上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


先日、行きつけの白井の梨農家へ行った。今年は暑さの為に出荷が5~6日くらい遅れているそうだ。梨の栽培は、今は秋田でもやっているので、近々北海道でも可能になるだろうということであった。正に温暖化の影響が農業に影響をもたらしているのである。そうしたら次の朝ののテレビで、埼玉県でマンゴーの栽培を研究していることが報道されていた。壁花826今年の夏の暑さは半端ではなかったが、温暖化が進むとこうことは、こんな暑さがさらに長く続くということなのだろう(こんな暑さが何年か続くと慣れてしまって、当たり前の感じになってしまうことが恐ろしいと思う)。その上、紫外線も確実に増えているということだし、人間にとっては勿論だが、植物にも大きな影響が出て来るのだろう。
このことは光合成に悪影響を及ぼし、太陽エネルギーの変換効率が落ち、地球上で生かされているすべての生命体の問題になって行くのではなかろうか。
それは取りも直さず、人間の食糧問題に直結して来るわけだ。
にもかかわらずこの国の動きは緩慢だし、政治は目先の選挙のことだけしか考えていない(選挙による民主主義の最大の欠点だ)。多分、もし人類が生き残っていて、千年先から今の時代を振り返ったら、今は正に足元に火が付いた状態だったことが分かるだろう。
最も怖いのは、もう温暖化は防ぎきれないと言って諦めることだ。そして対策だけに全力投球し始め、それに生き甲斐を感じてしまうということだ。そういう空気を政治的に作ることだ。そうなるとますます温暖化防止への努力をしなく成ってしまうだろう。
人間は、特に戦争がそうなのだが、命を掛けて時間がつぶせるとなると、非常にやりがいを感じてしまう特性を持っていると思う。
イチョウ温暖化の未来がどうなるか特別考えることもなく、一生懸命に膨大な日本中の海岸線に高さ10mの万里の長城を築くことに躍起になり、生き甲斐を感じてしまうようになってしまう事も有りうる。
その完成に向かって、再び国家総動員令を出し、多くの木を伐採し、山を崩し、従わなければ非国民ということに成らなければよいが。
そんなことになればそれこそ取り返しの付かないことになってしまう。
しかし、原因からは目を背け、こんな努力をいくらしても(この前の戦争で竹槍訓練やバケツリレーの訓練が何も役立たなかったように)、温暖化の解決には少しも役に立たない。
餓死により大部分の命を奪った多くの無能な作戦が再び繰り返されなければ良いと思う。
温暖化はもう既に牙をむき始めたのだろうが、この国の大部分はまだ気が付かず、価値観を変えるまでに至っていないように見える。
しかし、スーパーコンピューターにより以前から予測されいた現象が、予測通りに頻繁に起こりつつあるのは、何とも不気味で恐ろしい。
また、この文明の中で色々な技術が相変わらず急速な進化をしているが、その中でもDNAに関わる進化は目を見張るようだ。
これらの進化は、温暖化を消滅させるのではなくて、まるで温暖化に対応できる人類を生み出そうとしているように思えて成らない。
人類は温暖化対策として、環境を元に戻すのではなく、どんな悪環境にも耐えうる人類を作り出そうとしているのかも知れない。
温暖化はその捉え方により対策の仕方が大きく異なってくる。
それは地球上の生物の一つに過ぎない人類が、生きて行くことにより発生した必然的な自然現象と捉えるのか、人類が人工的に作り出したものと捉えるかの違いである。
勿論、私は人工的に作り出したと捉えるべきだと思っている。
だから温暖化は人間自身の努力によって元へ戻すべきが当然であると思う。
温暖化問題を解決するには、温暖化現象そのものの原因を明確にして、押さえ込むべきだということである。
銀杏826温暖化と寒冷化が短いサイクルで変化しているなら、自然現象として捉え、温暖化に余り目くじらを立てることも無いと思う。しかし、営々と何千年も掛けて培ってきた文明の原点である地球環境が、人類の営みにより壊されかねないのであれば、それを何とか食い止めようとするのは至って自然な感情ではないだろうか。
現在、温暖化の結果が良いのか悪いのかなどを論じたところで何も意味がないと思う。
私は今まで自分を育ててくれた環境を回復すべきだと思う。
温暖化されることにより、どんな社会に成るか分からない訳だが、その分からない社会に賭けなければならない理由など全く見あたらない。
温暖化されていない環境の中で生きる方がより快適だと思うし、化石燃料による排ガスが多い方が快適な環境だということはあり得ないと思う。
温暖化された中で生き残る努力をするより、温暖化を阻止するために全力を出す方が、どれだけやりがいがある人生にすることができるのではなかろうか。
一人一人がもう少し自分の生きられる時間を見つめ直し、早く行動を起こすべきである。
自分に与えられた時間は余りにも短いのと思うのだが・・・・


スポンサーサイト

家という物を考えるとき、まず最初にテントが頭に浮かぶ。山やオートキャンプでテントを張り終え、入り込んだ時のあの心地よさ感、安心感は何とも言えない一時である。太陽8:21人間は質や性能がどうであれ、基本的には閉じられた空間の中に入ると、落ち着いた気持ちになれる性質があるのだと思う。その延長上に住まいが有るのわけである。
つまり住まいとは最低限、閉じられた空間が確保されてさえいれば、何とか幸せ感は得られるものなのだと思う。もしそうでないとしたら、そう時間も掛けずに間取りの設計などがされてしまった建て売り住宅やマンションに住んでいる人は、不幸な思いで毎日生活していることになるが、実際そんなことはないだろう。
その家に住んでいて得られる幸せ感は、少なくても間取りで決まるわけではなまく、住まい手の心のあり様で決まるものだろう。
現代の日本の住まいに先ず必要なことは、徹底的な強度である。地震に強く、台風に強く、腐食に強いことが何と言っても絶対条件である。
そうでなければ安心して住むことはできない。住まいの最低条件が閉じた空間の確保であれば、それを満たすために、先ず最初に家の強度の確保に最優先でお金を割り当てなければならない。
20年ほど前に建てた現在の自宅は、地震に対する強度をまず最初にかなり考えた。柔構造によっての耐震性に付いては、そういう物があるということを知っているぐらいで、実際の構造的な知識は全く持っていないため、徹底的に剛構造にした。
構造は在来木造であるため、できるだけ多くの壁にバランスを取りながら筋交いを入れた。当時の金具は今の基準よりも貧弱であったためもあり、外壁は全て2×4の様に12mmのベニヤを貼り、筋交いと柱と土台が離れないようにした。
木漏れ日8:21棟梁には「こんな筋交いの多い家は初めてだ」と言われたが、基準通り入れておいたからといって絶対壊れない保証があるわけではないので、わざとオーバースペックにした。これで壊れてもあきらめが付くので、まず最初に構造を最も重要視してくれるように頼んだ。
次に必要なことは室内熱環境のことである。
これも住んでしまうと構造と同じように見えなくなってしまう基本機能である。何時でも取り替えたり、張り替えたりすることができる物と違い、住まいの基本機能として初めに備え付けなければならないものである(にもかかわらず、そういう物に限って率先して無視しているように見える)。
室内温熱環境の基本は言わずと知れた断熱問題である。
これをしっかりしておかないと、これから益々断熱性能=エネルギー消費量=CO2発生量の問題が重要に成ってくるため、生活の基本が脅かされることに成りかねない問題である。
その為、今から十分予算を掛け、対策を立てておく必要がある。断熱問題とは(1)断熱材の種類、厚さ、入れ方、(2)ガラスの性能、大きさ、(3)サッシの性能、(4)気密性能、などである。
室内温熱環境とはそれらを含み、太陽熱の取り込み構造、蓄熱構造、外部の太陽熱遮蔽構造、そして通風構造などである。その他、温水集熱器、太陽電池などもエネルギー関連としていたって重要である。
このように強度と熱問題(エネルギー問題)の二つに先ず予算を配分し、その他諸々のことはその残りの資金で何とかすればよいと思う。
家とは大金を払って建てるのだから、先ず何と言っても安心して住めなければ意味がない。その安心の確保に今まで考えても見なかったエネルギーの問題が突如浮上してきた。
これは、買えなく成るということ以前に、温暖化問題のために勝手気ままに使えなくなって来たということである。
安心感を得るためにもエネルギー削減生活の確立と、エネルギーの自前を考えておくことは、生活における最大の安心感を得る要件に成りつつあると思う。
新築は人生の中でも最も夢のあるプロジェクトの一つである。その為、有限の予算にもかかわらず、あれもこれもと夢だけは膨らんでしまう傾向にあるのは致し方がない。
しかし、その中身というといろいろな建築雑誌から抜き出した断片を単に寄せ集めているに過ぎない場合が多いように思う。そしてそれらの見える部分に先ずお金を割り当ててしまうため、特に前記した熱関係に対する予算が不足してしまうということが今でも相変わらず行われている。
流れ8:21これからの人間の生活にとって最も大切なことは何かという検討をする前に、その時代の流行に左右されている見た目の気分的な部分を沢山集めたところで、将来に渡って人間が安心して快適に住まうための良い住まいにはならないと思う。そういう家の捉え方は、やっと家を建てられるようになり、有頂天になっている落ち着きの感じられない発想に過ぎない。
時代は特に急速に変わりつつあると思う。今までチームマイナス6%となどと言っていたと思ったら、マイナス80%という言葉まで飛び出すようになってきた。
実現するかどうかは兎も角、こういう数字が出ることだけでも激変の兆しがあるのだと思う。
今、エネルギーは誰かが何とかしてくれる、という時代は過ぎつつあるのではないだろうか。何とかしてくれたとしても、生活を圧迫するような価格になってしまったのでは安心した暮らしなどできない。
これから家を建てるのであれば、出来るだけ買うエネルギーを少なくする為の方策をできるだけ積極的に取り入れておくべきではないだろうか。
今、全盛の化石燃料の価格は、人口増加と途上国の経済発展による需要激増のために、多少の変動があるにせよ必ず上がり続けるだろう。これから少なくとも30年や50年住む家にその波は必ず押し寄せるだろう。
これからの家にエネルギー対策を盛り込むことは至って常識的なことである。
新築の見積もりをする場合も、それらのことを踏まえて項目の重要度順に先ず並び換えるべきだろう。そしてその理由を明確につけるべきだろう。
設計計する側、建てる側としてはこれからの住まいは、こう有らねばならないと言うことをプロの立場として明確にすべきである。
それが分からぬ客など相手にしなくて済むような社会にして行かなければならないだろう。



また8月15日が来た。64才である私はいわゆる戦争体験者ではない(昭和19年の戦中生まれ)が何時でも考えさせられる日である。8月12日の新聞に東条英機が1945年8月10日から14日に掛けて書いた直筆メモが載った。栗のみ816

感想は、この場に及んでもいまだにこんな事しか考えられなかったのか、こんなセンスだったのか、これが当時のエリートなのか、こんな感覚に一人一人の国民の命、人生を託したのか、と改めてゾッとした。
全てとは言わないが、当時の軍部は大部分はこんな心境だったのだろう。
そうでなければ、東京無差別絨毯爆撃も、沖縄戦も、ましてや広島・長崎の原爆攻撃も避け得たはずだ。
「・・・・一段安きに考えたる国民・・・・」とは、自分がこの国の経営に大失敗したことは明白なのに、この時点でもそのことに気が付かず、エリートのつもりで居るとは、開いた口がふさがらない、とはこのことである。300万人以上の自国民を死に至らしめ、その何倍ものアジアの人達の命を失わせたにも関わらず、いまだに自己中心的だったことが改めて分かった。
こんな現状認識と未来予測しかできないお粗末な経営者に命を託すと、所詮こんな事にしか成らないのだろう、ということを改めて考えさせられた。緑紅葉2
人の批判をすることはいとも簡単なことであるが、やはりここで超弱小企業経営者としても、現状認識と未来予測はどうなのかを再確認してみたい。
どんな小さな会社でも、現状認識と未来予測が間違っていれば、たちどころに社会的存在価値を失うのは当然である。
特に未来見る目が正常でないと今の時代生きては行けないだろう。
床暖房に於いて、過去から現在、現在から未来を見てみる。
床暖房の歴史はローマ時代からと言われている。しかし、今の床暖房の大部分は、2000年前の大きな熱容量を持つ石の床を温めた床暖房より、体感性能は圧倒的に劣っていると思う。
現在の床暖房の大部分は、単に床を温めれば良いだろうと言うだけで開発された物ばかりである。その為、銅管だ、電線だ、架橋ポリだ、面寿発熱体だ・・・・と何でもありな状況である。これは、単に床暖房各社が売りたい材料を使って、床材の裏面に接触させる構造を取ったためである。
その為、床暖房とは、方法と構造は兎も角、床さえ暖まれば良い、ということだけが常識になってしまい、選択の視点もイニシャルコストとエネルギーの好みだけによって決まってしまうことになった。
残念ながら、これが現在も続いている。要するに安ければ何でも良いというセンスしか持ち合わせるしかない状況にさせられてしまっている。
今の日本でこれはしょうがないことなのだろう。既に何度か使用した経験が有れば、選択する芽も育ってゆくのだろうが、生活で一度も体験したことがないと、その体感的性能差までなど、一般的には想像力が及ばないのだろう。
生きるための質を求め気持ちとを持ち、想像力の豊かな人でない限り、今まで無い性能が書いてあることなど一般的には気が付かないだろう。
現在は、お陰様で某社の膨大なテレビコマーシャルにより、床暖房という言葉は日本中に普及しているため、床暖房の体験者も急速に増えている。
緑紅葉その為、温熱性能を意識する人も増えることになったことにより、次の新築では床暖房はもういらないという人も増えることになった。
ほとんどの床暖房は、こもり熱を排除する機能がないため、お尻のや足の裏がの温度が上がり過ぎて、それを不快に感じる人達が増えたためである。
アクアレイヤーを扱っているとそういう人達に巡り会うことが増えてきたので良く分かる。
つまり現在は、体感性能を床暖房の選択条件のすることなど及びも付かず、床暖房と名が付き、単に安ければ何でも良い大部分の人達と、一度床暖房を体験しているため、体感性能で選択しなければ駄目だと考えるごく少数の人達が混在している時代である。
現在は同時に、エネルギー源やCO2排出量を選択基準の一つに考える人と、考えない人の混在している過渡的な時代でもある。
また、単に床を温めるだけなのに、理想的な暖房は床暖房だなどという誇張した言い方から、つまり床暖房を入れさえすればどんな家でも必ず快適に成る様な言い方から、快適な家の温熱環境という考え方に変化してきている時代である。
夕雲816室内温熱環境の安定化と快適化、と同時に省エネ化の為には高気密高断熱化だけでなく、それに加えて高蓄熱容量化が無ければ成り立たないことが理解され始めてきた時代でもある。
これからの時代は、家の快適な暖房=単なる床暖房、という単純な図式で床暖房を選択すればよいのではなく、CO2を極力出さず、同時に快適であることを追求することである。
省エネの究極は勿論、太陽エネルギーのみによる生活である。その為、集熱と蓄熱性能(高熱容量化)を持たせることが住まいのための絶対条件に成るだろう。
深夜電力を使うにしても、太陽エネルギーを使うにしても、いずれも熱を溜め込まねばならず、いずれにしても蓄熱性能が求められることになる。
勿論、深夜電力にしても太陽エネルギーにしても、それらのエネルギー使用量をできるだけ少なくするために、熱を逃がさない配慮はますます重要になり、総合的な断熱化のことを検討することは、これからますます避けては通れない問題である。
太陽エネルギーだけで生活することは、今までの概念で言えば、超省エネ化ということであるが、今までの考え方の省エネの常識では通用しないだろう。
何故なら、自分が自分の土地の中で得られた分の太陽エネルギーは、どれだけ使おうと自由だからである。
また、太陽エネルギーを使うためには、蓄熱が絶対条件であることは既に書いたが、究極の蓄熱=熱容量は大地、つまり地球ということになる。
そうなれば人類は本当の意味で、大地の上にしっかりと根を張った生き方を獲得できるのだろう。
これがアクアレイヤーから見た現状分析と、未来予測であるが、少なくとも当時の軍部や国策を作っていたエリートと称される税金生活者やマスコミよりも、未来を見る目は曇っていないと思っているつもりだが・・・・
地球新秩序の為の最大の敵は、物事をきちんと見、想像する能力のない心である。

弊社イゼナでは「リユース床材」という商品名の無垢床材を販売している。
リユースであるから当然リユースできる床材のことである。
何故わざわざリユースかというと、理由は二つある。
図面
一つは現在の施工方法にある。根太に床材を取り付ける時に、ほとんど必ず釘と同時に接着剤を使う。その為、剥がして使うことは不可能になってしまう。
勿論、床材は釘だけで十分に止まる(自宅の床は全て無垢材であり、釘だけで止めているが、19年間音が問題だと感じたことはない)。
それでは何故接着剤を使うのかというと、歩いた時の床鳴り防止(そんなことを防止しようという事がおかしい。防止の対象になること自体がおかしい)のためである。特に無垢床材は季節による湿気の違いで、反ったり、縮んだり、伸びたりと寸法の変化が、金属やプラスチックなどの比べると大きい。
その為、踏むと季節によりきしみ音が出る場合がある。実は、季節によりきしみ音が出るということは無垢床材の場合、当たり前なことなのであり、季節感そのものなのだ。にもかかわらず、その当たり前なきしみ音を止めようと接着剤を使い、二度と外せないようにしてしまうのである。写真
接着剤を使う理由は、こういう無垢床材の特性を全く理解していない人達が単にムードだけで選択して使うところにある。
本来、音が気になるなら、初めから木造住宅の選択などすべきでない。床を含めてコンクリートの打ちっ放しなどを選んだ方が良い。
少なくともきしみ音は絶対でない。まして、単なる気分や流行だけで無垢床材など選択すべきでない。
また、施主から無垢床材の要望が出された時、無垢床材の何たるかを設計士はきちんと説明すべきであり、施主が納得しなければ、せめて植林材である針葉樹材を進めるべきではなかろうか。
それを一緒になって少しでもきしみ音が出ると、あたかも施工ミスのように施工者に直させるため、施工者はどんなことがあってもきしみ音が出ないように接着剤を多用することになる。
そうなると、リフォームの時、使っていた床材をまた使いたいと思っても、もう二度と使えないことになってしまう。
これがリユース床材を開発した一つの理由である。無垢床材は使われるべき人に使われていないのである。
二つめは、天然林の伐採にある。
十何年か前に床暖房用無垢床材イゼナックスの伐採地である岩手県の山を見に行ったことがある。栗は勿論広葉樹であるので天然林の伐採によってしか得ることはできない。
現在、どんな基準で伐採し、その後伐採地をどうするのかは確認していないが、当時聞いた話では、伐採後そのまま放置し自然に木が生えるのを待つか、針葉樹を植林するということであった。京や1
たまたま2008年8月6日の朝日新聞に「天然林の伐採 実態は」という記事が載っていた。天然林の実態はどうも悪化している一方のようだ。「風倒木の処理」とか天然林を「天然生林」と「育成天然林」に分けるなど屁理屈をくっつけ、自由気ままに伐採しているようだ。伐採することがよほど儲かるのだろう。
この時代は地球環境の事を考えることが国民の生活の原点を考える事であり、特に税金で生計を立てている立場であるなら、なおのこと未来へのビジョンに向かって行動しなければならないはずだ。
森は単なる商品の一つという単純なものではない。
森=植物は太陽からのエネルギーを直接有用な物に変換して、我々生命体を支えている唯一のシステムである。
勿論、最も大切な酸素の供給源である。
岩手の山の栗材は80年から100年ぐらいの物であると聞いた。そんなに時間を掛けて育ったのに、たった2~30年で壊してしまう家に使うとは非常に勿体ないことだと感じた。
千年以上前の遺跡から朽ち果てずに栗材がよく出てくる。腐らせなければ無垢材は本来千年でも持つ物なのだ。それをたかが2~30年で捨ててしまうとはおかしな話だと思う。切り出した以上に、また復旧させるシステムがあるべきだと思うが、前記した記事を読むといまだにそうはなっていないらしい。今時何とも不思議な現象である。
そうであるならシステムが整うのを待つのではなく、切り出してしまった物であれば、長い間使うという自己防衛をするしかない、ということで「リユース床材」の開発となった。
もう一つ「リユース床材」を商品化しようと決めた理由に、娘が孫の洋服をインターネットで手に入れているのを見た事による。いわゆる古着である。我々の世代は兄弟や親戚からのお古は勿論よく使ったが、一般の古着を買うことはしなかった。京や2
今は当時より裕福であるにもかかわらず、インターネットがあるために古着の市場が成り立つことを知った。そこで上の理由を実現できる時代が来るだろうと感じた次第である。
勿論、現在は「リユース床材」に興味を示す人はほんの一握り以下である。その為、一年に一回話があるか無いかであり、とても商品と言うわけにはいかない。
覚悟の上の開発とはいえ、社会は余りにも遅れすぎている。
しかし誰もやらなければ「リユース床材」という言葉すら聞くことがないため、ますますそういう視点で物を見るということが遅れることになってしまう。
誰かが一番最初に手をつけなければ何事も始まらない。それでイゼナがまず最初に手をつけた。
超弱小企業は最初に手をつけることでしか生き残ることはできないと思っている。大企業であれば二番煎じでも良いが、超弱小企業にそれは成り立たない。
この国はご丁寧に税金を使っていまだに自然破壊を拡大している。これは森林破壊に限ったことではないが、よくまあそんなことを推し進める政治家を、これまたご丁寧に選挙で今時選でいると思う。
アクアレイヤーを初めて世に出してから12年の間、高気密高断熱に加えて高蓄熱にしなければこれからの家は設計できないと言い続けてきたが、やっと理解する人が増えてきた。しかし99%の人はまだポカンである。
「リユース床材」も懲りずにしつこく言い続けるしかないと思っている。
リユース床材を使うことは昔の家のように材料という形である種の貯金をすることと同じ事であると思う。
温暖化戦争に勝つためには全ての価値基準を変えるぐらいの度胸が必要だろう。

中国オリンピックが北京で始まった。相変わらずバカの一つ覚えで「平和の祭典」だそうだ。
見え透いた建前に過ぎない事は誰でも知っているのに、よくもまあもっともらしい顔をして「平和、平和」と連呼しているのには辟易する。
無名810「平和の祭典」中でグルジアとロシアが戦争に発展しそうだ。古代ギリシャでは一応、あらゆる戦いを中止してオリンピアに集まったとされているが、今はそれもできない。
テレビを見ていたら開会式が始まった。そこで行われているパフォーマンスは、確かに凄いと感じたが、素直に喜べないし、全く感激を覚えなかった。
スポーツマンシップで行われる競技に、政治的な事から解放されて開催されるはずの競技会に、こんな事が何で必要なんだろうかと感じたからだ。
勿論、オリンピックが本当に平和につながるなら、どんなことをやってもそれは感激の対象になると思うが、64歳にも成ると、そんな見え透いた嘘には乗らない知恵が付いたのだと思う。
今回は特に、国家の威信顕示以外なにものでもなかった様に見えた。但し、個々のパフォーマンスの芸術性について言っているのではない。
オリンピックは「参加することに意義がある」と、相変わらず、これまた見え透いた建前を言うが、それを言うなら、選ばれたことに意義があると言うことではないだろうか。
しかし、一端、選ばれた以上、参加することに意義があるなんて軽々しく言うべきではないだろう。
勝とうと思わない選手なんて何処の世界にいるというのだ。
何ごころか知らないが、試合をする前から負けることの予防線を張るなど、何ともおかしいことだと思う。
想像できない、正に血の滲むような努力の結果、選ばれた選手の人達に失礼なことではないだろうか。
また「平和の祭典」などと、できもしない抽象的な言葉など今さら持ち出すことも、もう止めるべきだろう。
いっそのこと「兵和の最転」にしたらどうだろうか。よっぽど具体的な対策が立てられると思う。
ダム810いずれにしても、これだけ長い間やってきても、オリンピックと平和とは何の関係もないし、オリンピックにそんな力があるわけが無いことが証明されているんだから、オリンピックから少なくとも「平和の祭典」という言葉は外すべきである。
そんな言葉に自己陶酔しても何の社会進化とも結びつかないし、その暇があったらもっと具体的な対策を検討すべきである。
温暖化により生活の全ての常識を逆転させなければならない時代なのだから、オリンピックの存在意義もイメージも、当然全て再考すべきである。
化石エネルギーをたくさん使えば使うほど進化しているのだ、ということから使えば使うほどアホなことなんだ、ということに既に180度逆転している時代に、オリンピックに対する常識だけが変わらないで良い、ということなどあり得ない。
先ず、開催場所は固定すべきである。ふらふらとあっちこっちでやるべきでない。
今、地球環境にとってはそんな政治ショーに時間と能力と金を使っている暇など無いと思う。
例えば、オリンピックの開催はすべてギリシャにすべきである。本来、オリンピックとはそうだったはずだ。
特に陸上競技は同じ場所で、同じ条件で記録を競うのが当たり前の事ではないのか。
条件が全て違うのに、0.01秒を競う意味が本当にあるのだろうか。
特にマラソンはおかしい。全くコースの条件が違うのに時間で比較するなど何の意味があるのか。
予選のない一回の勝負であるなら、単なる勝ち負けの問題で良いのではないだろうか。
マラソンの記録は、例えばオリンピアのコースと決めるべきである。そうすれば何時の記録も比較ができ(その都度、天候が違うという事は残る)、その意味も重さも違うものになる。夕景
単なる政治ショーにしないためにも、開催場所は固定すべきである。
今度はどんな所なんだ? そこの空気はどうなんだ? 何て言っているよりも、聖地オリンピアを目指しての方がよっぽど気合いが入るだろうし、よっぽど夢があるのではないだろうか。
いろいろな国で開催すれば、多くの人がオリンピックを見ることができる、という意見もあるだろうが、60何億人の中で見られる人なんて所詮一握りだろう。
どうしても見たいなら、各国に共通の標準施設を作って、世界が一つになるとか、平和とか、いう言葉は一切入れず、純粋に世界スポーツ競技会を順繰りにやればよい。
自分の能力を最大限向上させるために努力をしてきた純粋な選手の人達を、もうそろそろ単なる政治ショーに利用すべきでない。

四歳にして温泉大好き孫を連れて、二泊三日の休みを取った。妹が7月2日に生まれ、特に大好きなママを独占できなくなった寂しさを紛らわせてやろうという、ジジババ心の優しさの企画であった。
田園日曜日と月曜日の宿泊であったため、両宿とも誰にも会わずに温泉を十分楽しめた。全てが貸し切り風呂状態だった。
今回は孫連れ三人旅だったので、プリウスで行くことが一時、頭を過ぎった。しかし、片道が400Kmぐらいあることを考えると、止めるべきという結論にした。
車で行けば、行く日と帰る日のほぼ全部の時間は運転に取られてしまう。
今さら特別見るべき景色もない高速道路を、ただハンドルを握ってアクセルを踏んでいるだけで貴重な時間をつぶしてしまうのは、何とももったいないし、だいたい見た目も格好良いわけではない(車でしか行動できない族と同じに見られるのもシャクな話である)。
第一、孫に公共の中で他人に迷惑を掛けずに楽しむ術も教えられない(そんなことを家庭や車の中でいくら言い聞かせたところで分かる訳がないし、核家族が車で移動するという流行が公共モラルを全滅させたと思う。いまだにそんなことも分からず親気分だけをやっている親もどきが圧倒的に多い)。
二人そんな訳で新幹線と駅レンタカーにした。
お金のことだけで言えば、勿論、自宅からプリウスで行く方が圧倒的に安い。ガソリン代が高いといってもプリウスだと多分、往復で6000円ぐらいであるし、高速代を入れても3人で一万円台で行ってこられるだろう。
しかし、人生の残り時間を考えると、車の運転ごときで二度と取り戻せない時間を失ってしまうことには、何とも勿体ないと感じてしまう。
買えるものなら、無理してでも、できる限り「時」を金で買うべきであると思っている。
案の定、新幹線の中で孫にいろいろなことを教えるチャンスに恵まれた。
特に、前の席にはのんびりと本を読みたい人が居るかも知れないし、ゆっくり寝たい人が居るかも知れない。それなのに、バタンとテーブルを跳ね上げたり、狭いスペースで動き回わったり、我がもの顔で大きな声を出すことが至って迷惑なことであることを教えられた。
降りるとき、前の人達に謝った。四歳だからしょうがないなどという言い訳はできない。
年とは関係なしに公共には公共のマナーがあることは徹底的に教えるべきである。
人間の子供は豚さんではないので、時間は掛かるかも知れないが教えれば少しづつ学習してゆくものだと思う。教えないことが最悪であるし、教えることが分からないのがもっと最悪である。
車というのは、その中でお行儀もへったくれも無いし、何でも勝手にし放題の空間を与えてくれるし、至って楽ちんな乗り物ではある。
しかし、車の多用が、本来であれば公共ルールを学ぶべき時間を奪い、そればかりか勝手さを醸成しているのではないだろうか。
吹き出し車を使うと、もう一つマイナス面がある。
何も考えずに、思い付きで持ち物をぶち込むことである。
列車などで行くとなるとそうはいかない。持ち物は全て自分達で持たなければならないので、できるだけ軽くしたいのは当然である。
その為には、旅の中で起こるであろうあらゆる場景を、先ず自分の頭の中でシミュレーションをしてみることが最低限必要である。
車でなければ曖昧さなどはとても許されるものではないし、曖昧にすれば折角の旅を面白くない物にしてしまう。
車はそういうことを余り考えたくない人にとても便利な乗り物である。
それと、旅館に泊まるといつでも、もったいないと思うことがある。
一つは料理が多すぎる。まるでメタボを奨励しているようだ。
大体、年のことを加味せず、若者と同じ物を出されたのでは全部を食べられる訳がない。
今回も日常では考えられないくらい残してしまった。
客の中には食事の量で比較する人も多いのだろうが、何とかならないだろうか。
もう一つは、これもサービスのつもりなんだろうが、電気のつけっぱなしが多いことだ。普段の生活ではこまめに消して歩くのに、旅の恥は掻き捨てのごとく電気を無駄に使うことになってしまう。特に今回の一泊目は私達だけだったので、その為に旅館中の電気がつけっぱなしだった。
また、トイレには何処にでもペーパータオルがあった。あれも当然止めるべきである。たかが手を拭くぐらい自分のハンカチを使えばよい。
温泉は両宿とも源泉掛け流しであったため、気分良く落ち着いて楽しめた。
帰りの新幹線の中で、孫は前の人が気が付かないようにそっとテーブルを畳んでいた。
ちなみに、プリウスへの給油は5リットルだった。

今年もまた8月15日が来る。広島・長崎への無差別原爆攻撃が行われた戦争の終わった日である。そんな中で、講談社現代新書「空の戦争史」田中利幸著を読んだ。
空爆の歴史書である。
黄色小花82空爆は無差別絨毯爆撃を生みだし、飛行機の発明から40年ちょっとで広島と長崎に原爆を落とすに至った。
その後も、ベトナム戦争など多くの無差別絨毯爆撃が行われている。
空からの爆撃の歴史は1783年11月21日、パリ郊外で医者と二人の陸軍士官を乗せた気球の成功により始まったとされている。
空を飛ぶことには、初めから軍人が絡んでいたからだ。
空を初めて軍事目的に使ったのは1794年、フランス革命政府が敵軍の位置確認の為に気球を使ったことらしい。
最初の空爆は1849年のオーストリア・イタリア戦争に於いて、オーストリア軍の風船爆弾とされている。
1863年にはイギリスで気球から毒ガス散布をして、敵の人民を昏睡状態にすべきだという提案が出されている。
この時から既に無差別爆撃の考え方が始まっていたのだろう。
空飛ぶ機械が将来の戦争に重要な役割を果たすだろうという未来小説が多く出され、当時から空爆は予言されていた。
1903年、ライト兄弟の初飛行成功と1906~7年ツェッペリン飛行船の成功により、空爆は現実のものとなった。
新枝1909~10年からヨーロッパ列強により、空の軍拡が一挙に始まった。
それより前に行われた1899年の第一回ハーグ平和会議では、気球からの投射物や爆発物の投下を永久に禁止する国際宣言案がロシアから提案されている。
しかし、有効期限を5年間にする、というアメリカの提案が採用されてしまった。
有効期限を付けた理由は、将来、より有効な空爆技術が開発されれば、勝敗の決着の付く期間が極めて短くなるため、結果的に戦争での犠牲者が減り、人道的であるということだったらしい。
成るほど、100年以上前から、もうそういう屁理屈と身勝手な発想ががあったのかと、ちょっとびっくりさせられた。
そんな中で、1911年(原爆投下の33年前)イタリア軍の飛行機からトルコ軍に手榴弾が投下され、その翌年にはモロッコでフランス軍による歴史上初の”無差別爆撃”が村落や市場などに行われた。
そこから、まだ100年経っていないのに、何と空爆が進化したことだろうか。
今、リモコンによる殺戮はまるでゲームの様である、ではなくてゲームそのものになってしまった感がある。
戦争(現代はテロも含まれる)による無差別殺戮が止まる気配は微塵も感じられない。
空爆による大きな恐怖が戦争を早く終わらせ、人道的であるなどということが、いまだに、まことしやかに言われていることを見れば分かる。
空爆の恐ろしさは、空爆をされている側の痛みを、している側が全く感じないことにある。
されている側の状況が全く見えないため、鼻歌交じりで一般市民に大量の爆弾を投下できるのである。
同じ戦争と言っても兵隊同士の白兵戦とは全く違うところであろう。
日本も当然、先の戦争で無差別爆撃をしている。
特に、重慶への無差別絨毯爆撃は「非人道的なテロ行為」とアメリカ政府から非難されたそうだ(うぅ~・・・・・・良く言うよ!としか言いようがない)。
桃百合花昨日、日本の原爆開発の番組を見たが、もし日本が先に開発していたら、当然、先に使っていたのだろう。もしそうなっていたら原爆の評価も違っていたのかも知れない。
また、原爆の開発者も、これがどう使われ、どんな結果が起こるのか想像はできただろうが、黙々と取り組んでいるところが印象的だった。
これは、無差別絨毯爆撃を実行している訳ではないが、罪は同じなのではないだろうかと感じた。
技術の進化は多大な便利さをもたらしたが、気楽に大量殺人を行う技術も大いに進化させてしまった。
そして未だに多くの国が、軍拡のために糸目を付けず大金を注ぎ込んでいる。アホな話である。
もし、他国に対する軍事費を、温暖化大戦争の軍拡費に充てたならば、それこそ短期決戦で終わらせることができ、正に人命の損出も最小で済むのでは無かろうか。
現代は化石エネルギーを得るための紛争と戦争が絶えない。だからといって今さら軍拡が有効手段だとは思えない。
太陽エネルギーによるエネルギーの自立を目指すことこそが、最大の防衛戦略ではないのだろうか。最大の危機管理政策ではなかろうか。
特にこの国はそうなのだと思う。
この本を読んで、特に空爆のご都合主義、屁理屈、恥知らずの自己正当化が目に付いた。
人間のする戦争とは所詮そんな物なのだろう。
人間の進化って一体、何なのだろうか、と考えざるを得ない。
「自分自身は何が進化していると思いますか?」の問いを忘れては成らないと思う。

7月27日の朝日新聞社説に”太陽光発電「創エネ」に早く行動を”が載った。
今になってもまだそんなことを書かなければならないこの国は、何とトロイのだろうか。黄小花
今頃、太陽光発電を2020年までに今の10倍とか、30年には40倍だとか言うくらいなら、何でもっと前に言わないのだ。
何をボヤボヤしているんだ。
そんなに太陽光発電に興味が無いなら、煮え切らないような、でれでれとした決め方などせず、いっそのことやらなければよいと思うのだが、それもできない。
本当の未来像も指し示せず、この国の未来社会に対する信念もなく、キョロキョロと周りを見回し、一体全体、何の後にくっついて行こうとしているんだろうか。
全く何のもくろみもなく、何の勝算もないのに無益に時間を引き延ばしたために、本来死ぬ必要がなかった非常に多くの人を、死に至らしめた前の戦争の時のようである。
まだ、また原爆を落とされなければ分からないのだろうか。赤花小81
太陽光発電の量を決めるのに、今の何倍かなどという言い方はないし、何で今が基準になるんだ。
何も考えていない適当な数字合わせとしか言いようがない。
大切なのは、これからどれだけ太陽光発電の必要な社会にするか、定量値を出すことである。
太陽光発電の量を表すのは「倍」という単位ではなく「ワット」であることをご存じないのだろうか。
「また、泥縄式かよ!」と言いたくなる。
どこの国だろうが、どんな業界だろうが、それらがどんなに地団駄踏んだところで、近い将来は太陽エネルギーに頼らなければならない時代が来ることぐらい分からないんだろうか。もたもたしていて、もし、太陽エネルギーに頼らないのなら何に頼るというのか。
温暖化戦争の絶対国防圏はもう既に突破されているのである。
いつかのように絶対国防圏を無目的にズルズル後退させ、莫大な犠牲を出してから渋々気が付くような愚を二度と犯しては成らないと思うのだが・・・・
しかし、何が、誰が太陽光発電の足を引っ張って居るんだろうか。
何が加速されない原因なんだろうか。
太陽光発電パネルが格好悪いと言う抵抗勢力がある。こういう言い方は、勿論単なる主観に過ぎず、次元が違う。ゴウヤ
エネルギー(=生きる)の問題であり、それも単にお金で買うエネルギーと言うことではなく、地球環境を破壊しかねないエネルギーの問題である。
主観だけでは処理できる問題ではない。
今だけ儲かればいいという化石エネルギー業界の欲望なのか、これから伸ばしたい原子力業界の力なのか、今までの金蔓が無くなる政治家や役所等の税金族の抵抗なのか、それとも今の自分さえ良ければよいと考える人間の本性なのか・・・・
少なくても予算の問題ではない。60兆円を道路だけに使おう、ということが平気で言える太っ腹お国柄だから、少なくても金の問題ではない。
勿論技術の問題ではない、となると、単に決めるかどうかという問題に過ぎない。
それに必要なのは、未来を夢見るビジョンである。そして決断力である。
しかし、その能力を最も持っていないのが、税金族達であろう。彼らが牛耳っていてはいつまで経ってもらちが明かない。
至ってシンプルな問題だと思うのだが、こんな問題がまだ解けないとは・・・・



プロフィール

izena社長 前田誠一

Author:izena社長 前田誠一
FC2ブログへようこそ!

ブログ全記事表示

カテゴリー

リンク

人気BLOGランキング

ランキング人気 20070719115222.gif にほんブログ村 環境ブログへ

月別アーカイブ

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

ブロとも申請フォーム


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。