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また、生命について、砂で出来た城の例で、とても分かりやすく説明されている。
風や波により常に砂粒が削り取られているのに、目には見えない小さな海の精霊達が休むことなく、崩れた砂の修復をしているという比喩である。2トンボいつ見ても城はそのままの城として変わらないのだが、ある時間が経てばそのその城を構成している砂は全て入れ替わっている、ということである。
つまり、ここにあるのは実体としての城ではなく、流れが作り出した「効果」としてそこにあるように見えているだけの動的な何かなのだ、と言っている。
勿論、城を構成している砂粒とは、水素、炭素、酸素、窒素などの主要元素のことである。”生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである”。何と明快な説明であろうか。
この部分だけ読んでも、我々生命が宇宙の一部であるということが、理解できたような錯覚さえおぼえるようだ。
また、シェーンハイマーは物質が常に通り過ぎてゆく表現について、そこには「通り過ぎる」べき入れ物があるわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っているに過ぎない、つまりここにある物は、流れそのものでしかない、と言っている。
私達は臓器や骨や歯などは固定的な構造物と思っているが、実は、絶え間ない分解と合成が繰り返されているのだ。
2蝶”私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる”。
シェーンハイマーは述べている。”生物が生きているかぎり、栄養学的とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化してやまない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である”。
”秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない”。
”生命とは動的平衡にある流れである”。
「うぅーん」と唸ってしまい、「なるほど!」と納得するしかない。特に「ゆるい淀み」とは全く自分自身のこの世に存在している概念を根本から覆すものである。
私達は身体を構成している全ての物を「部品」とみなしていることが多い。臓器移植などはその典型的な例である。近年のロボットのめざましい進化はますますそのようなイメージを作り上げていくような気がする。2雲
しかし、生命はそうではない、と言っている。”機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取り、交換することができる。
そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。
機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。
生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる”。
「輪廻転生」という言葉がある。人が生まれては死に、死んではまた、生まれ変わることである。
この本を読み終わってみると「輪廻転生」とも違う感じがする。
人間(生命)は小さな点の集まりである液晶パネルの上に作り出された像なのかもしれない。
その画面上にはあたかも人間がいるかのように見えるが実体はない。
その人間が動いているため、一つ一つの点の役割が固定されているわけではない。
勿論、一つ一つの点は宇宙に分布する原子である。
当然だが、生命とはいたって宇宙的な物理現象と言えるのだろう。


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講談社新書「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著を読んだ。
生命とは何か、そして生物とは何なのかは、己を知る上でも常に突き詰めなければならないテーマである。1飛んでいるこの本を読むことにより「生命とは何か」について今までの全てのイメージを覆す衝撃を受けた。
勿論、研究者でない自分には自分が持っている程度の知識の中で理解できる範囲でしかイメージすることは出来ない。
今、読み終えたばかりであり、まだ、全てを咀嚼し、自身の言葉で表すまでには至っていない。
その為、「なるほど」と感じた記述を、そのまま紹介することにする。何はともあれ、ご自身での一読をお勧めする。
生命とは何か?それは自己複製を行うシステムである。
”生命というあり方は、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。つまり私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。”
生命体である我々の身体がこれほど大きい理由についても述べている。
”生命現象ももすべて物理の法則に帰順する物であれば、生命を構成する原子もまた絶え間のないランダムな熱運動(ここに挙げたブラウン運動や拡散)から免れることはできない。つまり細胞の内部は常に揺れ動いていることになる。それにもかかわらず、生命は秩序を構築している。
1紫小花その大前提として、”われわれの身体は原子に比べてずっと大きくなければならない”というのである。それは、すべての秩序有る現象は、膨大な数の原子(原子からなる分子)が、一緒になって行動する場合にはじめて、その「平均」的なふるまいとして顕在化するからである。原子の「平均」的ふるないは、統計学的な法則に従う。
そしてその法則の精度は、関係する原子の数が増せば増すほど増大する。
ランダムの中から秩序が立ち上がるというのは、実にこのようにして集団の中である一定の傾向を示す原子の平均的な頻度として起こることなのである”。
人間がなぜ人間の大きさなのか不思議だったが、これでなんとなく、成るほどと思えた。
”しかし私は、現存する生物の特性、特に形態の特徴のすべてに進化論的原理、つまり自然淘汰の結果、ランダムな変異が選抜されたと考えることは、生命の多様性をあまりに単純化する思考であり、大いなる危惧を感じる。むしろ生物の形態形成には、一定の物理的な枠組み、物理的な制約があり、それにしたがって構築された必然の結果と考えたほうがよい局面がたくさんあると思える”。
今の分子生物学から見た進化と、「進化論」がどういう関係にあるのかはとても興味あるテーマである。進化論だけでは説明の付かないことも、分子生物学から見れば簡単に説明の付くことが多いのかも知れない。
「生命はなぜ動的な秩序を維持できるのか」について、”つまり生命は「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序有る現象を新たに生み出す能力をもっている」ということになる”。とのべている。
1白赤花また、シュレーディンガーの予言として、”生命には、これまで物理学が知っていた統計学的な法則とはまったく別の原理が存在しているに違いない。その仕組みは、しかし、エンテレキー(生命力)といった非物理学的な、超自然的なものではない。それはわれわれがまだ知らない新しい「仕掛け」であるが、それもまたわかってみれば物理学的な原理にしたがう物であるはずだ”。
学生時代悩まされたシュレーディンガ一の波動方程式、のシュレーディンガ一が生命のことまで考えていたとは、天才は全ての面で何時でも天才なのかも知れない。
更にシュレーディンガ一は言っている。
”生きている生命は絶えずエントロピーを増大させつつある。つまり、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいていく傾向がある。生物がこのような状態に陥らないようにする、すなわち生き続けていくための唯一の方法は、周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れることである。実際、生物は常に負のエントロピーを”食べる”ことによって生きている”。

次回に続く

この夏は、汗を綿より10倍吸収し放散させるという宣伝文句につられて、ミズノの「ドライベクター」という下着を買ってみた。もう一つ、フェニックスの「クィックドライ」というTシャツを買った。雲木725夏だから暑いのはしょうがないが、少しでも快適に過ごせれば良いなという思いからである。
やはり近頃の夏は暑すぎる。年も年だし、しょうがないやと言って諦めるだけではシャクなので試してみたのだ。
結論を先に言えば大正解であった。汗をかいてもベチャとしないのだ。
今までは綿を買うのが当たり前だったが、こうも違うかとびっくりした。シャツに汗の滲んだ跡が出ないばかりか、それでいて肌触りもサラサラなのである。
ちょっとした魔法のようで、不思議くらいである。このくそ暑い東京の街中へ出てみると効果は特に良く分かる。
試したいという気分もあり、暑い東京へ出て行くのがちょっとは楽しくなった。
その上、アウトドア用のチタンコートした帽子と、ゴアテックスのウオーキングシューズで決めてあるので、快適さも更に増している。
家の温熱環境というものは何も断熱材や暖冷房機だけで決まるものではないことが良く分かる。
要は、出来るだけエネルギーを使わないで、自分自身が如何に快適に感じられるかということである。
暑いと感じたり寒いと感じた時、先ず第一に衣服を調整することは誰でもが知っている。
それをもっと前面に押し出し、積極的に取り入れるべきであろう。
今までの夏は、下着を着ないで半袖のシャツを直接着ていたが、明らかに吸収放散下着を着た方が快適に感じる。
蔓波25二枚の方が一枚より倍の空気層により放熱量が抑えられて暑くなりそうだが、その常識が通用しないところが何とも面白い。
実は冬用の暖かい下着は既に愛用している。しかし、長袖タイプは買って損をした。温か過ぎてとても着ていられないのだ。
前々から「床暖房を入れるだけで快適になるわけではなく、条件さえ揃えば特別に床暖房を入れなければならないわけではないんですよ」と言ってきたが、CO2が止まりそうもない現状を見ると、いよいよ化石エネルギーレスタイプの「住まい」をより真剣に、早急に考え出さなければならないと思う。
衣服が高機能化すると室内温度は、当然何度か下げることが出来るだろうと思うが、そうすることによって多少気になることも出て来る。
それは脱衣室と浴室である。ここは、いくら衣服が高性能になっても、それを脱がなければならないので、それなりのことを工夫しなくてはならないだろう。
衣服を着て行動する居間や台所等の温度は下げられても、裸になる部屋の温熱環境は、当然裸での適温にしなければならない。
今まで一般的に、居間、食道、台所を主体に床暖房などを入れてきたのだが、衣服が高機能化すると、むしろ主体は脱衣室や浴室の熱環境重視にしなければならないのではないだろうか。
冬場に於ける高機能衣服の利用により、室内温度を低下させることは、自分が放出している熱を衣服の外に出さないようにして大切に使うということである。
どんな極寒の地であっても衣服がちゃんとしていれば、自分が発する熱だけで寒さを感じないで居られることを考えれば、この際、寒さ対策の第一歩は衣服を考えるという設計の仕方があっても良いと思う。
それから住まいそのものの断熱特性などを考えると言うことである。
衣服を含めた設計が住まいの設計になり、もしかするとイニシャルも下がるのではないだろうか。
かつら725太陽熱だとか地熱だとか言う前に、体熱の利用、つまり衣服の工夫が当たり前だが最重要なのかも知れない。
室内全体の温度を快適に維持するより、皮膚と衣服の間の狭い空間を温めるのであれば、自分の身体が放出している100W程度の熱で十分である。
その熱はどうせ捨てる熱なのであるから勿論タダである。
生活の中に於ける熱バリアは、衣服と壁の断熱性能である。
ここまで衣服の性能が進化してくると、つまり薄い上に軽くその上、暖かさが確保できるなら、今までのように室内空間だけの温熱環境設計では片手落ちなのではないだろうか。タダの100W制御の方が圧倒的にランニングコストは下がることになるし、システムも簡単になる。
「灯台、下暗し」とは正にこのことであるように思う。
現在、CO2ゼロの住まいを目指して、いろいろ検討しているが、キーポイントは最も身近な自分の体温にあるのかも知れない。
発熱器である生物は宇宙の原理によって活動している。それが出す熱は最も自然な自然エネルギーと言えるのかも知れない。





渋谷でも新宿でも歩いているだけで、ポケットティシュが何個か直ぐに手に入る。
便利な世の中になったと言えばそうだが、こういう社会現象が心の粗雑さを生み出しているんではないかと思う。小花723
つまりポケットティシュはタダなのである。
タダでもらえるということが、そこに隠れた全ての資源やエネルギーもがタダであるかのように錯覚させるのではないだろうか。
ティシュペーパーは昭和39年に日本で初めて発売されたらしい。私が20歳の時である。
ポケットティシュが出たのは昭和43年だそうだ。
我々が小学校の頃はティシュペーパーに変わる物として手ぬぐいを腰にぶら下げていた。
今は保育園生でもちょっと何かあれば、その度に親の真似をしてティシュペーパーを一枚二枚と引っ張り出している。
それがこの時代の常識になっている。温暖化阻止の為には、少なくとも20世紀までの常識は変わらなければならないはずなのに、ことティシュペーパーに関しては変わる兆しさえ見えていない。
日本に於けるティシュペーパーの消費量は年間約50万トンで、材木換算で住宅7万軒分、一人あたりにすると約4Kgで世界一だそうだ。こればっかりは何の自慢話しにもならない。ちなみにトイレットペーパーの年間消費量は約95万トン、木造住宅14万軒相当の木材を使い、紙おむつの年間消費量は約37億枚で、約1000万本の木が必要、紙パックは年間72億本が使われ、その重さは20万トンになるらしい(いずれの数字も地球温暖化白書ホームページより紙 - 『地球温暖化白書』)一人一人の何気ない消費が莫大な消費につながっていることに驚かされる。
この様に何気なく行われている紙の消費は想像も付かない大量なものになっている。
雲723よくホテルやレストランなどのトイレに置いてある、手拭き用のペーパーも2~3枚を無造作に引き出して平気で使っている大人を見かけるが、これなんかもタダであるが為の無駄使いの極地と言える。
店の方はサービスのつもりなんだろうが、この時代、トイレに手拭きペーパーなどいらない。ついでに、あのうるさいだけの風で吹き飛ばす手の乾かし機など全く必要ない。
各人がハンカチを一枚持っていれば済むことである。
これらも又、人の感性や、気遣いを麻痺させ、人の進化の方向を逆転させる無意味な商品達である。まさにアメリカから入ってきた旧世代の遺物である。
私はティシュペーパーを使う時、必要に応じて口から出ている分を2~3センチや、5センチの巾で裂いて使う。
いくらデジタル時代だとは言え、常に一枚が必要なわけではない。
スーパーマーケットのトレイによる決められた量の販売方法には文句を言っているのに、ティシュペーパーを使う時は、状況を少しも考慮すること無しに決められた一枚を使っている。至って矛盾していることを平気でやっている。
しかし、必要量だけ裂いて使うとなると、取り出し口と平行に裂けるタイプのティシュペーパーでないと使い難い。
取り出し口と直角方向に裂ける物はとてもやり難い。
そうするとティシュペーパーを自由に選ぶわけにはいかず、100%再生紙か100%パルプの問題にぶち当たる。
前記した、紙「地球温暖化白書」の数字は100%パルプの場合の換算値だろう。
理想は再生紙に決まっているが、現段階でどちらが良いのか何とも難しい。
社会のエネルギーが全て太陽エネルギーに変わった時、そのエネルギーをいくら使って再生してもかまわないわけだが、現在のように化石エネルギー電力を使う再生紙はどうなんだろうか。
月下だからと言って、砂漠化が進行しているこの地球上の森林を、これ以上伐採して良い訳はない(間伐材など森林育成のために出てくる木材や、計画的な植林とシステム化している木材は別だが)。
いずれにしても、単なるムードや感情論だけで判断する訳にはいかない問題である。
一般的に人の日々の行動基準は慢性化していて、常にそれを見直しながら生活することはほとんどの人がしない。
しかし、温暖化阻止ということは一人一人が、自分の日常生活の中の些細で何気ない行動を見直すというみみっちい行動の積み重ねが必要なんだろう。
今、孫達は紙おむつで育っている。買って使って捨てるだけ、の女性(男性も?)にとっては至って便利な社会環境になった。
三十何年か前に子育てをした時、妻によって一生懸命作られたオムツが、きれいに洗われてまだ手元にある。勿論、オムツ以外のいろいろな用途に現在も便利に利用している。
文明の進化とはこれから何を生みだそうとしているんだろうか?
ますます分からなくなる。
何でもかんでもティシュペーパーを一枚使うのではなく、100%再生紙のトイレットペーパーを必要なだけちぎりながら、ケースバイケースで使い分ける方が良いのだろうか・・・・



暑い毎日が続いている。そう成れば成るほどエンジンを掛けっぱなしで駐車している車が増えてくる。
勿論、冷房を効かせるためである。
しかし、2000ccものエンジンを載せているのは車を走らせるためで、クーラーの為だけに動かす物ではない。手賀大橋
本当にこの国は、子供を卒業したはずの身体の大きくなったグループ(通称”おとな”と言われている)が、欲しい物を手に入れるため駄々をこねるような、幼児化が進んでいる様に見える。
自分さえ良ければ良い症候群なのであろう。
炎天下でない日陰の涼しい場所を選んで駐車して居るんだから、窓を開けて風を入れて済ませればよいと思うのだが、それが出来ない。そういうことに気が付かないのか、分からないのか分からないが、少なくともこういうグループの人達は、普段からCO2とか温暖化とかには取り立てて興味はなく、別世界のことぐらいにしか感じていないのだろう。
しかし、ガソリンを湯水のごとく使うヒトが勝ち組で、大切に使う羽振りの悪い人が負け組のような価値観が、今は完全に逆転しているのに、そのことがまだ分かっていないようだ。鈍感というか、鈍いというか、低いというか・・・・ホモ・サピエンスとして立派な脳みそが与えられているはずなのに、一体全体その何%が使われているんだろうか。
紫式部大体、ホモ・サピエンスとは知性人とか叡智人の意味である。
少なくとも、「猿人」から進化したはずなのに、また「えんじん」に戻ってしまうのではないだろうかと心配してしまう。
ホモ・サピエンスはエンジンを発明し、自動車を乗り回すまでに進化したが、それが存在出来る環境に変化が出ていることに未だに気が付かないでいる「えんじん族」がどうもまた再発生しているようだ。
うっすらと汗をかいた身体に風が通り過ぎてゆく時のホッとする感じは、爽やかでさえあると思うのだが・・・・
まして、人が乗っていないのにエンジンを掛けっぱなしの物がかなり有る。未だにこういう行動を平気でしているのはどんな顔か見てみたいと思うが、それほど暇ではないし、見たところで得はしないし、大体想像は付くのでそうまではしない。
もし「どうしてエンジンを切らないで平気なのか」と質問をしてみたとすると、多分、よくても「自分だけやったってしょうがない」程度のお粗末な答えしか返ってこないだろう。
ホモ・サピエンスとして1400ccの脳みそをご先祖様から頂いているのにしては、ちょっとお粗末過ぎるのではないだろうか。「えんじん族」なら脳の使用量に比例して車のエンジンも50ccぐらいにすればよいと思うが・・・・
温暖化に対応するということは、生き方を変えることである。
今まで常識だったことを「これからもこれで良いのだろうか?」と見直すことである。
今までの惰性でしかない継続を遮断する勇気が必要である。
露葉「エンジンを切らないのは、自分の勝手だろう!」とあたかも自主性が有るような言い方をしながら、直ぐその後で「みんなだってやってるじゃないか!」と平気で言って、その矛盾に気が付かないのだから、やはりちょっと幼児化しているのではないだろうか。
と偉そうに言う自分も常に原点に戻って反省することを忘れては成らないと思っている。
原点とはCO2がゼロの事であり、よく言われる低炭素社会が原点ではない。
低炭素という抽象的な言い方は、単に曖昧にしたいが為の表現に過ぎない。
車で言えば、乗らないのが原則である。その上で、急発進急加速の為に吹かさない、不必要なスピードは出さない、急ブレーキにならないように前方の流れを特に見て、アクセルコントロールをする、などをプリウスで実行している。が、それだけで良いわけではない。
仕事も、化石エネルギー消費を前提にした床暖房から、CO2ゼロの暖房システムの開発を何としてもしなければならない。
CO2ゼロの生活を目指すためには、自分だけの努力では確かにどうにもならないが、今までみたいに単なる気分だけで生活の全ての判断をして行くわけにはいかないことも確かである。
前回「人体、失敗の進化史」の本の中で、人類の終焉が断定的に述べられていたが、その実現は何としてでも阻止しなければならない。
その為には、余り勝手なことは言わずに「エンジンストップ」ぐらいは実行しなければならないと思うが・・・・



「人体 失敗の進化史」とは何だろう。私にとって不思議な書籍名だった。そして先ず序文内容の新鮮さに興味を持った。
その全文を書いてみる。2台の花”「私たちヒトは、地球の生き物として、一体何をしでかした存在なのか」二足歩行という、ある意味とんでもない移動様式生み出した私たちヒトは、その為に身体全体にわたって、「設計図」をたくさん描き変えなくてはならなかった。そうして得た最大の”目玉”は、巨大で飛び切り優秀な脳だったといえるだろう。ホモ・サピエンスの短い歴史に残されたのは、何度も消しゴムと修正液で描き換えられた、ぼろぼろになった設計図のやまだ。その描き換えられた設計図の未来にはどういう運命が待っているんだろうか。引き続き、描き換えに描き換えを続けながら、私たちは進化を続けていくのだろうか。”と始まっている。
本文にはいると、いきなりタヌキの解剖について詳細に書いてある。
死んだ動物の解剖から生物の進化について非常に多くのことが得られる事など想像もしていなかった。そのため動物園で死んで行く珍しい動物たちが如何に大切なのか、かれらを解剖することが、人類の進化を知る上でいかに大切か、などということは全く知らなかった。
まさに目から鱗である。
あくびまた、動物園という表の役割の裏にこんな研究の宝庫が隠れていようとは知るよしもなかった。
物事の見える部分しか見ないと、その裏に隠れている更に重要なことを見逃してしまうことの典型的な例であり、こんな身近なところに知らないことが多すぎると感じた。
こういう事に遭遇すると、何のための64歳なのか分からなくなってしまう。
年を取るということは、自分の知らないことが如何に多いかを知ることなのかもしれない
ナメクジウオから始まった人類までの進化の過程が「設計変更」という視点で語られているのは、かつて多少物の設計に携わってきた私にとって興味深いものであった。
第四章、行き詰まった失敗作、の中で「つまりヒトのトラブル(肩こり、冷え性、貧血などのことを言っている)の多くは、ヒト自身の設計変更の暗部であると同時に、ヒト自身が築いた近代社会が作り出す、予期せぬ弊害でもあるのだ。もちろん、それらすべてが、実をいえば、ヒトの優秀すぎる大脳の初産でもある」と言っている。
自身を含めて、社会のあらゆる問題、矛盾も結局は進化の過程で設計変更の仕方を誤ったからなのだろう。
赤小花この章の最後に「この二足歩行の動物は、どちらかといえば、化け物の類だ。50キロの身体に1400ccの脳をつなげてしまった哀しいモンスターなのである。設計変更を繰り返して大きな脳を得たまではよかったのだが、その脳が結局はヒトを失敗作たらしめる根源だったと私には思われる。・・・・・・しかし、ヒトの未来はどうなるかというという問いに対して、遺体解剖で得られた知をもって答えるなら、やはり自分自身を行く詰まった失敗作ととらえなくてはならない。もちろん、それは、次の設計変更がこれ以上なされないうちに、わが人類が終焉を迎えるという、哀しい未来予測でもある。このストーリーで私たちが重く受け止めるべきことは、身体の設計変更とは、取り返しの付かない失敗作をも生み出すということを、ホモ・サピエンス自身が証明していることだ。しかし、それを憂えても仕方がない。私が心から愛(め)でておきたいのは、自分たちが失敗作であることに気づくような動物を生み出してしまうほど、身体の設計変更には、無限に近い可能性が秘められているということだ。」と締めくくっている。


白小花これらの本を読んでも「人間とはなんぞや」という解はそう簡単には得られない。
しかし、地球上で今、人類が大繁栄しているということは、人類だけが勝ち残ったからである。顔の肉を石器で削がれたホモ族の化石が見つかっている事を考えると、他のホモ族は全て人類に滅ぼされたのかも知れない。それはヨーロッパ人によるインカなどの南米原住民やインディアンと呼ばれた北米原住民の虐殺、そして征服と同じだったのかも知れない。
また近年ではユダヤ民族に対するホロコーストなどもその流れなのかも知れない。
無理な設計変更により人類になったホモ・サピエンスは、巨大で優秀な脳を持ちながら、自分達で作り出してしまった温暖化に対して未来を想像できないでいる。やはり失敗作だった証明なのであろうか。
絶対的な神を作り上げたホモ・サピエンスであるが、その大部分は、己が失敗作であることに未だに気が付いていないようである、ということは間違いなさそうだ。


「人間とはなんぞや」私にとって最大のテーマである。特に何故人間が出現したのか、何故人間にまで進化してしまったのかが知りたいと思っている。
宇宙の法則と言ってしまえばそれまでだが、生命に対する宇宙の法則とは何か知りたいと思っている。そうすればもう少し自分を知る事ができ、現代を知ることができ、未来を知ることが出来るのだと思う。
そんな訳で、最近読んだ本を3冊紹介したい。1水滴
「ネアンデルタールと現代人・ヒトの500万年史」河合信和著/文春新書、
「5万年前・このとき人類の壮大な旅が始まった」ニコラス・ウェイド著/沼尻由起子訳/イースト・プレス、である。
「人体 失敗の進化史」遠藤秀紀著/光文社新書、
各本とも違った視点から人類の進化を見つめていて非常に面白い。

大雑把に言うと、「ネアンデルタールと現代人・ヒトの500万年史」は遺跡、化石の分析から、「5万年前・このとき人類の壮大な旅が始まった」はDNAの視点から、「人体 失敗の進化史」は人間や動物の解剖学見地から分析しており、当然であるが、それらが人類の進化に収斂していくのが見えるようで面白かった。
1土器717「ネアンデルタールと現代人・ヒトの500万年史」では猿人から何故ホモ・サピエンスに分かれていったのかについて、森林縮小によるサヴァンナ化を上げている。
サヴァンナに出ざるを得なかった猿人の一部は死肉をあさるために石器を使い出した。そして直立二足歩行を獲得して行くが、その為、産道が狭まり強大化した脳との矛盾が生じた。その解決のために小さな頭の内に出産することになったが、その後も母体内と同じ速度で脳を発達させて行く事になった、と述べている。いま 、我が家に生まれたばかりの孫が来ている。4歳の孫と比べるとその頭の大きさは確かに小さい。改めて見比べ納得してしまった。
またネアンデルタールはヨーロッパの先住民でありながら、ホモ・サピエンス(クロマニヨン)との生存競争に勝てず絶滅してしまった。その理由として、コミュニケーション能力、つまり言葉による情報伝達能力、社会的ネットワーク構築が非常に劣っていた事を、石器材料の産地やその進化の停滞振りから分析している。それにしても、ネアンデルタールとホモ・サピエンスは3万年ぐらい前まで1万年間共存し、交流していた痕跡はあるが結婚が行われたことは無かったらしい(こんな事がよく分かるものだと不思議である)。共存していた社会はとはどんなだったのだろうか、何とも想像力をかき立てられて楽しい。

1桔梗「5万年前・このとき人類の壮大な旅が始まった」も面白い。
5万年前、アフリカ東北にいた150人程度の小さな集団が故郷を離れたらしい。そして既に生活をしていたホモ・エレクトスやホモ・ネアンデルターレシスを絶滅させながら、現代の60何億かの人類に拡大していった。
世界への拡散は海岸沿いに先ずインドへ、そしてオーストラリアへ、中国、日本へと向かい、カムチャッカ半島に到達した後、アメリカ大陸に移動してていった。西北に向かった一部はヨーロッパに進出していった。そして定住を獲得し、階層社会へと進み、現代へとつながってゆくことになる。
150人というのが何とも不思議な感じがするが、DNAからの分析によってはじき出され最新の結果だ。また世界中へ分布していった状況も言語上の分析とDNAによる分析がほぼ重なるらしい。

次回に続く

出張で仙台に行き、久し振りに大学時代の自転車クラブの友人宅に泊めてもらった。
ビールを飲みながら奥さんの手料理をたらふくご馳走になった。特に自家製のぬか漬けの味を楽しみながら、3人で11時頃まで話し盛り上がってしまった。
翌日、11時からの仕事だったので、縄文時代中期(約4000年前)の山田上ノ台遺跡に連れて行ってもらった。竪穴住居
そこに3棟のの竪穴式住居が復元されていた。竪穴だから、いわゆる半地下住宅である。柱の太さや位置、傾きの遺構からの推測なのだろう、屋根に土が乗った構造になっていた。(写真参照)土を取り払って、このまま持ち上げると正に茅葺き屋根の家になることが想像でき、時間の流れを感じることが出来る。
囲炉裏には1年中火が維持されていたようで、屋内側はススで真っ黒になった模様が再現されていた。
1年中焚き火が維持されていたのはアイヌ民族の家と同じである。と言うより、我々より前からこの地に住んでいたのがアイヌ民族であり、縄文人と焚き火の仕方が同じであるのは当然なのかも知れない。
強大な蓄熱槽である大地に1年中熱を与え続けることにより、超快適な自然床暖房にに成ることを知っていたことになる。
屋根に土が乗っていたことは最近の研究で分かってきたらしいのだが、これも今流行の屋根緑化のルーツであり、もし縄文人が知ったら「今頃、真似すんなよ!」と言われそうだ。レンゲ
確かに現在の取って付けたような屋根緑化よりも全体としてのバランスはよっぽど取れていると思う。
焚き火は熱としての利用の他、防腐防虫剤としての機能について当然知っていたのだろう。これはつい最近まで茅葺き住居の無ければならない大切な機能として、永永と引き継がれたわけである。
骨組みには栗材を使っていたらしい。遺跡というとよく栗材が出土するが、腐りにくいことを4000年前から知っていたのである。
再現した建物とはいえ至って理にかなっており、現代の建物のような強引さや不自然さが感じられないような気がした。
きちんと自然との共存を理解していたからこそ、作り得たのではないだろうか、と思ってしまう(勿論、共存せざるを得なかった、という見方もあるだろう)。
多分この4000年前からの伝統は、つまりこの風土に於ける生活の知恵は、積み重ねられてつい最近まで伝承されてきたのだと思うが、現在のいかなる住宅にも生かされている形跡は見あたらないのは至極残念である。
風土を見ずに好き勝手さだけが一人歩きをしているように見える。それを時代が許してきた。これも我々が化石エネルギーを手に入れたからだろう。土器
化石エネルギーも自然から得た物だから自然の恵みには違いないが、特殊な方法と特定な場所でしか採取できないため、また手に入れるためにはお金が必要なため、万人共通のエネルギーとは言えず、貧富の差しか生み出さないエネルギーに成ってしまったのだと思う。
自然の恵みとは誰にでも分け隔て無く行き渡る物でなければならないだろう。
最大の自然の恵みは、勿論、太陽エネルギーである。
太陽エネルギーは基本的に誰でもが自由に手に入れることが出来る。
大都市に住んでいる人は「自由に手に入らない!」と言うかも知れないが、強制されて住んでいるわけでなく、自分の自由意志で住んだのだからしょうがないと思う。
太陽エネルギーが得られなくても化石エネルギーが買えるさ、と言うことで選択したわけであり、太陽エネルギーが得たければ得られるところへ移ればよいだけの話である。
狭いとはいっても日本はまだまだ広いと思う。
これから益々CO2を出さないような生活が求められる社会になると、都市生活者はどうなるんだろうか。
油煙また、この縄文遺跡を見ていて改めて感じたことは「物を作る」ということである。
当たり前と言えば当たり前だが、この時代の道具は全て生活者自身の手作りである。と言っても道具の数は今と比べると極端に少ないが。
しかし、自分で生きて行く能力というのは、現代人と比べると数段上ではなかったのだろうか。
人間として現代人は一体何が進化したのだろうか。人間は進化してるんだろうかと思ってしまう。
現代人はパソコンや車や携帯電話を使っているが、もしここに縄文人を連れてきたら、彼らだってそれらを直ぐさま使いこなすだろう。
反対に、現代人を縄文時代に連れて行ったら生活して行けるのだろうか・・・・
文明って何なのだろうか。人間をどうしようとしているんだろうか。
哺乳類が人類方向に向けて枝分かれしたのが500万年まとされている。
人類史上から見ると化石エネルギーの時代なんてほんの瞬間でしか過ぎない。
しかし、それでもそこから抜け出せず、自分達の命を支えているこの自然環境を自ら破壊しようとしている。
人類とは一体何のために進化しているんだろうか。不思議でならない。

相変わらず、いきなり床暖房のランニングコストを聞いてくる設計士が多い。
今まで(今も)床暖房を売らんが為にメーカーや業者が適当なことを言ってきた弊害がいまだに尾を引いているためだ。これは未だに暖房と家の関係が理解されていないことによる。
天道虫
そもそも、暖房とは寒い外気温より室内を暖かくするための物である。
囲炉裏もその為にある。
その暖かさを維持する為に時々薪をくべる。北風が吹き込むような寒い家だと薪をどんどんくべなければならないし、隙間が少ない家なら、くべる薪の量はぐっと少なくなってくる。これは囲炉裏で暖を取ったときのイメージである。
また、外気温度がぐんぐん下がったり、春めいたりする事によっても、くべる薪の量は大きく変化する。
勿論、薪の量がランニングコストと言う訳である。黄色712 
囲炉裏だけで暖を取っていた時代に,室内をより暖かくしようとすると、すきま風を少なくする工夫と薪を沢山燃やすことだけだっただろう。
この例は室内の暖房性能が家の熱的性能と外気温によって左右されることを表している。
Q「ランニングコストはどの位ですか?」
A「????・・・・」
Q「他のメーカーはみんな出してくれますよ!」
A「他のメーカーは今回の住宅の断熱性能を知って居るんですか? 私どもにもそれを教えていただければお出しします。熱損失係数はどの位に想定したんですか?」
Q「????・・・・そういうことを考えて設計していません」
A「そうだとすると何を基準にして出したらよいですか? それを教えて下さい」
Q「そちらで設定して出して下さい」
A「・・・・・」
どんな暖房機器を用いても同じだが、ランニングコストは機器が決める物ではない。
家の熱性能、つまり断熱性能が決めるのである。もし、太陽熱が部屋に十分入り、それらを溜めることが出来、その熱を小出しにして大切に使うような構造に設計してあれば、床暖房はおろか暖房機器のいらない家にすることはできる。つまりランニングコストはゼロと言うことになる。
ランニングコストを床暖房側に聞くということは、家の総合断熱特性を聞くようなものなのである。
少なくとも、家を設計する以上、断熱仕様は設計側で決めてもらわなければ話が始まらない。紫小花
何故なら、快適な住まいを設計するためには,温熱環境の設計は大きな割合を占めるからである。
よく施工が簡単だと言うことと,イニシャルコストが安いからと言って床暖房を選択し、ランニングコストが高くて今は使っていない、というケースに出っくわすことがある。そりゃそうでしょう、施工が簡単なんて床暖房の性能とは何の関係もないし、ましてやランニングコストととも全く関係ないからである。
つまり快適な家にすることと何の関係もない条件で選んだ結果なのである。
こういう場合、ランニングコストのことを考えて断熱性能のことまで考えてあるケースはほとんど無い。その為、事態はますます悪化する。
何故そうなったかというと、床暖房側が自分達に都合の良い適当なランニングコストを提示した為だと思う。
その時、どういう条件を想定したのか、この今設計している建物の条件はどう考えているのか、を全く確かめず、相手が提示したランニングコストを鵜呑みにして決めてしまった設計方法に最大の問題がある。
こんな決め方をされてしまうと「床暖房はランニングコストが高くて駄目だ」なんて言うレッテルが貼られてしまうことになってしまう。
床暖房そのものが悪いわけではないのに、何とも迷惑な話である。
私の場合、アクアレイヤー床暖房を開発する前は、自宅の床暖房のランニングコストを出しておき、それを参考にしてもらった。ランニングコストなんて昔からそう簡単には言えなかった。
一般的に「1日8時間使用して,通電率が70%の場合・・・」というランニングコストの表示の仕方がある。今もこれがまかり通って居るんだろう。だから簡単に「ランニングコストはどれくらい?」と出てくるのだろう。
イゼナではそんな訳で簡単にランニングコストを出さない。出せないし,そんないい加減な数字はお客さんの為にならないからだ。適当なことは言うわけにはいかないからだ。隠したいから出さないのではない。
平面図だけからランニングコストなど出せっこないのである。青虫
仕事が取りたいが為に適当なことを言うと,その数字が一人歩きをしてしまい、家に原因があるにもかかわらず床暖房の勢にさせられてしまうからだ。
これからの時代、暖房のランニングコストは考えないで済む家の設計を先ず心がけるべきである。
その為には先ず、高性能な断熱を考えることは欠かせないが、熱容量も絶対に必要である。
それらの機能を備えることが設計の基本の一つになるだろう。
そしてそれらの定量的な数値を初期のプラン段階から掴んでおく必要がある。
つまり、おおよそのランニングコストを掴んだ上で、その後の設計を進めるべきではないだろうか。
ランニングコストを少しでもゼロに近づけるために、太陽熱を取り込む仕組みを設計する事は欠かせない。
「この囲炉裏はどの位の薪を食いますか」何て誰も考えないし,言わない。
薪は太陽エネルギーからの授かり物だからである。
太陽エネルギーの視点無くしてこれからの住宅設計はあり得ないと思うが,如何だろうか・・・・



G8サミットの「議長総括」と「エネルギー安全保障と気候変動に関する主要経済国首脳会合宣言」を読んだ。
一言、まどろっこしい! 大体、温暖化問題は今までの概念の国際交渉などではないはずだ。バカの一つ覚えのような「駆け引き」を行う場ではないはずだ。釘
以下の分は「議長総括」の出だしの文である。
「我々は、2050年までに世界全体の排出量の少なくとも50%の削減を達成する目標というビジョンを、国連気候変動枠組条約(UNFCCC)のすべての締約国と共有し、かつ、この目標をUNFCCCの下での交渉において、これら諸国と共に検討し、採択することを求める。
その際、我々は、共通に有しているが差異のある責任及び各国の能力という原則に沿って、世界全体での対応、特にすべての主要経済国の貢献よってのみこの世界的な課題に対応できることを認識する。
このような長期目標に向けた実質的な進展は、既存技術の展開の加速を必要とし、低炭素技術の開発と展開に依っている。・・・・」薄紫
これで一体全体何を決めたのだ。これでは何も決めてないのと同じじゃないのか。
今時悠長にセレモニーをやっている場合なのだろうか。
こんな文章のために主要国の代表者が集まって、その為に物々しい警備をして、莫大な税金を使って、これから地球環境のためにどんな行動に出るというのか。
「前進した」と言っていたが何が前進したのか。
議長を含めて一体全体何をやったんだろうか。
現在の情況は、禁煙車両でなければならない中で、ほとんど吸わない人や1000本も吸っていたり、100本だったり500本の人達が混在しているようなものではなかろうか。
そこで煙を吸いすぎて具合の悪い人が出始めている状況である。にもかかわらず「後から吸い始めたのだから、もう少し余計吸わせろ」と駄々をこねたり、「具合の悪い人なんか本当に出てるのか?」と言って吸うのを減らさないでいるようなものだろう。
ここでの根本的な問題は先ず、たばこは吸ってはいけない禁煙車両だと言うことである。
もし、地球上に人間にまで進化した動物が居なかったら、石炭や石油を燃やして出るCO2は地球上に存在しないはずである。しかし、人間が居る場合はどうして出して良いのか。
不思議でしょうがない。
もし良いとしたとしても、やれ6%だ、10%だ、とどんな根拠でそれを数値化できるのか?単なる都合か利権でしかないのではないだろうか。「50%」というのは客観的な数値であるにも関わらず、全く抽象的なお題目にしか聞こえない。
ピンク睡蓮例えば、山で遭難者に出会った場合、先ずは自分の予定や都合を中止して救助に全力を尽くすだろう。「今日中に頂上まで行く予定なので、それが終わったら助けます」とは言わない。その時、高級な皮の登山靴を履いてる人でも、革靴が買えずに安い布の登山靴を履いている人でも、その場に居合わせた皆が力を合わせて救助するだろう。
私は安い登山靴しか買えないから少し後から救助しますなんて言う人は普通は居ない。
緊急事態にその場に居合わせたら、同じ場所に居合わせたというだけで、仲間意識が生まれ行動を一緒に取るのが人間であろう。
何で国になるとそうならないのだろうか? 
かなり勝手なことを言っているし、やっている。同じ地球上に居る同じ人間ではないか。
先進国だとか、途上国だとかなんて言っていられないんじゃないだろうか。
今は皆が同じように遭難しようとしているのではないのか。
このまま行くと、人類を含めた生物は大打撃を受けるだろう。どうもそれは確実らしい。
先ずは全員で力を合わせてこの危機的状況を打開する事が第一歩だろう。
力を合わせながら新しい状況の中で、新しい経済のことに知恵を出して行くのが人間ではないのか。
価値観を変えなければならない状況に遭遇してしまったのだから、素直に運命と受け止めて
対応するしかないと思うのだが、何で皆が未練たらしいのだろう・・・・



一国の首相が、脱石油エネルギー宣言を口にした(但し、期限については何も言っていなかったようだが)。
まあ、言わないより言った方が良いんだろうが、遅すぎる。黄柳
本来は20年前に国策にすべきことである。当時だってエネルギーの大部分は輸入石油に頼らなければならないことぐらいは分かっていた。
サミット前の苦し紛れの口から出まかせ的発言なのかもしれないが、何はともあれ、この国の最高責任者からの発言である以上、全くの嘘でもあるまい。
今までの大いなる実績からすれば、後になって「あれは政治的発言」などと言わぬとも限らないが、まあそれはそれとして、多少でも実行されるのであれば儲け物、ぐらいに捉えておけばがっかり感も少なくて済む。が、つい最近もマスコミによく登場する大臣が、まさに政治的発言で、誰がどう考えても出来っこないことをさも出来そうに発言していた。
資料はきちんと作られていてコンピューターにまだ入力していないなら兎も角、盗んで適当に処理している物が可成りあることが分かった時点で、全てをはっきりさせることなど常識的に不可能なのに、それを知りながら「できる!」と政治的発言をしていた。
案の定、今度は弁解に回ることになった。石段
また、多分、仕事が余り出来ない職員の仕事を作る為に建てられたと思われる「なんとか館」を、同じ大臣が何とか存続するようなことを言っていた。
少しは国民感情に近い別の大臣が、閉鎖という判断をしたにもかかわらず、あえてこういう事をするのは政治的発言であり、だからマスコミに向かっての発言は殆ど信用できないことが多いのだが・・・・

しかし、何で脱石油立国を国是として世界のトップを走ろうとしないのか不思議でならない。
まさか他国に先んじて、自分だけ目立つのは恥ずかしいし、なんて感覚なんではないだろうに・・・・
この国の国防、危機管理の最大の目標はエネルギーの確保と食料の確保であることは誰の目にも明らかである。
少なくとも軍事力への予算は、それらが確保されて後のことであろう。
これだけ石油を輸入にこだわっているのは、まさか舗装道路用のアスファルトが必要だったからではないと思うが・・・・????
誰が考えたって、石油を買ってくるということは、売ってくれる相手があるということで、売ってくれている内は良いが、何かの事情で売ってくれなくなったらどうする気なのだろうと思う。
まさか、また再度、銀輪部隊のお出ましというわけにはいかないだろう。今はマウンテンバイクで多段変速機も付いているから、だいぶ早く走れると思うが、これから石油はそう甘く手に入らないだろう。
今まで、石油に頼る国策しか上げられない政治家にどうしてこの国を任せているのが不思議でならなかったが、何と言っても主権在民、清い選挙により成り立っている民主国家であるからしょうがない訳である。赤雌しべ
しかし、清い選挙とは言っても、道路!道路!箱物!箱物と言ってエネルギーのエの字も考えたことのない人達が投票する選挙であっては、如何ともし難い結果は、まあ当然のことなのだろう。
そんな中での脱石油宣言であるから、ちょっとは何かが変わるんだろう。
この国は何しろ200年以上の鎖国の経験もあるし、かの有名な席を蹴って格好良く国際連盟を脱退した経験もあるし、もうそろそろ、また一人で他国から干渉されないような国策を作っても良いのではなかろうか。
誰もなし得ていない太陽エネルギーでエネルギー的に完全なる自主独立国家の道を歩んだ方が、国民も世界のリーダーとしてプライドと自信を持つことができて良いのではないだろうか。
「エネルギーは太陽から自前します。燃すための燃料としての石油はいりません。資源としての石油だけを売ってください。」と言ったら産油国はどうするだろう。多分「石油を燃さないで済むエネルギーシステムを我々にも売ってください。そうすれば貴重な資源としてより長く我々を潤してくれますから助かります。」と言うだろう。
どう考えたって、そういう立場に日本が立てた方が良いと思うが、どうだろうか・・・・

「人間ってどんな動物なんだ!」というと、いろいろな捉え方があるが、その一つに「疲れることが嫌いな動物」という言い方がある。
実はその性格がいろいろな発明をもたらしたのだと思う。紫陽花74
人間は決して技術を進歩させようと思って努力してきたわけではない。楽をしたいから、それを実現しようと努力したことが結果として技術の進歩を導いたのだろう。
言い換えると、文明の発展は単に楽をしたい事に対する追求心が成した技であるとも言えるだろう。
動物である人間は、筋肉を出来るだけ使って体力を維持しなければならないはずなのに、それが分かっているにも関わらず、それをしようとしない。スポーツジムに通いながら、近くの買い物にも車を使うというアンバランスな行動を平気で取るのもおもしろい。
生活の中を見渡すと、ほとんど楽をしたいために開発された物で当然埋め尽くされている。
照明は勿論、ガスレンジ、電気炊飯器、洗濯機、乾燥機、ミキサー、アイロン、等々上げれば切りが無いぐらいである。勿論、馬車から更に楽するため自動車が出来たし、列車も飛行機も移動を至って楽な物にしてくれた。
これら全ては自分の筋肉を出来るだけ使わないで、物事を達成する為の物である。
何で人間は折角持っている立派な筋肉を使いたくないのだろう。
何で疲れたくないのだろう。黄花石
不思議と言えば不思議である。
もしかしたら、筋肉を使うとエネルギーを余計消費し、その分食物を確保しなければならない事がめんどくさいし、そうすると頭に回るもエネルギーも少なくなるから、それを防止する本能なのかもしれない(しかし、頭に余りエネルギーが必要なさそうでも車漬けが多いのはどういうことなんだろうか・・・・)。
他の動物では意図的に楽をしようとして進化した物は居ない。
正に人間の人間たる所以は、楽をしたいという気持ちが強いことである。
自転車は現代の乗り物の中で異質である、と思っているのだが・・・・自転車は楽のためと言うより、遊びとして楽しむために発明されたと言われている。
またがって地面を蹴って走ることを楽しんだのだろう。でも、これももしかしたら「楽」に楽しみたいからだったのだろうか・・・・?
足の筋肉は大地を蹴るだけで、自分の体重を支えることをしないで済むことになり、それでいて永い距離を移動できるのだから、歩いて行くより楽であることには違いない。坂道を下るのであるなら極「楽」である(但しブレーキが無ければその先は地獄であるが・・・)。
しかし、それなりに長い距離を移動するとなると、やはり筋肉は使わなければならない。まして、旅のように何十Kmも走るとなると、車に比べればかなり筋肉を使い、疲れることになる。だから自転車で旅を楽しんでいるのはごく少数なのかも知れない。
しかし、技術の進歩は自転車までもやはり電動にしてしまった。これでかなり筋肉への負担は減らし楽になった。フゥーフゥーと坂道を上っているとき、同年代の元少女が涼しい顔をして追い抜いて行くことがよくある。
楽しい自転車といえども、やはり楽になる事に越したことはないのだろう。
CO2を少しでも減らす為に、電動自転車化社会があっても良いのかもしれないと、最近思うようになった。
前のブログに書いたが、ほんの近くであっても、2000ccや3000ccの車を動かしてまで弁当を買いに来る人種が居る。
今のところ、それを法律で規制するわけにも行かないが、超楽々な超高性能な電動自転車があれば、車からの乗り換え需要もかなりあるのではないだろうか。要は、人間が使う物は楽であれば楽なほど良いのであるから、徹底的に良い物を追求すれば、かなりの車漬け階層にも浸透するのではないだろうか。山帽子74
脱温暖化社会を目指すのであれば、充電式電気自動車や燃料電池車の開発も重要だが、超高性能な電動自転車の開発を最優先すべきであるのかもしれない。超楽であれば、せいぜい駅までの自転車走行の距離が多分だいぶ伸びるだろう。そうすればわざわざ50ccエンジンのバイクにも乗ることはない。第一、燃料代である電気の方が安いし、太陽電池からでも充電すればただである。太陽電池付きの駐輪場に止めて置く間に満タンにしてしまい、会社の帰りには自由に使えることになる。それだけでもガソリンの使用量はかなり減るのではないだろうか。カソリン代が上がれば上がるほど、太陽電池充電電気自転車の需要はますます大きくなるだろう。
現在、楽しんでいる自転車の旅は、殆ど自転車を専用箱に入れて現地に宅急便で送っている。その箱は目的地の宅急便センターに送り、そこから自転車を入れて又送り返すようにしている。もし、とても軽量な電動自転車が出来たなら、どうせ自転車は持たずに送っているのだから、電動自転車を送って旅をするということも有りかなとも考えている。勿論、自分の力で転がすのが自転車であるが、余りそういう既成概念にだけこだわっていると、単に社会の動きに付いて行けないだけになってしまうかもしれない。



住まいからのCO2排出を押さえようという取り組みはいろいろな企業で始まっている。
三菱重工グループ7社が次世代型超省エネ住宅の開発をスタートしたことと、新日本石油が住宅用総合エネルギーシステムの開発を始めたことがインターネットに載っていた。雌しべ
両社とも超大企業であるが、所詮今までの継続で何かを作らなければならなかったり、今まで積み上げた資源を使わなければならないという大きな制約があるためだろう、内容的には特別参考にするようなところは無かった。
今は、生きて行くために絶対不可欠なエネルギーの大転換をしなければならない時代である。
つまり、生きるための根本原理を変えなければならない時代である。余り過去を引きずっていると大企業も小企業も取り返しが付かなくなるのではないだろうか。彫刻
少なくとも、頭の中では勇気を持って過去の蓄積を捨て去る度胸が必要があると思う。
CO2ゼロハウスを目指す時、単に今の生活の仕方でのCO2ゼロを目指すことは、新しい文明に移行するための過渡的な現象に過ぎないのだろう。
大多数の人達は温暖化による生活環境の変化については未だに理解しようとしていないし、文明が大きく変わろうとしていることなど、夢にも思っていないため、相変わらず仕事内容をほとんど変えられないで居るからだ。
これから少なくとも住まいを考えるのであれば、ハードとしての建物の前に、そこでの生活の有り様をリセットして原点から見直すぐらいのことはしなければならないと思う。
CO2を出さない生活とは、どんな生活のことを言うのだろうか。
そこの所を突き詰めないで、今まで通りエネルギーは単に買ってくるだけの物に過ぎない、と言うことではエネルギーの選択というのは、精々、「電気にしようか、ガスにしようか」というぐらいになってしまうだろう。
これからの生活設計はCO2を出さないために、どんなエネルギーを手に入れようか、というところから始めなくては成らないと思う。
同時に、それを出来るだけ少なくしておくことも至って重要なことである。
どんなエネルギーでも、その使用量を最低にして、最大の快適性を出す事が求められるだろう。お堀
今までみたいにエネルギーを使うだけ使って快適にしようなんて言うことは誰にでも出来る容易いことであるが、これからはお呼びでないやりかたである。
選択できるエネルギーの種類は
(1)太陽光による電気(2)太陽光による光(3)太陽熱よる直射熱(4)太陽熱による温水(5)太陽熱による温風(6)放射冷却熱(7)風による気化熱(8)従来の電気(9)従来のガスなどがある。
これらのエネルギーを適材適所どう使うか、これからは少なくともきめ細かく考えなければならない。
今時、電気かガスかなどと言っているようでは、とてもCO2削減まで考えが及ばないだろう。
つまり今までお金で解決していた(と思っていた)ことを、全て再考してみる必要がある。
今までの石油ぎった生活を単に縮小するという発想でなく、一旦捨て去り再構築すべきであろう。




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