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先回、「ゼロエミッションハウス」の事を書いたが、我々が言っているゼロハウスはその考え方に於いて、サミット用のゼロハウスとは、勿論イコールではない。黄色岩

同じゼロだから結果は一緒だが、簡単にゼロだから良いと言ってしまうのはやはり違うだろう。
既にCO2のバランスが崩れた地球環境に対しては、全ての面に於いてCO2をゼロにしなければならないはずだ。
その中で建築関係の仕事をしている我々が出来ることは、せめて住まいからのCO2排出をゼロにする為に努力することである。
つまり、社会全体がCO2ゼロに向かって努力している中の一つである、ということだ。
「革命」を広辞苑で引いてみると「天命を受けた有徳者が暴君に変わって天子となること」と有る。明鏡国語辞典には「被支配階級が支配階級を倒して国家権力を奪い取り、政治・経済などの社会構造を根本的に変革すること」「物事が社会生活に重大な影響をもたらすほど急激に発展・変革すること」と書かれている。レンガ橋630
CO2ゼロ住宅などと軽々しく言うが、これは文明の革命のことなのである。
それだけの覚悟を持って対応する問題だと思う。
今まではCO2をどんどん出すことが富の象徴であり、成功者の証であり、先進国としての自慢であったはずだ。それが突然「CO2を出すことを抑制しよう」という全く逆のことになって来たのだ。
広辞苑的に言えば、「CO2は出さないで行こうという有徳者が、CO2を大量に排出していた暴君を粛正しようとしている」と言うことであろう。
いくらCO2ゼロとはいえ設備過剰な家だけを「ゼロエミッションハウス」と称して大々的に誇示するのは、やはり大いに問題である。
先回のブログで切磋琢磨すれば良いのではないかと行ったが、よく考えてみるとやはりちょっと違うと思う。設備で埋め尽くすやり方は、全てをやり尽くした最後の手段でしかないと思う。先ずは、風土、つまり太陽の光と熱エネルギーと風の利用を考えるのが先決だ。
設備過剰のゼロハウスは、大した検討もしないでより安易な方法に飛びついたに過ぎないのではないだろうか。
そんな物だけが、あたかもCO2ゼロハウスの代表のように思われては社会にとってマイナスに成りかねない。
設備過剰のゼロハウスを作り上げることは、相変わらず単に企業経済のみを優先して考えているからなのではないだろうか。
「我が国はこんな優れた工業製品が沢山ありますよ。これらを沢山使えばCO2ゼロは簡単に達成できますよ。だから買ってください」と言うために作ったのではないのだろうか。
そこに環境を思いやる、つまり人類を含めた生命を思いやる気持ちなんか入っているんだろうか、と勘ぐりたくなってしまう。
しかし、何故CO2ゼロの家が必要なのか。
おかしいじゃないか。水口
家以外にゼロにしようといっている議論など何処にも無いのに、何故家だけゼロなんだろうか。家は単に目に付きやすく、やりやすいからなのか。それとも本当はもう全てに於いてCO2はゼロにしなければいけないことは分かっているが、それらから目を外すために、やりやすそうな住宅でお茶を濁そうと言うだけなのか。それとも単にサミット用のポーズに過ぎないのか。
CO2をゼロにしょうと言うことは大革命である。それも暴力でない大革命である。これは人類始まって以来のことではないだろうか。その為、短時間で一瞬にひっくり返すわけにはいかないだろう。かなり時間を要することであろうが、環境の激変は待ってくれない。しかし何とか間に合わせなければならない。
一人一人が仕事という持ち場の中で、生活という持ち場の中で本気で努力しさえすれば、革命は簡単に手に入れることが出来ると思うのだが・・・・
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洞爺湖サミットに向けていろいろと準備が成されているようだが、その中にCO2を全く出さない「ゼロエミッションハウス」というのがある。それを完成させるのに50社ばかりの企業が参加しているようだ。レンガ橋2
ミサワホームでも太陽電池で全てのエネルギーを賄うCO2ゼロの家を発表している。
つい最近「自立循環型住宅」でCO2を50%削減しようと提案されたと思ったら、60%や80%を通り越してもうゼロという言葉が踊るようになってしまった(温暖化に対する社会の変化には目を見張るものがある)。
しかし、今回のこれらのCO2ゼロを目指した提案を見ていると、どうもしっくり来ない。
化石エネルギーを大量に消費することを前提にした、今までの発想と何も進化しているようには見えないのである。全く、これらの住まいからは未来の住宅というイメージが感じられない。
サミット向けの「ゼロエミッションハウス」は参加企業を公募して50社ばかりが参加しているようである。先ず、太陽電池を一般の住宅の5倍近く乗せ、燃料電池、風力発電機、真空断熱材、高性能ヒートポンプ等々、要は今までと何も変わらないただの設備機器を詰め込んだだけのように見える。おみくじ2確かに、都会のど真ん中で屋根しか太陽エネルギーを得られない場合はこんな方法が良いのかも知れないが、相変わらず国がやると単に金ばっかり掛けるだけで、何だか余りにも想像力も芸も無いように感じる。
自然豊かな北海道なのだからもう少し「なるほど!」という工夫があっても良いんじゃないかと思う。無論ゼロを目指すのは大変なことであり、ますます試行錯誤が必要なんだと思うし、今はその途中過程なのであるからいろいろな提案があっても良いのだが、相変わらず自然に馴染むという謙虚さが無いように思う。
これで今までの失敗に学んだことによる未来社会が本当に構築できるのだろうか、と思ってしまう。こういう家は何も建てて実験するまでもなく、金さえつぎ込めば誰にでも出来ることである。金がより掛かった以外に何の新規性も感じられないし、まして「風土」などという言葉はここに存在させる必要は全く無いことになる。
生活からのCO2をゼロにすることは目標として当然であるが、先ずはそれぞれ違う風土、つまり自然エネルギーの分布に合わせて、その土地に於いて得られる自然エネルギー量の中で快適な生活が得られる為には、どういう住まいであらねばならないか、と考えるべきではないのだろうか。
太陽電池はこれからの住まいに於いて絶対必需品だが、だからといってそれを金まかせで沢山乗せて「どんなもんだ!」というような態度は、本当にそれだけで良いのかなと思ってしまう。しかし、みんなが積極的に「CO2ゼロ」を目指そうということは、基本的には勿論良いことである。神社2
方法はどうあろうとも、こういう家が発表されてしまえば「CO2ゼロ」が一人歩きをし出すだろう。そうなれば好むと好まざるとに関わらず、ユーザーの要求によりCO2ゼロを目指した設計及び建築をしなければならないことになるだろう。勿論、ゼロのモデルハウスが出来たからといってゼロを目指すわけではなく、誰に言われなくともこれからはあらゆる行動面でゼロを目指さなければならないだろう。設備ずくめごときのゼロハウスに負けているわけには行かない。
保守、革新の2大政党が切磋琢磨して進化して行くように、機械ずくめの保守と風土をベースに考える革新という構図で切磋琢磨できれば、少なくとも地球環境に対してマイナスには成らないのではないだろうか。



特に最近、仕事で設計士の人に会うと、温暖化問題を中心にして何か変革をしなければという圧力を感じる事が多くなった。それではと変革発信者及びその予備軍の人達に声を掛けた。
6月22日(日曜日)イゼナの4人を入れて15人が集まった。残念ながら4名の人がカゼや都合で来られなかったが、20人用の会議室が何とか埋まった。赤桃
当然テーマは、建築を通して温暖化をストップするにはどうするか、ということになった。
温暖化を阻止するためには万難を排さねばならないが、先ずは社会的影響力を最も発揮しやすい自分の仕事で最大限努力すべきであろう。勿論プライベートな生活に於いて努力することは当然であるが、仕事を通してこそ、その成果を更に大きくすることが出来る。今を稼ぐためにそんなことは言っていられない等と考えているようでは、先は間違いなく稼げないようになるだろう。
「住まい」と言うからにはどんな物でも必ずその中でエネルギーを消費している。人間が生きている以上、エネルギーは最も大切な物である。エネルギーと一言でいっても人間に必要なエネルギーは二つに分けて考える必要がある。一つは生きるためのベースになっているエネルギー、言わずと知れた地球の温度を平均15℃にしている太陽エネルギーである。これが適当でなければ全ての生命の存在は成り立たない。人間も好むと好まざるとに関わらず太陽エネルギーの恩恵無しには存在し得ないのである。
もう一つのエネルギーは人間だけの生活をより快適にするためのエネルギーである。近年は電気エネルギーが絶対必需品に成っているが、元を正せば化石や核の熱エネルギーである。人間は更なる快適さを求める為に、太陽エネルギー以外の熱エネルギーを必要としてきた。それは木材から始まり、石炭、石油、原子力と変化してきた。もし地球環境に無限のスペースと許容度が有るなら、それらをどんどん使っても良いのかも知れない。
しかし60億以上の人類が生きるために一人に分け与えられた空間は余りにも小さな成ってしまった。シャラ624
この小さなスペースの中で営々とCO2や核廃棄物を出し続けることは自ずと限界があり、CO2はその限界をもう超えてしまったのだろう。それが温暖化の始まりである。核廃棄物に至っては多分人類にとっては論外の話ではないのだろうか。
今の人類には自然の状態のままのエネルギーだけでは満足出来ないという傾向がある。熱エネルギーを自分の所だけに集中させて自由に使いたいという欲求がある。それが住まいの中では必ず化石エネルギーが必要であるという情況を作り出してしまった。
人間は現代を生きるための条件として、自由に使えるエネルギーが無くてはならず、それが1秒でも滞れば生きて行けないのじゃないかという恐怖感を持ってしまったようだ。
話が少し横に逸れるが、昼の弁当を買いに行くのに、ちょっとした山道を下って歩いて行くのだが、我々以外はほぼ全員クルマで買いに来ている。この店に来るのだからかなり近くの人ばかりだと思うのだが、いずれも我々前後の年の、至って暇そうな人達であるにも関わらずクルマである。歩いてもそう変わらない時間だと思うが、ガソリンをより多く消費したいのだろうとしか思えない。ましてやご丁寧にエンジンを掛けっぱなしで買い物をしている人もいる。こういう人達はガソリンエネルギーがどうなるかなど全くいまだに意に介していないのだろう。
人間は自然エネルギーの中で生かされているにもかかわらず、余りにも自然であるためにそれを意識することは出来ない。その上、住まいの中で使うエネルギーは金で買ってくるため、これもエネルギーという意識を持っていない。その為、住まいを設計するに当たってもエネルギーの視点はほとんど含まれていないと言っていい。
人類になる為に哺乳類の中から進化の道を歩み始めたのは500万年前と言われている。ホモサピエンスとして広がり始めたのは5万年前と言われている。石炭を使うようになってから300年は経っていないし、石油に至ってはたった100年であるし、原子力は50年でしかない。CO2が増え始めたのは石炭を使い始めた時期と一致している。黄花624
長い人類の歴史の中で化石エネルギーを使い始めたのはつい最近に過ぎない。そして今、その選択が多くのマイナス面を生み出していることに気が付いた。それならちょっと時計の針を逆回りさせて石炭を選択した時代まで戻って、改めて何を選択すべきか考え直してみるのも面白いのではないだろうか。当然CO2を出さず、安全なエネルギーの選択を考えるだろう。そうすれば選択は太陽エネルギーしかないことに気付くだろう。
今後、住まいを設計する時、必要なエネルギーは金で買ってくるエネルギーではなく、太陽エネルギーを徹底的に取り込める家を設計すべきである。取り込めたエネルギーだけで快適に過ごせる住まいの仕様を考えることがこれからの設計に成るだろう(エネルギーが買える物だという前提に立てば、何でもありに成ってしまい、予算内でやるという目標以外にどんな目標もなくなってしまうことになる)。そんな設計を何とかやっていこうという雰囲気がひしひしと伝わってくるような会になった。



先週の末から体調が悪かったり、関西へ出張だったりしてブログを書く時間がなかった。
中継文庫、山下康博著「指揮官の決断」を読んだ。アヤメ
1902年明治34年、あの悲惨な八甲田山死の雪中行軍について書かれた本である。
福島大尉率いる弘前隊と神成大尉率いる青森隊の記録を追ったものである。
結果はよく知られているように、同じ厳冬の吹雪に曝されていながら、弘前隊は全員無事踏破したが、青森隊はほぼ全滅してしまった。
原因は幾つかあるが、結果は出発前の段階で決まっていた。
弘前隊は2年前から準備をしていた38名の少数精鋭だが、青森隊は210名の大所帯の上に事前調査が至って不完全だったし、要は全てに於いて甘かったのだ。
今風に言えば、あらゆる場面を想定したシミュレーションが行われていなかったのだ。
その為、最悪の情況に陥ることがどういう事かも想定しないまま、装備が決められてしまうことになった。紫陽花
弘前隊は入念な準備の上に、当日は地元の道案内人を雇うことまでして、万全な体制を取っていた。一方、青森隊は村人が案内人を買って出たにも関わらず、それを退けるという失敗をスタートの時点で冒してしまった。
未来予測の甘さであり、過信であり、奢りであり、真剣度の欠如であったと思われる。
慎重の上にも慎重に、その上、繊細過ぎるくらい繊細な事前計画の違いが、全員生還と全員全滅の違いを生み出したのだと思う。
雪の怖さ、寒さの怖さにまで気が付かなかったことは想像力の欠如であるが、未知な物に対して精神論だけで何とかなるだろうという甘さが全滅を招いたのだと思う。
このことは日常の行動にも重要なことだし、企業の経営にも至って重要なことである。勿論、温暖化対策に対しても多くの示唆を与えてくれる。
結果の予想される被害量にもよるが、予測の付かない未来に対しては最悪を想定して準備をすべき事は当然だと思う。白鳥
近々起こると言われている鳥インフルエンザの人間感染に対しても、正に人命に関することであればこそ万全を期するべきだろう。何十万の死者が予測されているのであれば、先ずは全国民から集めた税金を道路などに使う前に、万全な鳥インフルエンザ対策のためにつぎ込むべきである。それが政治と言うものなのではないだろうか。
温暖化による被害はそれこそどんなことになるか、いくら想像をしても想像を超えることになってしまうだろう。そうであるからこそ最悪を想定してその対策を取るべきだと思う。
未来の安全のためには万難を排して対策を立てねばならないと思うが、現状は相変わらず経済優先の単なる辻褄合わせにも見えるが、人類は見えぬ未来にどれだけ真剣になれるんだろうか。
今を食うために経済は至って大切であるが、今食えたからと言ってその後全員があの世行きでは何のための経済だか分からない。
中途半端な対応の積み重ねは最悪の作戦である。本筋を見抜けない付け焼き刃的対処は傷口を広げるだけである。
CO2のバランスはもうとっくに崩れたのであり、単に増加率を鈍らせるだけのCO2対策では、多分もう既に遅いのだと思う。
今、必要なものは大きな想像力と、何が何でもCO2をゼロにしようという断固たる意志が必要なのではないだろうか。



橋梁や高架道路の耐久性が問題になっている。その一つはいわば常識化している、いい加減工事と手抜き工事が原因である。もう一つはこれらの構造物に寿命が有るということを認識していなかった為に、メンテナンスということを考えていなかったことから起こった。
白穂

崩落した橋が映し出されていた。全国にはこういう危険な橋がかなりあるらしい。
何故そんなになるまで放って置いたのか不思議だが、もっと不思議なのは補修する予算はなくても新しい道路を作る金は60兆ぐらい確保できるということだ。
普通の一般的な感覚だったら、新道路建設よりも先ずは安全性が完全に確保できるまで補修に金を投入するということが当たり前だと思うのだが・・・・そうしないのは万が一崩落して人が死んだとしても、責任を回避できる自信があるからなのだろうか? 特別責任を問われなければ補修などという地味な仕事はめんどくさいだけなのだろう。そんなところに金を使うより新しい橋を造って、華々しく渡り初めでもやった方が生き甲斐が感じられるし、息子に「この橋はお父さんが作ったのだぞ」などと言えるとでも思っているからなんだろう。
こういう情況を見せられると、橋を計画した連中というのは人命に関わろうと関わるまいと適当にやってれば良いと思っているんだろうな、と思ってしまう。赤芙蓉
まるで兵站を無視し軽蔑までしたこの前の戦争パターンと何も変わっていないように見える。特に食料と医薬品の補給が途絶えた結果は余りにも悲惨なものであった。
以前に、ビルマ戦線へ行かされた父が持っていた名簿を見せてもらったことがあった。大部分の人が戦死になっていたが、その内訳は餓死と病死だったそうだ。インパール、ガダルカナル、レイテ等数えればきりがないが勇猛果敢とはほど遠い結果はご存じの通りである。その後のメンテナンスである補修と兵站は同じ概念であると思う。いずれもやりっ放しであり、相変わらず何も反省されていないように見えるのは私だけなのだろうか。
首都高工事の際も問題が出るのは30年ぐらい先だからと言って粗雑な溶接工事を容認していたらしい(検査をきちんとしないで完了を認めていたのは容認と一緒である)。正に命に関わることなのだが、どうもそれらが人ごとになっているように思える。
自分の目の前で今すぐ事件が起きなければ結局人間はその危険さを理解できないものなのだろか。
だとすると「人間って本当に頭いいんですか?考えていることは大丈夫なんですか?」と自分も含めて問い直したくなる。
特に全く無責任でもいられる役所仕事に私達の安全を任せておくなど正気の沙汰ではないように思えてくる。現に薬害などを含めて数々の危険は、怠慢さという無責任体質と個々の命を思う想像力の欠如が作り出して来たのではないだろうか。村崎白
以前、とても衝撃的な発言だったので、今でもよく覚えているのだが、BSEの検査をイギリスに依頼したが手続きがめんどくさいので途中で中止した、というニュースが流れた。当時厚生省であったかどうか忘れたが「課長」の発言である。イギリスは日本にだけ意地悪をしたわけでもあるまいし・・・
国民の安全と健康を守ってくれている為の報酬として、私達が給料まで払って依頼しているのに、めんどくさいと感じたなどと、それも「課長」の発言であるにはびっくりしたどころか「あなた様は一体、何様と思っていらっしゃるのでしょうか」とつい口から出てしまった。
こういう橋の現実を見ていると、原子力発電所も所詮人間のやっていることだし、本当に大丈夫なんだろうかと心配になってしまう。
ましてや、この人達に温暖化対策のプログラム作りを任せておいても良いのだろうかと考えてしまう。 融通の利かない机上の空論を積み上げて本当に対策なんか出来るんだろうか? 単に仕事を作るためだけの対策プログラム作りには成っていやしないだろうか?
もっと私達が主導的に行動し、サービスセンター(役所)にはいろいろな対策の交通整理ぐらいの仕事だけを任せるようにしなければ、本当はいけないのではないだろうか。そうしないと「環境壊れて役所あり」なんと言うことに成りかねないのではないだろうか。
いずれにしても、この時代は個人が本当の自立とは何かと言うことを突き詰めて行かねばならないのだと思うが、世の中はそう簡単には変わりそうもない。

何年か前、庭に魚が泳いでいたり、睡蓮の花が咲いていたりしたらいいなと思い、120cm×90cmで高さ50cmぐらいの筑波石をくり抜いた水鉢を真壁まで行って買ってきた(勿論重すぎるので後日運んでもらった)。白
それには二階からの雨水が溜まるようにした。当初その中に細かい砂利を敷き、睡蓮の鉢を置き、金魚やドジョウを入れておいた。しかし、水浴びに来た鳥に食べられたり、大雨になった後などは冷たい雨水が流れ込んだせいなのか、みんな死んでしまった。
その為、再チャレンジで改めて直径70cmぐらいの火鉢のような水鉢を買って庭に置いた。現在、その中には黒い出目金2匹と赤い金魚が5ひき泳いでいる。初めは面白半分でエビなども一緒に入れてみたが、その内姿が消えてしまった。どうも金魚に食べられてしまったらしい。睡蓮もこちらに移したが、いまだに蕾さえ出ていない。黄色69
夏になると家の周りにはヤブ蚊が多いのだが、さすがに金魚がいるせいかボウフラは発生しない。水面に蜘蛛が落ちたりするとパクッと金魚が食べているので、卵を産み付けようとしているヤブ蚊を下からパクッとやっているのかも知れない。
その水鉢は白い焼き物であるため、水が緑色に濁ったり内面が茶色に汚れたように成るととても目立ってしまう。その度に魚たちが息苦しくなってしまうようで、休みの日に気分転換を兼ねて時々水換えをしている。その時は内側も真っ白くなるように洗うようにしている。
もう一つは水草についてであるが、出来るだけ金魚にとって自然ぽく成るかも知れないと思い2種類入れてある。しかし、時間が経つとそれが茶色く変色したり、色が抜けてしまったようになってしまう。そうなると手の着けようがないので買い直している。紫1
鉢の中の水は循環させ浄化しているわけではなく、単に溜め置いているだけである。
ここまで書くと淡水中の生態系に詳しい人は、これらの現象がどうして起こっているのかなどは直ぐに分かってしまうのだろう。
いろいろ問題が起こるとは思っていたが、特別興味があったわけではないので、今まで余り深く考えてこなかった。しかし、1週間前に水を取り替えて綺麗にしたのに、もう緑色に成ってしまい、かなり上まで上がってこないと魚の姿も見えなくなってしまった。
頻繁に水を取り替える暇もないし、いよいよ何とかしなければと思い、村上光正著の「きれいな水、池・水槽浄化の仕方」という本を読んでみた。
至って当たり前のことなのだが、自分が常識と思ってやっていることのいかに非常識であるかを改めて思い知らされた。水中のメカニズムのことなど何一つ知らないのに自分の判断で次の行動を決めているのである。
普段の生活の中で本来判断できないはずなのに何気なく判断してしまうことが非常に多いんじやないんだろうかと改めて思った。
自分が本当に自信を持てる知識とは一体何だろうかと考えると何とも自信が無くなってしまう。紫2
そう言えば以前、生ゴミを堆肥にしようと思い、自分の常識からある構造の容器を作ったことがある。きちんと勉強もせず自分の常識とやらでやった為、見事に失敗した。
やはり物事に対して甘いし、64年も生きてきたことによる自惚れ心があったんだろう。
何だか、ろくな常識を形成出来なかったことにも少し唖然とする。
人間は毎日自分の常識で判断しながら「これで良し」と思いながら社会生活を営んでいる。
こういう失敗をやらかしてしまうと、本当にこれで良いんだろうかと自分自身で疑心暗鬼になってしまいそうだ。
温暖化による結果は正確には誰も分からない。報道される自然現象や文章などから自分の常識で想像し、判断するしかない。
しかし、今まで自分が温暖化を意識しない時に持っていた常識だけで判断しようとしている。
それで良いんだろうか。そんな軽いことなんだろうか。
温暖化を判断する常識を研ぎ澄ますために、新たな常識を形成する努力が先ず必要なのではないだろうか・・・・

大阪府で財形立て直しのため、職員の変革が求められている。住民に選ばれた新知事が孤軍奮闘している様子がテレビのニュースで度々伝えられている。水滴大
しかし、変革を求められている当事者からは「あとだしじゃんけんじゃないか」などという訳の分からない全くピントのはずれの発言が出ていた。小学生ならまだしも、思慮分別があるはずの良い年をしたおじさんからである。これが今のこの国のパブリックサーバントの現状を表している。こんな交渉の時に限って一生懸命である。仕事の時にこんな形相が出ているんだろうかと思う。
大赤字と成った時の社会の常識では半数はリストラだろう。それが給料を何%か減で済まされようとしているのだから「出資者の市民の皆さん!有り難うございました」と感謝の一言ぐらいあっても良いところだ。市民が快適で安全な社会にしたいが為に出資した税金である。自分達が稼いだ金でなく、依頼された預かり金である。年金もそうだが、それを市民からは分からない裏金にして勝手に使ったり、あろう事かちゃっかり着服までしている。
曲がりなりにもちっぽけな会社を経営しているといろいろな目に遭う。まさに起伏の激しい稜線を歩いているようだ。上がったり下がったりと神経が休まる暇がない。そんな中でも、何とか社会のためにと、請求されるままに出資(税金を払う)を続けている。
水滴蛍この経済の社会は結果が全てである(個人としてのあり方は違う)。赤字にしてしまったらどんな言い訳をしようと通用しない。まして「一生懸命やった」などと言うことは最悪の弁解である。本当に一生懸命やったなら赤字になどは成らない。時々、残業をして忙しいなどと言うことを聞くが、業務の内容を言わずにそんなことを言っても誰も信用しない。多分、普段気を抜いて適当にやっているから残業の形を取らざる得なかったのだろうと思う。
人生に「標準的人生」など無いのだ。その時代その歴史の中で自分に降りかかった条件の中で生きるのが人生じゃないだろうか。それこそ、その中で一生懸命やるのが人生だと思う。だからといって報われるかどうかは全く別問題である。それも人生である。
戦争の時代という余りにも過酷な余りにも理不尽な人生を生きなければならなかった人がどれほど居たことか。
それと比べれば人が出した出資金で生活している環境など太陽とスッポンである。
こちらから見れば金を稼ぐ心配を何もせず生きていられるんだから、その金がほんの少し減るくらいで目くじらを立てている場合ではないと思う。もう少し仕事に真剣に取り組んでいるなら、赤字にしてしまったことを恥じて、自ら返金するぐらいのことはするべきでないか。組合が赤字を棚に上げぎゃーぎゃー言っているのは成人した大人としてみっともない。自分の子供に対する教育にも良くないんじゃないだろうか。父の背中を子供が見ていると、人生は甘いものだと教えられているようなものだ。
赤字というものがどうして起きたのか真剣に考えてみるべきだ。少なくとも一般の納税者(出資者)が出したものではない。出資金を効率よく使い公平で良い社会を作らねばならないはずなのに、そういうサービスをやらなければならない側のシステム、有り様が赤字を作り出したのである。つまり今までやって来たやり方が単に悪かったのだろう。
今、大赤字で自分達の判断でやって来たことが間違っていたことが分かったんだから、全てをゼロから見直すのは大人の社会の常識だと思う。
とは言っても、自分の力で金を稼いだ経験が無いのに、他人の金を本当に公平に真剣に運用することは神様にしかできない事であることも事実だ。特別神様に近いわけでもない普通の人間に、神様の真似事をしろというのも酷かも知れない。しかしそんなことは前から分かっているんだから、それを補うシステムを作るしかない。
水滴小それを補うシステムの一つに選挙による管理人(代議員)の選出というものが存在しているわけだが、それは何をやっていたのだろうか。当然それの責任もあるわけだが余り言われていないのも可笑しい。出資者が自ら選んだのだからちょっと言いようがないから追求もしないのだろうか。
我々が直接快適な社会建設に一々携わるわけにはいかないから、出資して給料まで払ってそれを代行してもらおうとしているわけでだ。しかし、そういうシステムだからいい加減さが蔓延する。それじゃ無くていいかというとそもいかない。徹底的な監視しか手は無いというのも、何とも情けないと思うのだが・・・
本当は出資する我々が全てやれればこういう問題は起きないのだが、勿論そうもしていられないし・・・・必要悪としてしょうがないのだろうか・・・。
しかし、気分悪いことばかりでもない。先日、近所の家で何の連絡も無し(前日にでも連絡をもらえていれば洗濯物も干さないし、窓も開けておく様なことはしない)に業者に頼んでいきなり殺虫剤を庭に散布し始めた。勿論その家に電話で直ぐ止めるようにいったが、止めようとしないので市役所に電話を入れた。最初、保健所の担当だなどと言っていたが、いろいろ調べてくれて直ぐに来てくれ、先方に対して迅速に対応してくれた。悪いことばかりではない。



このように自転車の使い方は全く個人の自由なのである。アイビー65
しかし、いくら自由だと言っても一度も自転車の旅をしたことがない人が旅をしようと思うとやはり躊躇してしまうだろう。特にリタイアした人が初めてチャレンジしようと思っても出発するのは中々難しいのだろう。
サイクリング関係の本を見ればいろいろ説明が書いてあるので、多段変速機の付いた専用のツアー車を買わないと旅など出来ないと感じてしまうかもしれない。
ましてそれを分解して輪行袋に入れ・・・何て考えてしまうとちょっと無理っぽくなってしまう。
でも1年間も自転車で旅をするわけではないのだから、初めは1泊か2泊ぐらいであればママチャリで買い物に行く延長ぐらいのつもりでも自転車の旅はできるのだ。
旅に行くと土地の人が自転車に乗っているのに出っくわすが、別にそれと何も変わらないのである。
自分の家からかなり離れた場所で、スーパーへ買い物に行くことが少し連続しているに過ぎないのである。
自転車の旅というと少し大袈裟に聞こえるが、誰でもが出来る気楽な遊びなのである。
旅をする自転車を選ぶ時、最も大切な要件は軽いことであり、ツアー用として売られている物をわざわざ選ばなければ旅が出来ないわけではない(と言ってもこれも好みの問題なので決めつける必要はないが)。
勿論変速機が無ければ駄目なわけではない。
先ずは何しろ軽ければよいと思う。軽ければ軽いだけ持ち運びの自由度が増すことになるからだ。
次に大切なことはお尻が痛くならないようにすることである。ハンドルとサドルとペダルの位置関係が大切なので、分からなければ専門店に聞いた方が良い。その後に自分に合うサドルを探すことである。パンジー65
どんな自転車を選ぼうと旅が楽しければ良いのであり、自分が楽しめる旅の仕方を見つければ良いのである。サイクリングとはこうなんだという既成概念は無視すべきである。
変速機があればあったでそういう旅の仕方をすればいいし、無ければないでやはりそれなりに楽しめばよいのである。
自転車の旅の仕方の決まりなど無いのだから、全て自分流で楽しみを見つければよいのである。
ゆめゆめこうでないと自転車の旅は出来ないんだ、などと自分を縛り付けてはならない。
オートキャンプなんか特にそうだが、専門書と称する本を買うとオートキャンプに必要な物というのが必ず書いてある。あたかもそれらを持って行かないとオートキャンプではないかのようであるが、自分が楽しむために人から持ち物を指図される必要もないと思う。
自転車の旅も全く一緒である。あくまでも自分流で良いのであり、わざわざそれっぽい格好をする必要はないと思う。
若い頃、若気の至りだろうが京都まで500Kmを1日で走ってやろうと思った。残念ながら6回チャレンジして1度も成功しなかったが、自転車にはそういうことが出来るだろうと思わせる可能性を持っているのだと思う。
しかし、自転車は鉄板に囲まれた車に比べるとひ弱い存在である。車のことしか考えない道路作り、都市作りではその能力を十分発揮できない。
自分の力だけで安全に動き回れる道路作り、都市作りを新たに始める必要があると思う。
自転車に乗ることが楽しく快適で安全である都市に作り変えるべきである。
60兆で道路を作るだけの金があるんなら、人間の象徴である頭をもう少し使ったらどうだろうか。そうすればこの国ももう少し文化っぽく見えるんじゃないだろうか。
自転車はそういうように至って自由な乗り物であると思う。

現在の社会で自転車の価値は極めて大きいと思う。
また大きくなって行かねばならないと思う。葉65
人間が吐き出す以外はCO2を出さないし、一人の人間を移動させるのに道路の占有面積は少ないし、メタボ対策にはなるし、騒音は出さないし、一方通行も走れる、渋滞に巻き込まれることはないし、走りながら人と挨拶が出来るし、道端の花を見ながら走れるし、何処ででも気ままに停車できるし、駐車場を探す必要がないし、降りて押すことが出来るし、左右の景色を見ながら走れるし、風と一緒に走れるし、交通機関に持ち込めるし、空気の匂い、温度、自然の音を感じながら走れる等々、自転車は至って優れた移動する為の道具である。
人間は非常に多くの物を発明しているが、その中でも自転車は傑出している物の中の一つだろう。ガソリンが一切いらないというのは何とも言えない爽快感がある。ガソリン代が上がれば上がるほどその価値は益々上昇するだろう。
自転車には目的に応じていろいろな種類がある。ロードレース用のレーサー、野山を走るマウンテンバイク、旅行用のツアー車、持ち運びや収納に便利な折りたたみ自転車、買い物用のママチャリ・・・それらの中間的な物などである。いろいろなプロ族がそれにあった物を選ぶ時は勿論その専用タイプを選ぶのであるが、私達のような一般人が移動のために出来るだけ自転車を使おうという場合は、特別種類が限定されるわけではない。蛍袋65
気に入って乗りやすくて快適で楽しければ何を選んで乗っても良いのである。選ぶための規則があるわけではない。都内を高機能のマウンテンバイクで走る自由があるわけである。
サイクリングだからと言って必ずしも多段変速機が付いていなければいけないという訳ではない。何年か前に知床峠を羅臼側からトレンクルで登っている時、前後のカゴに荷物を入れ、ママチャリで北海道一周している同年配の人に追い越された。その人は「ママチャリは荷物の出し入れが簡単で使いやすい」と言っていた。勿論変速機は付いていなかった。
自転車に乗るときはお尻が痛くならないようにだけ配慮してあればママチャリで何処へでも行けるのである。
我々が愛用しているトレンクルも全く旅用の自転車ではないが、それでも不便を感じる事など無い。それどころか我々が気楽に自転車の旅を楽しめるのは単なるタウンユースとして開発された超軽量のトレンクル有ってのことである。
若く体力があるなら、毎日トレーニングジムなどに通っているのであれば、トレンクルで旅をすることなど大したことではないかも知れないが、何もしていない60過ぎの夫婦が1日50Kmぐらい走りながら3~4日の旅を楽しめるのは、旅用自転車でないトレンクルのお陰である。
私はトレンクルの他にナショナルのチタンフレームのロードレーサーも持っているが、勿論ロードレースに出るわけではない。ツアー車ともトレンクルとも違う楽しさ、違う快適さを体験できるので買った。いくらロードレーサーと言ってもレースに出なければ、ただの高性能軽量自転車ということである。市内でもちょっと遠い場所に用事がある時に使うことが多い。
その時は至って快適な時間を過ごすことが出来る。
そういう時ロードレーサーだからと言ってそれなりの格好はしない。ジーパンとティーシャツである。
だから気楽に散歩ぽいサイクリングにもよく使う。

次回に続く


温暖化というのは、温暖化しているのかどうか、それによりどうなるのかを一生懸命時間を掛けて議論してもしょうがないような気がする、と感じる。つまり急速に増加するCO2が爆発曲線域に入ってしまったことが全てを物語っているのではないだろうか。青葉1-150
これは未知のことに対して恐怖を感じるのか感じないのかと言うことなのかも知れない。私は感じる。スタートの原因は兎も角としても、一端海水の温度が上がり始めたりすると、CO2の放散が連鎖的に拡大して行くような気がするからだ。
池の水草の話はご存じだろう。ある日、池に水草の葉が一つ浮いていた。次の日にそれは二つになっていた。次の日は四つに、その次の日は八つに・・・・ある日その水草の葉は池の半分を覆っていた。人はそれを見てまだ半分残っていると言った、という話だ。次の日には池の全てを覆ってしまうのにまだ半分あると言って安心しているのが人間の感覚であり、それが現在ではなかろうか、と言うことだ。
この例え話のように、これからが本番で、ある変化が急速に起ころうとしているようには思えてならない。ドクダミ1-70
それから温暖化の議論はこちら置いておいたとしても、現代は急速に変化せざるを得ない時代だと思っている。つまりエネルギーの問題である。現代文明を支えているのは化石エネルギーの中でも石油である。石油が世界中の全ての人の行動、つまり国家を支えているわけであり、石油を中心に全ての政治が動いているのである。それほど石油は今の文明を維持するのに無くてはならない物になっている。つまり石油によって全ての欲望に対する満足が得られているのである(住まいとはエネルギーを消費するための箱である)。
石油は熱エネルギーを取り出すばかりでなく、現代文明を支えるあらゆる物質の原料となっている。産業革命以前はそれらの大部分を植物が担当していた。だから森林が無くなれば都市は滅んだ。このまま行けばいずれ石油は枯渇する。本当はもう石油を燃やしている場合ではないということだろう。人類に本当の知恵があるなら、温暖化が有ろうが無かろうが石油が無くなる前にその温存を考えるべきである、と思う。
現代文明は石炭という化石燃料に始まり、メタンハイドレードまで手を出そうとしている。つまり水素分が少なく炭素分の多い石炭から、水素分が最大のメタンを利用しようとしている。これは道徳観や倫理観に基づいて行動した結果でない。単なる経済的行動の結果である。
次に来る時代は、放って置いても、好むと好まざるとに関わらず炭素分の無くなった、水素エネルギー社会に向かうと思われる。多分これも経済合理性追求の結果としそういう方向に行くのだと思う。山ぼうし61

R君、だいぶ長くなってしまったが、結局、温暖化に対する結論は、全てのデーター(そんな物を知ることは出来ない)が手に入るわけではないので、自分で見たり感じたり、報道される自然界の現象の変化から独自に判断するしかないと思う。それと結果を誰も見ていないので良く分からないという言い方しか出来ないこともありうると思う。しかし、ことが命に関するのであれば、最悪を想定してそれに対処するというやり方が正しいと思う。万が一、最悪の予想が外れたところで、その為に行動した全てのことはプラスにはなってもマイナスには決して成らないと思う。
以上こんな風に思うのだが如何だろうか。次のメールを楽しみにしている。



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