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京都会議により2008~2012年までの期間中に、温室効果ガス6種の合計排出量を1990年に比べて日本は6%削減するという京都議定書が作られた。
しかし、ただそういう文字が躍っていてもピンとこないし、第一この数字だけでは普段の生活の中でどれだけ減らせばよいかさっぱり分からない。
1127モミジその為、京都議定書の約束を達成するためにはどのくらいの努力が必要なのか、全てを車の走行距離に置き換えた場合と、石油電力使用量に置き換えた場合を計算してみた。
日本の1990年の排出量は11億4400万トンであり、1人あたりは約9.3トンである。
2006年は13億4000万トンであり、1人あたりは約11.2トンとなった。
京都議定書を実行するとすれば、11億4400万トンの6%にあたる6864万トンを削減した約10億7500万トン、1人あたり8.7トンにしなければならない(日本はこの排出量範囲で生活するということ)。
しかし、減るどころか2006年は13億4000万トンに成り、その差は2億6500万トンに成ってしまった。
1人あたりに直すと11.2トンー8.7トンでに、その差は2.5トン=2500Kg以上のCO2を一年間で減らさなければならない(直接、間接排出量を含む)。
この数値を車の排気ガスで換算すると、例えばリッター10Kmだとすると1Kmあたり0.231KgのCO2が排出される。
そうすると2500KgのCO2分は10800Km分相当になる。つまり車の走行距離だけで京都議定書を達成するには、一年間で10800Kmを倹約しなければならない。普通の家庭で言えばほとんど車に乗れないことになる。
1127サザンカ電力で検討すると、何の燃料で発電したかによって違ってくるのだが、例えば石油火力で発電した場合は1Kwhで約742gのCO2が排出される。
これで計算してみると約3300Kwh分を一年間で削減する必要になる。普通の家庭でいえばほとんど電力が使えないということになってしまう。
この車の例は1億2000万人全員が車を持っていて10800Km分の走行を削減するということである。電力の場合は同じように乳幼児から寝たきりの老人まで含めた1億2000万人全員が3300Kwh分を一年間でカットするということであるから厳しい数値である。
しかし、もしこれだけの量を削減できたとしても、CO2が減るわけではなく、温暖化が先送りされたに過ぎないのだから事は何ともたいへんなことである。
世の中ではいとも軽々しく「ー6%」などと言っているが、こういう数字の現実をもう少し理解すべきだろう。
京都議定書の約束を守ると言うことは1億2000万人全員がほとんど車に乗れないことであり、ほとんど電力を使えないことと同じなのだ。それくらい削減する必要がある(但し、現実には車に乗れないわけではないし、電力が使えなくなるわけではない)。
そうしなければCO2の排出量を10億7500万トンにすることなどはできない。
「ー6%」は単なる流行語調子でカタログに載せたり、ホームページに書き込んだりすべき言葉ではないのだ。
個人の生活の中でCO2を削減する方法は、勿論以前からいろいろなことが言われ実行されているが、実は「ー6%」とどう結びつくのか実感としてよく分かっていないのだと思う。
京都議定書を遵守するためには、生活における明確な目標値ぐらいははっきりさせる必要があるだろう(少なくとも生活の暖冷房、給湯のエネルギー消費量ぐらいは明確にすべきでは無かろうか)。
そうじゃないと本気でCO2を削減しようなどという動きにはならない。
1127紅葉1850年以降増加傾向を示している大気中のCO2量は1950年前後からは、指数関数的な急速な伸びになっている。にもかかわらず、個人のレベルから見ていると、その実感をつかむことは難しい。
大気中のCO2量がいくら増えても空の色が変わるわけではないからだ。CO2の増加グラフを見て想像力を働かせるしかないのだ。
いずれにしても、「ー6%」を実感して実行に結びつけるのは難しいことである。
本当は、何%減らせば地球環境にダメージを与えず、これからも快適な生活が継続できるのかよく分からない。
それならいっそのこと排出量の目標値をゼロにすればよいのではないだろうか。
ゼロを目指すというのは、つまり太陽エネルギーに頼る新しい文明に作り直そうよ、と言うことである(そうすれば莫大な新しいビジネスチャンスが生まれる)。
あーでもない、こーでもないとつまらない議論をしている内に時機を逸してしまっては元も子もない。
たとえ、CO2が激増しても大した温暖化にならなかったとしても、つまり予想が外れても、CO2が充満した自然より、そうでない環境の方が住まいやすいことは間違いないだろう。
第一、化石エネルギーが枯渇したとき、太陽エネルギーに頼らない文明を探してみても見つからないだろう。
地球環境のバランスが崩れることがどういう事なのか私たちは未だに経験したことがない。
その為、大部分の人はそれを想像することもできないし、自分の生活がどうなるのか考えることもできないでいるのだろ。
それならいっそのことCO2ゼロを目指すことが手っ取り早いのではないだろうか。

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外でトイレにはいると相変わらず手ふきペーパーやエアタオルが取り付けてあることに出っくわす。
それらは経済発展と過剰サービスの申し子としていわば常識化している。
しかし、今時こんな物が常識化されていていいのだろうかといつも思ってしまう。
たかがたった一枚のハンカチをポケットから出せばすむことである。
1122紅葉それをわざわざ手を拭くためだけで捨てる紙を置いておいたり、電気エネルギーでヒーターを発熱させ、モーターで風を起こし手の水気を飛ばすなんていうのは至っておかしいと思う。
まあ、いずれもサービスのつもりなんだろうが、そんなことがどうしてサービスといえるんだろうか。
サービスと言うより、単なるエネルギーの浪費に過ぎないし、同時に、社会のモラル破壊やマナー衰退を生み出す原点の一つになるように思う。
また、これらの物は衛生的という観点から見ても、きれいな自分のハンカチと比べて、特別その存在価値があるわけではない。
もしそれを考えるなら、自動水栓や入り口のドアを全自動にすべきことが先だろう(またはドアを無くすべきだろう)。
いずれにしても出る時にドアの取っ手に触るのは余り良い気分ではないし、洗うべき手で触った蛇口のレバーをまた触って閉めるのは何とも矛盾した操作である。
手ふきペーパーやエアタオルを使うことは、どう考えても単なるエネルギーと資源の浪費(手ふきペーパーは再生紙だろうが、軽く捨て去る精神が全ての浪費を生む)としか思えない。
1122赤葉エネルギーがいくらでも金で買える時代の価値基準を引きずっている無駄遣いである。
手ふきペーパーは一枚でいいのに(本当はゼロ枚)自分の腹が痛まないからだろう、いっぺんに二枚も三枚も使う人がいる。
ただとなると必要以上に浪費する行動は何とも浅ましく、みっともない。
手ふきペーパーの使い方を見ていると人間の素性がよく見えてくる。
エアタオルで時間を掛けてじっくり乾かしている人も見かける。エネルギーの無駄使いもさることながら、だいいち音がうるさい。
ハンケチ一枚をポケットから出すだけで済むことなのに何とももったいないことだと思う。
まして手ふきペーパーやエアタオルを使ったところで、特別自分が人間として進化できるわけでもない。
今は、近年(エネルギーが金でいくらでも買える時代)常識化したことを、全てもう一度見直すべき時代である。
ハンカチを持つことは社会人としてのマナーの原点の一つであるし、身だしなみの一つであるはずだ。
そういう少し前の古くさい常識をもう一度きちんと再認識すべきである。
浪費する事が贅沢感などという時代はなんとしても終わらせるべきだと思う。
そんな感じを味わっている内に、それを支えている地球環境が破壊されてしまっては、まさに元も子もなくなってしまう。
ハンカチを自分のポケットから出さないで済ますことは、贅沢などということでなく単に「軽薄」に過ぎないということだと思う。
おみくじ手ふきペーパーもエアタオルも単に商売のために思いついた物に過ぎないのだろう。
先のことを考えず自分の都合の良いように考えて、思いついたことで行動するのが人間である。
そのことの繰り返しが社会の進化も生み出したのであろうが、それがまたCO2問題、温暖化問題、資源問題、環境破壊の問題、等々切りが無いほどの問題も生み出してきた。
これらは全て手ふきペーパーやエアタオルを作り出した動機とそれを使う心が作り出したものであると思う。
環境、資源のこと、未来のことを無視し、自分の商売のために今だけしか見ない発想がもたらしたものである。
環境、資源、未来を無視したサービスなど本来はあり得ないことである。
こういう行動をとるということは人間の人間たる証の一つなのであろうが、もうそろそろ未来を見つめる意志を持って、その証を変えるべきではないのだろうか。
意志を持って自分を変えられるのもまた人間の大きな証と思うのだが・・・・



45年ぶりに皇海山に行った。皇海山は群馬県と栃木県の県境にあり、中禅寺湖から南西に10Kmほどのところである。
なぜ今頃突然、皇海山かというと、いつか孫とテントを持って山へ行くことを夢の一つにしているため、毎月「山と渓谷」と「岳人」を取っている(本を見ているから山へ行けるわけではないことは十分わかっている)。
その中で「皇海山ツアー」というのを見つけた。
1118紅葉皇海山は45年前の昭和39年に一度チャレンジして失敗した経験がある。19才の夏である。中学、高校と一緒だったN君と二人で行った。
しかし、なぜあの時、皇海山をわざわざ選んだのか全く思い出せない。当時からメジャーなものに対してはそっぽを向く性格があったのでそれが出たのかもしれない。
当時の写真(今回のブログのモノクロの写真はその時の物である)はアルバムに残っているが、日付が入っていないので、いつ行ったのか正確にはわからない。
スカイ東武線で相生まで行き、そこから足尾線、今のわたらせ渓谷鉄道の原向で降りた。そこから庚申山荘まで暑い中を歩いたことを憶えている。今なら山の麓まで車で入るのだろうが当時は歩くしかなかった。写真を見るとニッカボッカにベロの付いた皮の登山靴、それにキスリングという出で立ちである。
翌日、庚申山に登り、鋸連峰を越えて鋸山へ、そこから皇海山を往復しするつもりであったが、それができず六林班峠から山荘まで戻った。
途中で会うのは猿と鹿ばかり、三日間で登山者には一人も会わなかった。
今回のツアーは、チャンスがあればまた皇海山へ行こうと狙っていたからではなく、全く偶然に見つけたものだ。
ツアーという人が作った計画で行動することは以前から自分の趣味ではないのだが、ツアー登山がどういうものか知りたかったことと、どんな人たちが参加しているのかにも興味があったため参加を決めた。
ツアーでなければ一生(残り時間が少ないので最近は特にそう思う)皇海山には行かれないかなとも思った。
N君出発の前日、ツアー主催の会社から電話があり、非常に冷えると思われるので軽アイゼンを持ってくるようにということであった。学生時代に使った10本爪のアイゼンは持っているが、軽アイゼンは持っていなかったので、出発当日に神保町の行きつけのスポーツ店に立ち寄り購入した。ついでにダウンのインナーパンツも買った。これで中間着用のダウンの上下がそろい、ゴアテックスの雨具の上下とで、寒さ対策はまあまあ万全になった。勿論下着の上下も透湿性能の高い物を着用した。
参加者は男性5名、女性8名の13名、若い山岳ガイドの女性とサブの若い男性の計15名のチームであった。参加者の内訳は、三十代の女性が一人いたが、残りは全員六十過ぎというジジババ隊だった。
この中にいわゆる初心者はいなかった。強いて言えば40年ばかりブランクのあった私がもっとも初心者であっただろう。
久し振りな為、かなりきつい登りと感じたたが、一言も弱音を吐く人はいなかったのには少々びっくりした。
庚申山山頂の気温は3度とさすがに低かったが、ダウンジャケットとその上にゴアの雨具を着込んだので何ともなかった。汗もびっしょりかいたが、高機能の下着のお陰で寒さ知らずですんだ。吸汗速乾下着といい、超軽量ダウンジャケットとといい、ゴアテックスの雨具といい、40年前に比べて比べものにならないくらいの進化を実感した。また、何年か前にストックを使う山登りの仕方を知ってこれもびっくりした。社会へ出てオートキャンプに明け暮れている内に登山社会が急速に進化したことを強く感じた。
登山の代名詞の一つだったキスリングはもうないし、ピッケルの柄も木製からアルミに変わったし、鍋も食器もチタンになったし、ヘッドランプはLEDになり軽量化した上に電池の消耗が激減した。バーナーも超コンパクト、超軽量になった。
登り初めは体力に多少不安はあったが、下る頃はだいぶ慣れ、バランスも良くなり、ストックは使わず無事に下山することができた。
しかし、45年前に予定通り皇海山を目指していたら、明るいうちには帰れず、ビバークの用意もしていなかったのでどうなっていたんだろうか、と考えさせられた。
あの時、皇海山をあきらめて戻ったことが正しかったことが今になって分かった。
途中着る物を含めた登山用品の目を見張るような進化は、体力が低下しつつある年配者の登山をも楽しいものにしてくれたのだろう。軽量化とコンパクト化により、より多くの荷物を背負えるようになり、より高く、より遠くへと登山の可能性を広げてくれたのだろう。
歩く機能を拡大してくれる進化は人類のプラスになる進化だと思うが、車やゲーム機など動かないですませる為の進化は、人類を破滅の方向に向かわせるものではないだろうか。
今回のツアー登山はまた山へ行くきっかけを作ってくれたのかもしれない。

フランスでは燃費の良い車を買うと18万円ばかりボーナスがでて、燃費の悪いとペナルティーが課せられると電車の中のニュースで見た。
なんでヨーロッパの国々では温暖化対策としてこのような具体策が出てくるのだろう。
この国から見ていると全く不思議な現象である。
木黄色それに比べ、この国は未来に対する理念も戦略も感じられない中で2兆円をばらまくのだそうだ。
まあ、60兆円も道路だけにつぎ込むという太っ腹な国だから2兆円程度は大したことではないのかもしれない。
一人12000円、65才以上はプラス8000円だそうだ。「ちりも積もれば山となる」の全く逆の「山も崩せばちりになる」である。
2兆円をまとめて社会のインフラに使えば新しい未来へのスタートができたと思うのだが、自分の金でないものだから平気でばらまいてしまうとは、頭の中がどうなっているんだろうか・・・・
キング牧師の番組を見た。彼の人種差別をなくそうという正義に対する意志の強さ、行動力の凄さもさることながら、その行動に対して答えたケネディーという政治家の政治家らしさも凄いものがあったと思う。
紅葉1116それに引き替えこの国の政治屋は2兆円をばらまくというのである。開いた口がふさがらないどころかあごの骨が外れてしまう。
2兆円をばらまく事が本気で良い政治だと思っているんだろうか。こんな事をしているのにこんな政治グループを支える選挙民がいるんだから二度びっくりである。
2兆円あれば近い未来にもっと投資すべきではないのか。少なくとも世界と約束した京都議定書の数値を実現するために使った方が、よほど将来の社会の為、ひいては国民一人一人のためになると思う。
次の世代、その次の世代を見据えた行動こそが政治だと思うのだが、2兆円をばらまくことが政治だと思っているんだろか。
いい年をした政治屋が集まって今時2兆円をどうばらまこうかなど相談している暇があるんですかね。他に時間を使わなければならないことがごまんとあると思うのだが・・・・
「結構この経済危機はいいチャンスかもしれないね、一~二万円ばかり全員に配れば次の選挙の票集めに絶好だし、その上もしかしたら経済対策の足しになるかもしれないし・・・・」
この2兆円のばらまきが決められる時には、こんな対話があったのではないだろうか。
紫1116鳥インフルエンザ対策に2兆円を使うべきではなかろうか。高々二万円ばかりもらったところで、パンデミック対策が不十分なため家族の一人でも死ぬようなことがあったら取り返しが付かない。
今、流行の診療拒否を見ているとパンデミックに成った時この国はどうなってしまうのだろうかと思う。
2兆円がプラスされれば、もう少しまともな対策を具体的に立てられると思うが・・・・
2兆円ばらまいても一人一人には所詮塵分ぐらいしか回らないのだから、経済効果はほとんど期待できないと思う。
鳥インフルエンザ対策に使えば間違いなく2兆円の効果が出るだろう。
鳥インフルエンザでは65万人が死ぬと言われている。2兆円をばらまかなくともまさか65万人は死なないだろう。
今更道路を作るより、2兆円を経済対策と騙して選挙用でばらまくより、先ずは診断拒否の起こらない医療システムの構築が先だろう。
目先の命対策の方が至って緊急性を要するはずだ。何でこの国はそんな常識が通用しないのだろう。
不思議の国日本・・・・・

以前から昔の日本の家には興味を持っていた。
家というのは必ずその時代その場所で最も快適に作られていただろうからである。
いつの世も快適さを求めない人間はいない。
勿論、設備機器無しでの快適さである。
1111紅葉私は土間のある家に住んだ事がないし、まして茅葺き屋根の家の住み心地は知らない。
そんな訳で、7~8年前の夏に小金井の茅葺き屋根の家に体験と温度の測定に行った。茅葺き屋根の家がどんな快適さなのか知りたかったからだ。
茅葺き屋根の家は勿論高機密高断熱などではない。それとは全く反対のスカスカツーツーである。冬は勿論床暖房をいくら入れたところで寒くてしょうがないだろうが、夏は快適であることを確認したかった。
やはり意外な結果が出た。厚い茅葺き屋根の裏側の温度が何と外気温より低いのだ。
夏の強い日差しに照らされた屋根の裏側は当然温度が高いはずと思っていた。それが1~2度低かったのだ。
多分、茅が含んだ大量の水分が強い日差しで蒸発し気化熱を奪っているせいなのだろう。だとしたら、茅は現在に類を見ない優れた屋根材と言える。現在あるどんな屋根材よりも夏の温熱環境に関しては茅の右に出る物はない。
現代の技術を工夫して屋根部の冷却を考えている家もあるが、茅の自然さに比べるととても太刀打ちできないと思う。
また、茅葺き屋根の家は日射が入ってこない。その為に室内は暗い。
現代の夏の日差しカットも考えていないただ明るいだけの家より、よっぽど考えられている暗さである。暗い事はふるい遅れた家だからではなく、快適さを追求した一つの結果の暗さなのである。
1111黄色茅葺き屋根の家には、もう一つ優れた機能を持った部位がある。土間である。土間の表面温度も空気温度よりも2~3度低い。
このように夏の茅葺き屋根の家は、まさに夏を旨とすべしを実現している。
しかし、夏を旨とすべしと言われる日本の家の基本は、なんと言っても通風であると思う。
風が通り抜け、発汗を加速し、余分な体温を気化熱として発散させることが爽やかさを生み出すのであろう。
それに茅からの気化熱、土間の冷輻射、深い軒と東西側に配置した植え込みによる直射日光などのカットで、更に快適さを作り出している。
通風の利用というのは日本人が何百年も前から利用してきた生活の知恵なのである。
もしそういう伝統を大切にする気持ちが少しでもあったなら、こんな通風を無視した、エアコンがなくては夏が過ごせない家や都市は造らなかったのではないかと思う。
現代においても風を通すということは、かなり以前から多くの人に言われてきたが、エアコンが普及してしまうと、通風で快適さを本気で考える
ことはしぼんでしまったのだろう。
現代文明はエネルギーバブルがもたらしたものである。エネルギーは金でいくらでも簡単に買える物になったため、あえて風を通す形を考えるよりも、最後にエアコンを入れて涼しくできるればそれで良いとなってしまった。
通風とは必ずしも風が通り抜けることではない。
京都の町屋は、中庭で冷やされた空気が揺れ動くことにより、小さな空気の流れを作り出し、涼しさを与えてくれるようである。
このように通風とは風を通り抜けさせる事だけではなく、体に接触している空気が動いてくれるということが大切であると思う。
逆の現象であるが、冬のコールドドラフトは完全に窓が閉まっているにもかかわらず、まるで隙間風が入って来たかのように感じさせられる。これなどはまさに自然の仕組みが空気の流れを作り出した良い例である。
1111赤実さて、茅葺き屋根の家の快適さを作り出す要因の一つである土間の冷輻射機能であるが、いくら効果的と言っても現代の家すべてに土間を作るわけにはいかない。
そこでアクアレイアーを少し冷やして土間もどきができないかと考えた。
アクアレイアーは一般的に居間を中心にした最も広い部屋に設置されることが多いため、そこが多少なりとも冷やされれば、土間もどきになると考えてみた。その為、冷水を流すことをも考えたアルミ伝熱パイプホルダーを開発した(根太間に施工できる最大のパイプ径として13Aを採用した。冷水を流すにしてもできるだけ温度の高い冷水にするためである。ここに使用する冷水は、できれば夜間の放射冷却によるものが望ましいが、深夜電力によるヒートポンプも利用できる。特に最近の床暖房熱源としては深夜電力運転によるヒートポンプが主流に成りつつある。)。
冷水を流したときの最大の問題は結露である。勿論床下に結露を発生させるわけにはいかない。結露を出してまで強引に冷やすことは、今までの発想と何も変わらず、空気を冷やすことが中心になり、部屋を閉じて外気を入れないようにしなければならない。
つまり発汗気化熱を自然にゆだねる分のエネルギーも必要になってしまう。
夏の快適さは、やはり発汗気化熱の利用が主体であるべきと思う(今の社会を作ってしまった後なのでとても通用しない場合の方が多いが)。
その為、家の中に空気の自然な流れを作るべきだと思う。そして直射日光を入れず、冷輻射と夜の放射冷却を利用する家の形が求められるべきだと思う。
そうしないと、この国にとってはお題目に過ぎないマイナス6%が更にお題目になってしまう。
建築に携わる者は面目に掛けても、せめてマイナス6%ぐらいは意識した家を作るべきではなかろうか。

あるブログにアクアレイアーについての事が載っていた。「この床暖房はあまり暖かくない」という事である。
暖房を評価する時によく言われる言い方である。短絡的にすべて暖房のせいにされるのが常である。
これは社会が物事を正確に見抜く力を養ってこなかったことと、何が重要かということを曖昧にしてきたせいであると思う。
黄色115
暖かくないと言われることは、一般的には部屋の気温が余り上がらない時である。
それでは室温が上がらないとはどういう事であろうか。
暖房については以前から何度も述べているように、部屋から外に漏れて行く熱分を補充して、ある一定の室温に保つという簡単な理屈である。
と言う事は、漏れて行く熱に比べて暖房機器から発生する熱量の方が少なければ、いつまでたっても部屋の中に熱は溜まらず、寒い時を過ごさなければ成らなないということになる。暖房が効くか効かないということもこのようにいたって簡単な理由なのである。
にも関わらず、同じ問題が相変わらずいつまでたっても繰り返されている。その場合、いつでも暖房機器が悪者にされるが、暖房機器に責任を押し付けても、実はほとんど何も解決しないのである。
家を設計する時の視点によって、生活の快適さや省エネ性、環境性は大いに異なってしまう事は自明である。
家の暖房環境は暖房設備機器が決めるのではなく、正に家の熱漏れ性能の設計(これからは太陽熱の集熱と蓄熱構造も至って重要)が決めるのである。
(但し、同じ暖房機器である床暖房は、人の体を接触させる暖房機器であるという特殊性の為、室温を暖めるだけの性能だけで判断すべきではない。)
白花115家の熱漏れ性能というのは、断熱性能の事である事は言うまでもない。断熱性能というのは勿論、壁や床や天井の断熱材の事だけではなくガラスの性能、ガラスの大きさ、サッシの性能、窓周りの工夫、空気漏れの性能などにより決まる。
それらがしっかりしていて熱漏れが少ない家であれば、ほんの少しの熱で暖房をする事ができる。
それこそ、生活していれば黙っていても出てくる照明の発熱や冷蔵庫からの発熱、それに人からの発熱だけで暖房をすることも可能になる。
それらの熱の合計が分かれば、それよりも少ない熱漏れの家を作れば(太陽熱の集熱、蓄熱構造も考えればさらに良くなる)、改めて暖房機器を入れなくとも暖かく快適な家を設計する事もできる。
今までの(今でも大部分は)設計の仕方は「エネルギーは金でいくらでも買える物」として、特別注意する事もなく家が設計されてきた。
その為、家の設計の最後になって初めて熱の漏れ具合を計算し、それに合わせて暖房機器を選択する方法を取っている。
熱漏れ量が多ければ多い成りに大きな発熱量の暖房機器を選べば良い、という事が家に対して適切な暖房機器を選ぶ設計だとされてきた。
つまり家の設計は、初めから熱の漏れ具合などは考えていない事が大部分なのである。
特に戦後からの石油エネルギーバブルの考え方がまだ続いているのである。
夕葉これから家を設計するにあたり、太陽熱を含め室内で発生している熱だけで暖房できる家を設計するとなると、構想段階から熱のシミュレーションは欠かせない。
特に床暖房を組み込む場合には早い段階でのシミュレーションは必要である。
床暖房はその設置面積が決まると、その発熱量が決まってしまうという他の暖房機器には無い特性がある。
人が体の一部を接触させるために無闇に温度を上げられないからだ。その為、床暖房の面積が決まると発熱量が決まり、その発熱量の範囲で間に合う熱漏れの家を設計しなければ成らない(それを理解している人はほとんどいない)。

初めに述べた暖かくないと言われた物件に対しては、実は熱が不足している事を前もってお伝えしておいた。しかしそれに対する対策は取ってもらえなかった。
床暖房もそうだが、これからの太陽熱時代にはますます決められたエネルギーで快適な生活ができる家を設計しなければならない。
前もって使用エネルギーの数値目標を決めて設計する手法はこれからますます必要になってくるだろう。
そうなれば今回のように住んでいる人から不満が出る事はなくなるだろう。
早くそうなってほしいものだ。

プロフィール

izena社長 前田誠一

Author:izena社長 前田誠一
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