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トイレに入ると自動的にふたが開き、便座が暖かくなり、終わると水が流れてふたが閉まり、脱臭までしてくれる便器がある。おまけに、トイレに入ると照明がつき、出ると消える様になっている。使ってみると至って快適らしい。どうせならドアも自動にすれば、正に何処にもさわらず用が足せることになる。この商品開発時のコンセプトは、トイレに入ってから出てくるまで便器には手を触れず清潔であるということらしい。瓶
人は又一つ、頭と筋肉を使わないで済むようになった。技術もよくもまあ進歩したものだと思う。
人間は益々、何もしないで済むようになり、益々自分の時間が増え、益々自由になっていくのだろうか????
しかし、片や、用のあと、ふたの閉め忘れや照明の消し忘れ、何と水の流し忘れまでが多くなったという声も聞く。
確かに、こんなトイレ環境の生活に馴染んでしまったら、ましてや、生まれた時から子供が馴染んでいたらどういうことになるんだろうか。
自分の意志を働かせなくとも、全てが自動的に動いてくれるとなると、それが最も自然であり常識であると思い、それ以外は全て、つまり自分の意志で自分が操作することは、全て非常識ということになってしまうだろう。
これが本当に社会の進歩なのだろうか。これが本当に人のことを考えた商品なのだろうか。おかしいと思う。これでは生命体としての人間は進化しているのではなく、退化しているとしか言いようがない。
この商品は、便利というより、むしろ人間から自分の意志で判断して行動する自由を奪ってしまう機械である。他人が作った物に操られるための訓練機の様に思う。
どうしてこういう商品が開発されるのだろう。
竹一つは「清潔」という最もらしい理屈が付けられるからである。二つめは単に商品価値を上げるためである。三つめも単なる他社との差別化のためである。四つめは虚栄心をくすぐるためであろう。
こういう商品を開発している企業やそこにいる社員は、人間の未来がどうあれば良いと考えているんだろうか。人間がどうなれば良いと思っているんだろうか。
清潔ということは良いが、機械が全てやってくれる清潔で本当に良いのだろうか。

手が使えないなど身体の不自由な人にとっては、救いの神であろうが、健常者にとっては、生き物としての能力を低下させるだけに過ぎない道具なのではないのだろうか。
脳の機能が退化してゆく方向、つまり進化の逆戻りをして爬虫類の脳に退化させられて行くための道具なのではないのだろうか。目先の快適ささえあれば、それで良いと思っているのだろうか。

こういうトイレがある家庭で育った子供は、そういう機能を持っていない、いわば一般常識的な場所に行った時、勿論、省エネのために自分で照明などは消したりしないだろうし、ふたは閉めないだろうし、当然水も流さないだろう。ましてや後の人に気を利かせて窓を開けることなどしないだろう。正に恥さらし者になってしまう。
全自動トイレは恥をかかせる為の訓練をする道具とも言える。
また、こういうトイレは部品点数も多く、当然製造に掛かるエネルギー消費量も多くなるし、故障率も多くなるだろう。
杉葉もし故障(自動でないトイレに行ったときも同じ)でもしたら、そういう環境で育った子供は、ふたの開くのを今か今かと待っているだけで自分で開けようとしなだろう。そして漏らしちゃうという笑うに笑えぬ話になってしまうかもしれない。
ふたを手で開け用を足した後も、洗ってくれるのを何時までも待っているだろう。そして水を流さず、ふたを閉めず、窓も開けず、照明も消さず文句を言いながら出て行ってしまうだろう。
人間(健常者)にとって全自動便器など必要ない。
トイレへ行く時の全ての動作ぐらいは、自分の意思で確認しながら、自分の手で行うべきである。
便「機」ではなく、便「器」で良いと思う。

人間が人間らしく生きるためには、自分の意志で判断し、自分の意志で行動すべきことは、当たり前中の当たり前であるが、文明は全く逆方向に向かっている様に見える。
全自動トイレは、頭と筋肉を更に使わせないようにし、それらの劣化を促進させる機械であるように思う。
これが文明の進化なのだろうか???
技術の進化とは人間の人間たる尊厳を一つ一つ剥ぎ取ってゆくことなのだろうか???
その究極が温暖化による環境破壊なのだろう。
人間の尊厳をもう少し大切にすべきだろう。
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CO2の国内排出権取引方法が決まったらしい。
A首相の発言を聞いて唖然としてしまった。「出来るだけ、多くの企業に参加していただて・・・・」だと・・・。今、誰が首相をやったとしても、未来を予測して、より快適で安全な国造りをするための決断と実行出来る人はいないだろうが・・・・「できるだけ」とはちょっと酷いんじゃないの。筑波山
まあ、この国の国民は浮かれることだけは好きだし、孫の未来より目先の自分達の方が大切に考える種類だから、所詮大した首相は出てこないだろうが、もうちょっと大切な物事はちゃんと決めたって良いんじゃないかと思う。
「できるだけ」とは、「出来なければしょうがない」ということである。
この国は、わざわざ京都でCO2削減の対策を決めて置きながら、決めたことに対して「できるだけ」などという曖昧な言い方はないと思う。
これもまたパブリックサーバントが書いたことを棒読みしただけなのかも知れないが、それにしても「できるだけ」はないだろう。

各企業がCO2の排出を削減するということは、それを無視している諸外国との経済競争において、確かに当面は不利になるだろう。
しかし、それは当面であって、それを言っていたらいつまで経っても事態は悪くなるばかりである。
「やらない人が居るから・・・」なんて子供じみたことを言っている暇はないと思う。
ローズ1023それよりも、それらの状況が新たに自分達に課せられたチャンスと考えるべきである。機先を制した者がいずれ勝つことになる。規制は新しい開発テーマ、新しい商品化テーマを作り出すことになり、まさに新しいビジネスチャンスなのではないだろうか。
それを「できるだけ」などという、現状を変えなくても良いよとも取れる発言は、環境を考えた新しい近未来の競争はやらなくても良いよ、と言っているようなものであり、頭からこれからの経済競争を無視したものだと思う。

CO2削減というのは暇つぶしのお遊びではない。排出権取引などと最もらしいことを言って、経済ごっこをしている場合ではないと思う。
CO2の削減目標というのは、先ず、最終的に地球上に許容できる数値を何とかはじき出すべきだろう。
正確な数値が出ないなら、こうであれば問題が起きないだろうと思われる数値を出せばよい。
つまり今まで通りの風土の中で生活できる数値である。
しかし、数値を出すといっても色々意見があって、そう簡単にはまとまらないだろうが、先ずは国連の最優先課題として取り組むべきである。
数値が決まらなければ国の目標値も決まらない。国が決まらなければ家庭の目標値も決まらない。家庭が決まらなければ個人の排出して良いCO2の量も決まらないことになる。それがないと新しい生活設計が出来ないし、生きて行く方法の新設計が出来ないことになってしまう。
しかし、その間もCO2は加速度的に増え続けているわけだから、数値が決まるのを待つのではなく、それとは別にCO2排出の出さない商品の開発を奨励し、どうせ莫大な無駄使いがあるのだから、それらを投入すべきである。
そういう商品を率先して開発している企業や個人が有利になるような社会気運を醸成すべきである。
そういう二段構えの対策が必要であると思う。
花瓶地球の数値が決まれば、国の担当分の数値が決まり、企業担当分、家庭担当分の数値も決まることになる。そこで初めて実行プログラムの具体的な方向が決まるのではないだろうか。
勿論、そうは言ってもCO2削減を実行することは、今までの生き方の否定にも成りかねず、莫大な金も掛かることであり簡単に行かないだろう。
しかし、取り返しの付かなくなってから、それに立ち向かうより、いま何とかしようと考えれば、努力も金も少なくて済むだろう。
物事全て、結果に対処するより、前もってその原因を除去する方が至って有効である。
かつて本田技研がCVCCエンジンを開発するに当たり、どういうシステムにすべきかを検討した際、本田社長が、言い方は忘れたが「出た排ガスを除去するのではなく、初めから出ないようにしろ」というようなことを指示されたということを読んだことがある。
CO2問題も然りであると思う。現在の結果に対処するのではなく、その結果を作り出した行為にまず目を向けて行くことが最優先であろう。
今こそ強力な政治力が必要だと思うのだが、この国の今の代表者(但し、民意によったものではない)は「できれば」などとまるで他人事のようなのんきさである。
「買うエネルギー」から「自前するエネルギー」に変換しなければならない時代であるが、これは多分、産業革命の比ではないほどの大社会革命だろう。革命であれば多少の痛みはやむを得まい。
子供のため、孫のために腹を決める時期だと思う。

日本太陽エネルギー学会は1975年に発足した。今から33年前になる。ススキと黄色
発足したことの記事だったか、日豪合同シンポジウム開催の記事だったか覚えていないが、太陽エネルギー学会が有ることを新聞で知り、早速入会したのだろう。
その為、1975 VOL.1 NO 2学会誌を持っている。1975年は二つ目の会社であるマミヤ光機の開発部にいた時である。表紙
当時、マミヤ光機は脱カメラを謀るべく、開発部長以下全員を外部から集めた組織だった。部屋はカメラ部門とは分離され、茗荷谷に置かれていた。
開発テーマはカメラ以外の多くの物に置かれ、意気揚々と仕事をしていたのを覚えている。そんな環境の中で太陽エネルギー学会の記事に接し、これからの新しいテーマだと思って入会したのだろう。
個人で入会しているところを見ると、よほど思い入れがあったのだろうが、その時の心境は覚えていない。
そんな訳で学会誌の第2号から現在に至るまでほぼ全巻を所有している。

学会誌を開いてみると、先ず、1975年に開催された国際太陽エネルギー学会、国際会議に展示されたソーラーシステムが載っている。
当時はまだ太陽熱エネルギーの時代であったため、展示品の多くは太陽熱コレクターであった。集熱器1021
太陽電池関係は一般化されておらず、何も展示されていなかったようである。
当時の太陽エネルギーを用いた発電といえば太陽熱発電が主流であった。
その他、太陽熱を利用したヒートポンプ、屋根パネル兼用コレクター、選択吸収コーティングしたコレクター、フレネルレンズを用いたコレクター、小型風力発電機などの写真が載っている。
この国際会議は前前年はパリで行われ、今回はロスアンゼルスの夏に行われた。
参加国は30カ国、1800名、発表論文は280篇、その内、日本からは20名が参加し、17篇の論文が発表となっている。
当時は石油危機の後であり、各国とも太陽エネルギー開発に力が入っていたようである。
特にナショナルポリシーとして開発体制が確立されているのはアメリカとわが国とあり、現在の世界の状況とは違っていたようだ。

また、学会誌の中で菅沼英一氏が当時の太陽電池の状況について書いてあり興味深い。
アメリカでの太陽電池の年間生産量は宇宙用として50Kw、日本では灯台および無線中継用電源として、何と20Kw、生産額で10億円ほどとある。
日本の年間生産量は、現在一般化している家庭用太陽電池の7棟分にも満たなかった訳である。

金モクセイ太陽エネルギー学会へ入ったとはいえ、当時マミヤ光機で太陽エネルギーに関する開発はしなかった。
その後も太陽エネルギーに関わる仕事を選んだわけではなかったが、学会を退会することはなかった。今の時代が来ることの、何か勘が働いていたのだろう。
今から思うと、当時の太陽電池の値段(1Wが3万円ぐらい)を知っていたからこそ、94年の補助金制度発足時に太陽電池を取り付けようという意欲が湧いたのだろう。
今、自宅に設置してある太陽電池は5.4Kwであるから、当時の金額にすると1億6000万円ほどになる。随分安くなったものだ。

現在ある家の企画をしている。勿論ソーラーハウス化であり、新しい蓄熱方式である。
当然、出来るだけ現在のローテク技術で出来る物を考えている。
そんな訳で太陽エネルギー学会誌を読み直してみている。
改めて見直してみると、これが宝の山であることに改めて感じさせられた。
「継続は力なり」と成れば良いが・・・・



私は株をやらない、と言うより知識がないのでやれないし、改めて今さら時間を割いて勉強する気もない。
その為、今回の世界同時株安の直接的な影響は受けていないが、間接的な影響は今後出てくるだろう。
自分には金だけ動かして金を儲ける生き方が、性に合わないと感じている。
いくら金が儲かる(全員が儲かるわけがない)からと言っても、それに時間を費やしている暇がないように感じている。要はセンスもないのである。蓮枯れ
金は今を生きるために絶対必要な物であるが、マネーゲームが出来ないのであれば、それ以外のこと全力投球しなければならない。
そういう生き方だけで良いのかどうか分からないが、それしかできないのだからしょうがない。と言うより、その前にマネーゲームをするだけの資金がない。
営業力も駄目だし、となると人の為になる新しい物を自分で開発して食ってゆくしかない。
勿論、そのやり方しか出来ないことがまんざらではないとは思っている。
特に今の先進国では、物を作ることより、マネーゲームで儲けられる人種の方が注目される傾向にある。
確かにそれで儲けている人間の方が高額は得ている。
但し、先日、研究の成功者としてノーベル賞を受賞した小林氏と益川氏が、文部大臣に教育のあり方に苦言を呈していたが、マネーゲームの成功者が教育論を語っても誰も聞かないだろ。
今は資本主義の世の中であり、法の許す範囲では何をしても良い訳であるから、マネーゲームも勿論正当化される行為である。
柿1013しかし、よく考えて見るとマネーゲームは社会の何に役立っているんだろうか、と考えてしまう。
人間は楽をしたい、便利でありたい、元気でいたい、安心していたい・・・・等のため文明を発展させた来たのだと思う。
それと比べてマネーゲームは社会の発展にどう関わってくるんだろうか。
マネーゲームというのは、要するに金がたくさん欲しいという欲望がそれを生み出しているだけではないのだろうか。
マネーゲームで金が儲かった場合、当然その金を使って又マネーゲームをしたくなるだろう。儲けた金が税金で持って行かれるから、という理由以外で慈善事業をするとも思えないし、マネーゲームはマネーゲームしか生まないのだろう。だからバブルが発生するのだろう。
物を作っている企業は人が幸福に感じる物を作っている(幸福感の内容がどうかはここでは論じない)。
サービスを提供している人や企業も又、人々に幸福感を与えている。
医療などはその冴えたる物であるし、農業などの食料品も正に人間の為である。
そういう人達が健全な形でいなければ私達は生きて行けない。
これらの人達は要するに他人のために仕事をしているのだ。
それではマネーゲームをする人達がいなかったら、私達は生きていけないのだろうか。否、である。生きて行ける。
もしそうだとしたら、必要のない物が社会を引っかき回していることになり、何とも理不尽な思いがするし、不合理さを感じる。
マネーゲームは要するにゲームでしか過ぎない。
枯葉1013ゲームを広辞苑で引くと、遊技、勝負事、競技、試合とある。ゲームとは、いずれにしても広い意味での「遊び」なのだと思う。
遊びというのは、迷惑の問題を抜きにすれば、他人とは関係のない行為であるはずだ。
それが経済を引っかき回し、挙げ句の果てに、それと何の関係もない一生懸命働いている人の人生までも左右してしまう、となるとゲームなどと言って放置しておいて良いものなのだろうか。
しかし、それが人類が努力して作り上げた最新の社会システムであれば、何とも手の付けようがないことでもある。
何と言っても、人間が正しいと思って邁進した結果が生み出した経済システムなのだからである。
まるで温暖化みたいだ。温暖化も特別望んだわけではない。経済を発展させ、より便利な社会を求めた結果である。
ホモ・サピエンスは一体何処へ行こうとしているのだろうか。
発達させた頭脳は何を考え出せば気が済むのだろうか。
マネーゲームとは相対的な勝負にしか過ぎないが、物作りは絶対的な勝負である。
いずれも金を稼ぎ出すための手段であるが、生きるための自己防衛という視点がなければ全ては成り立たなくなってしまう。
金の稼ぎ方はその人間の生き様、人生模様を表していると思う。
生きる美学の表現であると思う。
どうせなら格好良く稼ぎたいものだ。
(夜のニュースで「株安歯止め、東証、歴史的上昇」とあった。だからと言ってマネーゲームが終わるわけではなく、現在の危機が何とかなれば、懲りるどころか更にゲームは拡大するのだろう。)

20年以上続いている表向き異業種交流勉強会という飲み会(会員数合計8名)に参加している。現在は四ヶ月に一回ぐらいで都内に集まり、ケンケンガクガクとまではゆかないが、色々な話が飛び出し、いつも時間が足りなくなる変な会である。
前回集まった時に、時間無制限で話をするにはキャンプにしようということに成った。トンボ1012
キャンプの前日に急な仕事が入りT氏が来られなくなったが、総勢5名のキャンプになった。
キャンプの準備はほとんどH氏にしてもらったが、私も久し振りにキャンプ道具を取り出した。
焚き火が無ければ始まらないので、当然、鉈と鋸を先ず持った。鋸は倒木を切るのに無くてはならない必需品だし、鉈はそれらを燃やしやすい大きさにする為に必要だ。
それといつも自宅の暖炉で使っている吹き竹、ビールもしっかり冷やしたいという要望があったので、カセットボンベを使う吸収式冷凍機の冷蔵庫も引っ張り出した(こういう物を使わないのが本来のアウトドア生活)。卓上レンジやコッフェル等も持った。
それにプリウスを出すことにした。遊びではできるだけ車を使わないと決めてあるのだが、他の車で行くのであればプリウスの方が排気ガスは半分以下で済むし、冷蔵庫など大型の荷物もあるので出すことにした。
虫1012テントは4~5人用を二張りとしたが、私は1人用の山用テントを別に持って行った。理由は、私も大きないびきをかくらしいのだが(自分では聞いたことはないが?)、人のいびきでは全く寝られなくなってしまうため、いざという時にはそこに逃げ込む為である。
孫と山でキャンプをする為に買っておいたテントが早速役立つことになった。近年、山用テントの軽量化は目覚ましく、背負って持って行くことだけを考えるなら最軽量の物を選ぶべきだが、軽さの前に張り安さを最優先にさせて選んだ。どんな悪天候の時でもいち早く張れる簡便さの方が重要だと思うからだ。
先に酔っぱらい寝込んでしまったK氏のいびきを聞き、予定通り山テンの出番になり、予想通り簡単に張れることが実感できた。(テントはニッピンのメスナーシングルドーム)
キャンプ場に着き、先ずはテントを張り、焚き火が燃え尽きないように十分薪を集めた。
次にイワナ二匹とヤマメ二匹をゲット、これで久し振りの骨酒も確保できた。
途中で仕入れたキノコをふんだんに使った鍋もでき、議論の為の準備万端が整った。
そこから取り留めのない議論が予定通り始まり、一時過ぎまで存分に話し合った。
議論をするのはシーズンオフのキャンプ場は絶好である。時間は次の日まで無制限だし、金は掛からないし、今の時代こういう風景があちこちにあっても良いのではないだろうか。
しかし、議論をしていれば良いわけではなく、実践に移さなければどんな議論も、酒にかまけた単なる戯言に過ぎなくなってしまう。
今回のキャンプ地は塩原温泉の先で、五十里湖の北側に位置するナラ入沢渓流キャンプ場である。
我孫子から往復で410Kmばかりの距離にある。この距離全体で燃費は27.4Km/リットルであったが、高速へ入るまでの52Kmは何と31.4Km/リットルだった。さすがはプリウスだと改めて感心した。イワナ
高速へ入ってからは80~100Km/hで走った。如何にプリウスといえども100Km/hを越えると燃費はどんどん悪くなるし、その分CO2も増えるからだ。
200Kmぐらいの距離だとすっ飛ばそうと、のんびり走ろうと時間には大した差が出ないし、それならのんびりの方が燃費は安いし、安全だし、疲れないし、良いことばっかりである。
今はそんな心境であるのだが、インプレッサに乗っていた時の自分は一体何だったのだろうか、と反省しきりである。
車の運転の楽しさは至って情緒的なものであるが、燃費を節約してCO2を少なくする工夫をしながら運転することは、とても理論的である。
車の流れを滞らせないで、最大の燃費を引き出す為にアクセルワークを工夫しながら走ることは、脳が活性化されるようで何とも楽しい。
何と言っても工夫して運転した結果が数字で出ることが最も楽しい。
アウトドアというと四駆に決まっているが、既存のキャンプ場でやる程度のキャンプであるなら、二駆のプリウスで十分である。と言うより燃費がダントツのプリウスの方がアウトドア向きと言えるのではないだろうか。
もし、全ての車が少なくともプリウス程度の機能になったら、CO2の排出量の問題だけでなく、もう少しゆったりとし、落ち着いた高速道路と社会になるのではないだろうか。



まだ日程は分からないが総選挙がある。又、日本全国、幼児っぽいお祭り騒ぎが行われるのだろうか・・・・
軍国主義の敗戦から60年以上も経っているのだから、もうそろそろこの国も大人っぽい政治の国にならないとしょうがないと思うのだが。稲刈り1007
選挙の時よく聞く話は相変わらず情緒的に「△△政党を応援している」「代々△△政党だ」「○○政党は嫌いだ」というようなことである。
政党とよほど何か利害関係がある人ならともかく、そうでなければもっとクールに選挙の対応しなければこの国はちっとも良くならない。
お遊びではないのだから、国政を任せる政党は、好みなどという、いつ気分が変わるか分からないような次元で選ぶものではない。国政選挙は小学校の学級委員(現在、こういう制度が小学校にあるかどうか知らない。50年以上前にはあった)を選ぶのとは違う。
選挙とは、国家の中に身を置いている一人一人の生活と人生に大きな影響を及ぼす一大イベントである。
情緒的感覚を持ち込むなど、そんな悠長なことなどしている暇はないのではなかろうか。
政党を構成する代議員は勿論人間だが、政党と言うことになると単に我々が快適で安全な生活を送れるようにするためのシステム、又は道具、手段ということであろう。
好きとか嫌いでなどではなく、我々にとって良いシステムを選ぶのが選挙である。
いなごそれではどんな根拠でシステムを選べば良いのだろうか。
システムというものは、どんな物でも長く使っていると古くなり、疲弊してくる。まして人間により構成されて居るとなると尚更である。
そういうシステムを効率よく我々のために動かすことはシステム同士を常に緊張状態に置いておく必要がある。選ばれるために競い合い、常に切磋琢磨し合うことが必要である。そういう状態を作り出すのが選挙の一つの意味であると思う。
「今まであなた方に社会の舵取りを任せてきたが、どうも最近不備が目立つようになった。少し気合いが足りないんじゃないの。舵取り役を交代させるので、もう一度、舵取り技術を勉強し直して出直したら」ということである。
現在のこの国の選挙の風景は、まるで紅白歌合戦の投票をしている様子と何ら変わらないように見える。
政党の主張が全て自分と一致するなどということは、絶対にあり得ないことである。そんなことを一々詮索するよりも、選ばれない恐怖心を与え、次は選ばれようと努力をさせる事が最も必要である。

全てのシステムに於いて言えることは「安穏と長く続けば続くほどマンネリ化し、緊張感をなくし、覇気をなくし、まともな仕事をしなくなるものだ」ということである。その典型が社保庁であるし、農水省であるし、政党も全く一緒である。勿論これは単なる氷山の一角であり、税金生活者が動かしている全てのシステムに言えることだと思う。
多分上の二つも、自分達だけが見つかって運が悪いな、ぐらいにしか考えていないだろう。要は、そう言う中にいれば何も気が付かなくなってしまうのだ。
特に行政システムというのは、取り替えられる緊張感も生み出せないし、頭を働かせ工夫して稼ぐ必要もないし、権力により「徴収した金」が仕事をしてもしなくてもキチンと毎月支払われる、という超恵まれた状況であり、相当意志をしっかり持ってもらわないと、必要悪ということに成ってしまう。赤花1007
環境対策の面から政党を選ぶとすると、ちょっと決めかねてしまう。所詮、マニフェストも有権者のレベルに合わせて作られるのだろうから、そうなると今のこの国では、環境のことが争点に成るはずもないからである。
環境のことでは票に成らないのだ。街でのインタビューを聞いていても環境なんていう言葉は全くと言っていいほど出てこない。
良い環境あっての文明であるはずなのに、石油はそれを考える能力さえ人間から奪ってしまったのだろう。
「便利さ」という甘い言葉に酔いしれているが、それを支えているのは、文明がどんなに発展しようが地球の自然環境なのである。その基礎を無視してしまっては、社会生活の全てが「砂上の楼閣」に成りかねない。
今に至っても、環境対策がトップにあるマニフェストが出てこないで平気でいられる神経がよく分からない。
環境対策がマニフェストのトップにあり、それに基づいて社会運営を競い合う選挙が行われるなんて事は、夢の又夢なのだろうか。
今の様な選挙におだをあげている内に、石油海に辛うじて浮かぶ砂船はある日突然消えて無くなってしまうのかもしれない。
過去の文明は、樹海というエネルギー源と共に栄え、それを使い尽くすことによって滅んでいったと言われている。
永遠に栄える文明など無いことを多くの遺跡は語っている。
宇宙人に地球文明発掘の夢など与えないようにしなければならない.
そんな選挙ができる日が来ると良いのだが・・・・






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