを掛けなければならない時も心中穏やかではない。本当にエネルギーを損した気になるので、そういう場合は出来るだけ停止線を越えて止まるようなことまでしている。他の車との競争でなく、自分の先を見通す能力と格闘しているようで何とも面白い。梅の蕾これは今まで乗っていた車では味わうことが出来ない楽しさである。いい年をして、わざわざエンジン音を大きくして(幼稚園児がアクセルを踏んだって大きな音ぐらい出すことは出来る)乗っているアホがいまだに多いが、如何に静かに走るかのテクニックを練習する方が頭を使わなければならずよっぽど面白い。
いずれにしてもプリウスは今までとは全く違う次元の楽しい車であると感じている。
そのハイブリッド車というプリウスが、どういう経緯で開発されたのか、技術屋の端くれと思っている者に取っては非常に興味があった。誰が、いつ、どういう思想で開発の決断を下したのか・・・・
そのことについての概略が朝日新聞に載った。それによると、プリウスの誕生は90年代初め、当時会長だった豊田英二氏の「21世紀に提案できる車を作るべきではないか」という思いから始まったようだ。しかし、94年に担当者から出てきた案は「99年末までにガソリンエンジンの改良と、新型変速機の採用などで燃費を1.5倍にする」ということだった。だが経営陣は満足せず、ここで「燃費は2倍」という命令になった。2倍となるとエンジンの改良では間に合わず「新しいシステムを開発しなければならない」ということになり、ハイブリッドシステムに決まったようだ。
水の光94年当時は、20世紀中に燃料電池車の量産は出来ないということ判断してのことだったらしい。95年6月にプリウスの開発がスタートしたのだが、商品化時期は99年末から98年に1年間前倒しになった。しかしその後すぐに社長になった奥田氏が更に1年の前倒しを命令したため、97年12月の京都会議の会場にプリウスの試作車を持ち込むことが出来た、ということのようだ。
これを読むと経営者の未来を想像する能力と決断する力が如何に大切か良く分かる。どんな小さな企業でも、国でも全く同じであると思う。物事を決める立場の者の、未来を見つめる想像力が欠如していたり、貧困であったりすると要は時代に取り残されることになってしまう。記事の中に書いてあるように、もし燃費1.5倍で満足していたらプリウスは生まれなかっただろうし、環境でトップを走るトヨタは存在していなかったわけである。
未来を見つめるということは、変化を読み取ることであり、夢を持つことであり、自分を変えられる勇気を持っていることなのではないかと思う。

何日か前のテレビ番組で住友電気工業が開発した高温超伝導送電線のことが放映され、非常に興味を持って見た。高温超伝導送電システムの開発は地球環境にとっても、これからの人類のエネルギー対策にとっても最も重要な課題の一つである。全世界が太陽エネルギーによって成り立つ社会にするためには、高温超伝導送電システムが開発できるかどうかに掛かっていると言っても過言ではない。それ故、高温超伝導送電システムの開発を全力で急ぎ、更に扱いやすく高性能な「常温」超伝導送電システムの技術を確立する必要があると思う。超電線*超伝導とはご存じのように、電線の抵抗がゼロになり、大電流が流しても熱としてのロスが起こらない現象のことである。1911年オランダのカマリン・オンネスによって発見された。但し、その時の温度はほぼ絶対零度(-273℃)に近かったのだが、近年、それよりもかなり高い温度である-196℃の液体窒素を用いて冷却することによって超伝導現象を起こす材料が見つかりつつあり、それらの材料を高温超電導材と呼ぶ。現在、-138℃で超電導を起こす材料まで見つかっているらしい。多分、そう時間が掛からないで常温で動作する超電導材が開発されるのだろう。世界中は常温超電導送電ネットワークで結ばれ、昼間の地域で太陽電池により発電された電力が、夜の地域に供給されるようになるだろう。そうなれば温暖化問題とエネルギー問題は一気に解決することになる。CO2を出さないエネルギー社会の到来である。
現在も原子力や核融合システムによる電力エネルギー供給が検討されているが、結局は太陽エネルギーを太陽電池(現在ある太陽電池という意味でない)で電力化するシステムの社会になるのだと思う。何故ならこれらのシステムは他のどんなシステムよりも、メカが含まれずシンプルであるからだ。つまりより植物的なシステムにエネルギー吸収変換技術が修練して行くと思われるからだ。化石エネルギーで寄り道をして懲りたのだから、もう他のエネルギーなどにちょっかいを出さず、太陽に頼ると割り切るべきでは無かろうか。
現在、通信において光ファイバーを使用することは当然であるが、30年以上前の光ファイバーに対する評価はかなり低いものだったと思う。しかし今は町場の電気工事屋さんでもいとも簡単に扱っている。今までの技術開発の歴史から見ると、こうしたい、こうありたいと思ったことはほとんど実現している。そんな事実から見れば、光ファイバーが通信のネットワークを可能にしたように、常温超伝導送電システムによる電力ネットワークの構築は全く夢などではないと思う。しかし、勿論技術の問題も大きいが、ハンドボールのニュースを見ていると産油国の圧力は私たちの想像を絶するものがあるのかも知れない。もしかして、この国が太陽電池の設置に対して積極的に見えないのは、もう既に大きな圧力が掛かっているからなのかと思ってしまう。
しかし、真の自立した国になるためにはエネルギーの首根っこを握られていたのでは不可能である。水仙*
現在、住友電気工業を筆頭に日本の超電導技術はかなり先端を走っているようである。いくら国内の高速道路網が出来てもエネルギーが無ければ何の役にも立たないのだし、エネルギーに関することは当然国策として最優先でガンガンやらねければならないと思う。先ずは温暖化対策とエネルギー対策、と言っても言い過ぎではないのではないだろうか(勿論、年金の問題を始め他のことはやらなくて良いと言っているのではない)。いずれにしても道路に使おうとしているらしい62兆があるなら、道路の前に日本中に一年間で降り注いだ太陽エネルギーを出来るだけ均一に全国に分配する電力ネットワークシステムを作って見る方が先だと思う。そういう技術開発と運用実績を作っておけば、いずれ来るであろう地球規模の電力ネットワーク時代に日本がリーダーシップを取ることになるだろう。化石エネルギーがほとんど皆無の国であるからこそ、温暖化阻止の意味も含めて太陽エネルギー社会移行することを世界に先駆けて先ずは宣言すべきである。
「電線画像提供は住友電工ホームページ」



1月8日の新聞に炭素税のことが載っていた。神奈川県がそれを導入することを検討しているということだ。無論、社会全体がそうなるべきと予測していたことだが、当然の帰結として社会は炭素税をある期間採用することにならざる得ないのだろう。
自然に放置し、個人の自主性や判断力のみに任せておいたら、つまり人間の本能に任せたら(と言うよりも本能のままが温暖化を作り出したのだ)、温暖化という事態は悪化をしても改善はとてもしないだろう。良い悪いは別にして、人間は自分が今まで時間を掛けて獲得してきた慣れを短時間でほとんど絶対変えようとしないし、できないからだ。日の出*
少し前まではそれを自分のスタイルとして振る舞うことがステータスでもあった。がそれを今見直さなければならない所に追い込まれたわけで、その切っ掛けとして炭素税導入は理にかなっていると思う。記事には、石油や石炭などを消費してCO2を排出する事業者や個人に課することを想定している。また、レジ袋の有料化や使用を禁止する条例の制定、白熱電球の製造、販売を禁止するなども検討すると記している。
人の生活の価値観や見る視点の価値観を変え、生き方の内容を変えるための切っ掛けになるだろう。
今までのようにCO2を多く出す人ほど一目置かれる社会から、CO2をより出さない生活を心がけている人が認められる社会に成るためには必要な対策の一つだろう(しかし、レジ袋より商品の入っているトレイの方を何とか出来ないのだろうか。レジ袋は買った商品の数から比べれば圧倒的に少ないし、使い道もあるが、トレイは数が多くてどうにもならない。ここに手を付けなければ片手落ちもいいところと思うのだが・・・・)。鳥居*温暖化が至って急速なように、当然であるが社会の変化も急速になってきたし、人の気持ちも急速に変化していることを色々な場面で肌に感じることが出来る。5年前に炭素税と言ったら大部分の人は拒絶反応を示したろうが、現在はそれほどでもないんじゃないだろうか。
人間の生活を支えているのがエネルギーであるのだから、さしあたってますます生活の全てに炭素税が掛かるようになるのだろう。但し、いまだに経済産業省や産業界からは「国際競争力を削ぐ」などと反発が強いらしい。1000年先の時代から今を振り返った時、価値観の変化がかなり瞬間的に起こったように見えると思う。所詮結果は決まっているんだから、余りぐちゃぐちゃ言っていないでビジネスチャンスにすべきではないだろうか。
多分、「炭素税の掛からない住宅を造って」なんていう注文も常識になるだろう。要するに「太陽エネルギーで快適に生活できる家を造って」ということである。そうなれば正に新しいビジネスチャンスである。何度も書いているように、今まではエネルギーは必要なだけ買えばいいじゃないかとして全てを進めてきた。そんな発想の元でしか成り立ち得なかった考え方と商品はこれからは成り立つ訳がないのだから、全ては新たなビジネスチャンスに結びつくだろう。結びつけねば炭素税が存在するこれからの社会では生きてゆけないだろう。
今は、生きるということが「先を読む力が有るかどうか」で決まるということが明確に意識させられる時代なのだと思う。

電気自動車と太陽電池にペアで補助金を

たまには温暖化に対して明るい考え方を提案したい。先日、三菱とスバルが電気自動車の発売時期を出来るだけ早くしたいという趣旨の報道があった(三菱だけだったかな?)。出来る限り何処のメーカーも早くして欲しい。スバル*自宅で充電してそれで走れるんだからなんとも楽しいことだ。大都市に於いては公共交通網があるので車が無くても生活できるが、経済合理性だけで切り捨てられてしまった地方に於いては、車は絶対必需品である。
私は東京での仕事の為に車を使うことはほとんど無い。ほんのたまに工事用機材を持って行かなければならない仕事の場合は、車で東京へ行かざるを得ないが、そんなことは一年に一回もないぐらいだ。打ち合わせや説明のために東京、神奈川、埼玉あたりへは頻繁に行くが、意図的に車は使わないようにしているし、車を使わない方が全てにとって都合がよい。車でなければ絶対行かれない所であれば勿論致し方ないのかもしれないが、首都圏を移動するぐらいでは全く必要ないし、使うべきでない。車でなければ、第一、人との時間の約束を確実に守ることが出来る。車は間違いなく人との約束を守れないことが多い。それよりも普段、エコ、エコ、エコ・・・・と言いながら、一人乗るには余りにもでかすぎる車に乗るわけにはいかない。1000~2000ccの排ガスを出す訳だから、特に都内では公共交通機関を使うべきである。三菱2*
しかし、交通機関のない地方は別だ。車がなければ生きてゆけないと言っても大袈裟でないかも知れない。いくらCO2を出さない方が良いと言っても誰でもが自転車にするわけにはいかない。そんな時に電気自動車は絶好である。ガソリンが無くて走るわけで、自宅で充電して走れるなんて何と楽しいことか。そんな現実が目の前に迫っている。しかし、電灯線から充電するということはCO2と無縁ではない。この際、どうせなら電気自動車は徹底的に無縁にすべきである。その為には太陽電池とペアで出来るだけ多く補助金を出すべきである。そうすれば生産時のCO2は別にして全くCO2を出さない車社会を作ることが出来る。電気自動車は個人の所有かも知れないが、社会にプラスになる存在だと言うことも出来る。当然、太陽電池も個人の屋根に取り付けるかも知れないが、それが系統連係されている以上、社会に対するエネルギー供給インフラであり正に社会的、国家的存在である。いまだに太陽電池はペイしないなんて言っている人にガソリン代の計算まで入っているんだろうか。勿論入っているわけがないと思うが・・・・。
車は今まで通り走っているのに排ガスゼロの社会なんて考えただけでも楽しいのではないだろうか。
次のプリウスは自宅で充電して60Kmぐらい排ガスなしで走れるようだ。もし金が許せば、というより金で済むなら買い換えてみたいと思っている(今のプリウスが中古車としてガソリンエンジン車を持っている人の買い換えになれば、それはそれで良いと思う)。そうすれば昼間太陽電池で発電している時間帯に充電することが出来、一年を通してほとんどCO2を出さない車生活が出来ることになる。
何はともあれ、これから62兆も掛けて高速道路を作るなどという正に化石のような考えはおさらばして、CO2の出ない車社会構築に回すべきである。
たまには「流石!」と言われるようなことをやってみたらどうでしょうか・・・・
(上がスバル、下が三菱)

0108

今日のテレビ番組で東京湾の入り口、館山沖の海底の状況が報じられていた。そこには珊瑚礁と沖縄で見るような魚たちが泳いでいた。海水温が上がったために沖縄へ行かなくても珊瑚や熱帯魚が見られるようになったのである。しかし、沖縄の海底で珊瑚が白化しても東京で育っていれば良いじゃないか、と納得するわけにはいかない。そういうことで簡単に片付けられる問題ではない。水の館*
このことは自然のバランスが崩れたことを具体的に見せてくれているが、それが意味していることは自分たちが一般的に感じるイメージよりも想像できないほど大きなものであると思う。
地球上の全海水の温度を1度上げる為に必要な莫大な熱エネルギーについては去年の10月5日のブログで書いた。そのことを考えると既に想像を超える熱エネルギーが海水に溜まりつつあることを東京湾の珊瑚礁は示している。
今日の気温は3月の暖かさだったそうだが、気温がちょっと上がったのと、莫大な熱容量を持った海水の温度が上がったのとは全く意味が違うし、勿論環境に対する影響は計り知れない。最も暖まりにくい、比熱が最も大きい水の温度が上がり始めたのだから、ちょっと取り返しが付かない域に既に突入しつつあるのかもしれない。
報道とはより真実を伝えるものだと思うのだが、東京湾海底のこの番組は単なる表面的な一面だけしか伝えていないように感じられた。こういう中途半端な内容の作り方をすると、見る人に温暖化の切迫感が伝わらないばかりか、むしろ軽くいい加減に捉える風潮を助長する事になってしまうのではないだろうか。鳥*
海水の温度上昇が始まった異常さ、環境の激変につながる怖さをもっと正確に伝えるべきではないだろうか。
海水温度が上がれば勿論膨張して体積が増えるし、南極の氷も溶けるだろうし、北極海に氷も出来なくなるだろうし、・・・・さらに連鎖反応的に多くの変化を引き起こすだろう。結婚した離婚した程度の報道番組とは違うんだということを、もっと工夫して伝えることはできないだろうか。
確かにいくら正確に真剣に伝えても、こと温暖化に対しては理解できない人、理解しようとしない人も多くいるだろう。
大部分の人は未知の未来のために今日の現実を変えたくないのは当然である。人類初めての経験であり、また余りにも急速であるため、それに気が付き理解する人が少なくてもしょうがない。だから常により理解しやすく、正確に関連性を伝える努力をもっともっとすべきであると思う。




0106

この正月中に多くの温暖化に対する番組が放映された。このようにテレビ番組が増えたことは至って好ましいことだと思う。しかし、どの番組も息を呑み絶句するような内容であるにもかかわらず、最後に付け加えられている「まだ間に合う」という言葉が反って絶望感を誇張しているようだった。特に北極海の氷の激減はもう既に回復できる臨界点を通過してしまったことを強く示唆しているのではないかとさえ思えた。又どの番組も、人間が人類に進化した昔よりその本質が何も変わらず、だから現代文明を獲得できたのだが、その変わらない飽くなき欲望性と怠惰性の総決算として温暖化を招いたことを暗示していたよだった。水*
特に環境考古学(だったと思うが)という視点から見たローマ帝国を始め多くの国の衰退の歴史は、自然からの際限のないエネルギーの収奪、つまり制御の利かない森林伐採が招いたものだということにかなり納得させられた。人間が他の動物と違い、人間たらんとするところの最大の特徴はエネルギーを使えることである。エネルギーが無ければ生活が成り立たないことである。火を使える唯一の動物が人間であることは周知の事実である。だとすれば類人猿から人間に進化した時点で、既に温暖化に曝される運命は決まっていたのではなかったんだろうか。木*この地球が46億年掛けて到達した、この巨大なバランスシステム、それを支えている巨大な熱容量に変化が現れたことは、その測定値が如何に微少でもそこに隠れている変化の莫大な「総量」は想像を絶する値なのである。人間はいつでも「変化」には気づいても、その変化を引き起こした「総量」を五感で感じることはできない。何故なら「総量」は科学的測定によって得られたデーターの変化量に基づき「想像力」を働かせることでしか理解できないからだ。
今年も何人もの人に「良いお年を・・・」と言った。何人もの人に「良い年でありますように・・・」と書いた。勿論そうあって欲しいという願いを込めてであるが、今まで感じなかった何とも言えない空しさを感じてしまった。身の回りで生活に不都合になるような変化が起きなければ、もしかしたら良い年と感じる一年を過ごすことが出来るかも知れないが、感じられないところで一時も止まることなく進行している環境変化という冷酷な現実があると思うと、「良いお年を・・・」と言ったことが単なる上辺だけの決まり文句に過ぎなかったような気がした。
見て見ぬ振り、知って知らぬ振りは今年は通用しそうもないと思うし、正月ぐらいは嫌なことは忘れて・・・などと悠長なことは言っていられないと思う。
また、毎年各地で行われている、新しい一年の五穀豊穣と無病息災を願う神事も温暖化の現実にかき消されてゆくように思えた正月であった。
一年の計は元旦にあり、温暖化ストップの実行を更に進めて行きたいと思う。



1月2日、2つの番組を見た。いずれもNHK衛星第一でA.M.10:10~12:00地球特派員スペシャル「カーボンチャンス」とP.M.10:10~12:00「BS特集-未来への提言スペシャル・地球温暖化に挑む」である。「カーボンチャンス」では特にドイツの温暖化阻止に対する取り組みの実情が取材されていた。「すごいな!」の一言であった。同じ人間なのに何故こうも違うのか、同じ人間が構成している、同じように石油の取れない国なのに何故違うのか。何故こんなに差があるんだろうか。絶望的になるのは私だけなんだろうか・・・・結局は自然の美しさと未来の快適さを求めた愛国心(愛人間心、愛地球心、愛自然心・・・)の違いなのではなかろうか(この国では全く反対の、未来に対してではなく、過去帰りの美しい国という言葉が、全くはやりはしなかったが一時流れて、いとも簡単に消えた)。未来に危機感を持つ「想像力」がなければ、本当に孫を愛する気持ち(お年玉の額ではない)がなければ、こういう政策を実行することは出来ないだろう。この親にしてこの子あり、この国民にしてこの公僕あり、この選挙民にしてこの議員あり、などとは言っていられない。一億総脳天気では済まされない。ドイツ人には顔が立たないなと感じた。夕日*
「BS特集-未来への提言スペシャル・地球温暖化に挑む」ではジェームズ・ハンセン氏が30年前から温暖化の危険性を指摘してきた事が語られたいた。しかし、ブッシュ政権がそれらの行動に対してあからさまに妨害したらしい。地球上に済んでいる以上、温暖化による環境破壊で得する人間は居ないはずなのに、何故温暖化に賛成するのだろうか。何処の国にもそんな種類の人間は居るものらしい。「温暖化している科学的な根拠はない」とこの政権は何度でも言っていた。産業革命以来緩やかに増加してきた二酸化炭素が近年急速に増加しているグラフを見れば、それに人口の増加、車の増加、石油石炭の使用量の増加、GDPの増加などのグラフを見れば、そのことが何よりも証明しているのではないだろうか。何を持って科学的に証明されたというのか知らないが、こと温暖化に対しては解ってからでは遅すぎることぐらい、科学者でなくても解ることであろう。
人類には二種類のタイプが有るようだ。一つは未来を予測できるため、現在の行動を見直すことが出来るタイプ。もう一つは現在の自分にしがみつき、今したい欲望しか考えないタイプである。木彫*温暖化は人類史上最大のビジネスチャンスと再三書いてきた。勿論これは単なる儲けるチャンスと言うことではない。新しくチャレンジすることに満ちあふれた時代ということである。誰でもが生き甲斐に感じることを、新たに見つけられる社会ということである。ドイツではいち早くそういう社会に入り始めていることを感じた。エネルギーの自立、国としての自立、個人としての自立を目指すことは本来当然なことなのだろう。その為に人類は科学技術を進化させてきたのだろう。そしてそれを今、実行するチャンスが巡ってきたのだと思う。温暖化という状況を利用して一気に、気兼ねなくエネルギーを消費できる太陽エネルギーの社会に転換すべきである。
人間は事あるごとに「自分は・・・」と自己主張に終始する。しかし自己主張をするための究極のベースがエネルギーの自立ではあるまいか。それを他国に握られていて自己主張でもあるまい。当然、エネルギーの自立を目指そうとしていない国の、どんな自己主張も説得力に欠け、信頼感を得られないのではないだろうか。
この国に於ける地方の疲弊は未来を見つめたエネルギー政策の失敗であろう。石油と原子力をベースにした合理性追求の結果が極端な都市集中である。
金に任せて食料の多くまで輸入に頼り、都市集中を成り立たせてきた政策の失敗である。
そのツケが地方に回ったのではないだろうか。付焼刃的な補助金程度で地方が復活するわけがない。この国の都市文明は、あくまでも命の手綱を他国に握られた砂上の楼閣に過ぎないと感じる。そんな中でいくら意気揚々といっぱしぶっても何ともむなしさを感じるのだが・・・・

明けましておめでとうございます。夕日1*
また太陽の周り約90億Kmを23度26分傾き、自ら24時間で自転しながら、時速約10万Kmで46億年繰り返されている地球の新たな1年の旅が始まった。
体積が地球のい1千倍以上あり1億5万Kmはなれた太陽からもし太陽人が地球を見たら、多分ほとんど何も変わっていないように見えるだろう。しかし大きな望遠鏡を使っていたら極冠の氷の量が少し変化し、おかしいなと感じるかも知れない。獅子舞*年末、2007年の間にテレビが放映した時間の合計から、そのランキングが発表されていた。必ずしも民意とテレビ局の思惑が一致している訳ではないだろうから、この情報が参考になるとは限らないが、少なくとも温暖化による環境破壊の問題はいまだに第一位にはなっていない。しかし新聞での取り上げ方が急速に多くなっていることを見ていても、状況は大きく変わりつつ有ることは事実である。こんな言い方を繰り返していてもしょうがないが、今年こそは温暖化防止対策のターニングポイントの年になって欲しいと思う。色の連*
自分が生きているということはエネルギーを消費することである。エネルギーを消費することは二酸化炭素を排出することである。自分が快適さ(怠惰?)を求めれば求めるほど、エネルギーは消費され二酸化炭素は排出される。人間にとってエネルギーは絶対に必要な物である。エネルギーを無視しては人間であること自体が成り立たなくなる。それほどエネルギーが重要であるなら、出来るだけ早く化石エネルギーの呪祖から脱却すべきである。無限の太陽エネルギーを使う技術の確立に集中すべきである。人類は太陽エネルギーを直接電気に変換できる太陽電池を既に持っている。それだけでも大きな武器になる。後は化石エネルギーであるが故に確立されている価値基準を全て払拭しなければならない。かつてこの国は300万人以上の自国民の犠牲者(他国に対してはそれの何倍も)と膨大な税金を使ってまで目的達成に邁進したことがある。それを考えれば温暖化という敵に立ち向かうことなど大したことではないと思う。
今、自分が生きていることによって排出する二酸化炭素の量は、同時に少なくとも60億倍(厳密に言うと少し違うが)が常に排出されていることを思うべきである。途方もない量であると思う。浮かぶ鳥*
いよいよ京都議定書が今日からスタートした。日本は1990年を基準にして2012年までに温室効果ガスである二酸化炭素・メタン・亜酸化窒素・ハイドロフルオロカーボン類・パーフルオロカーボン類・六フッ化硫黄について6%の削減しなければならない。
この数字は相変わらず今までの基準の基づいた経済を優先させるため、政治的駆け引きにより作られたものであろう。無いよりましだが環境にとってはかなり甘っちょろい数字なのだと思う。勘違いしてはいけない。私たちがしなければならない目標は、この数字を満足させることではない。目標はあくまでも、子供の代、孫の代、曾孫の代・・・・に対して良い地球環境を残すことである。その為に今何をするか、何が出来るかである。

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