上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


6月21日、日曜日、映画「嗚呼、満蒙開拓団」を岩波ホールで見た。
満蒙開拓団が敗戦の年の昭和20年に成っても、国から進められていたことを初めて知った。
しつこいほどの勧誘だったそうだ。
もしその誘いがなければ多くの人が開拓団として行かなかったらしい。
624白小
東京空襲が行われ、沖縄戦の組織的な抵抗が終わろうしている正に敗戦間際というのに、それでも国によって満蒙移民が奨励され、実行されていたなど全く知らなかったし、非常な驚きであった。
国が一度決めたことは、全く状況に合わなくなっても、同胞の命がどうなろうとも遂行されるという典型的な例である。
国とはこんなことまで平気でするものだと改めて恐ろしくなった。
そしてご存知の様に開拓団の人達を置き去りにしたのである。
この戦争を起こした張本人達は家族共々最優先で列車に乗り、一目散に逃げてしまったのである。
624アヤメ
軍人に限らず情報を得られる立場の人間は我先に皆そうしたらしい。
全く情報を閉ざされた開拓団の人達だけが取り残されることになった。
どうして同胞に対してこんなことが出来るのだろうか。
この国の軍隊は勿論同胞の税金で運営されているはずである。しかし、その納税者を虫けら以下に扱ったのである。
何とも酷い話だ。
その結果、多くの残留孤児を生むことになった。
にもかかわらず、2002年に中国残留日本人孤児たちが起こした国に賠償を求める集団訴訟は、賠償責任は除斥期間が経過しているため消滅している、と国の責任を認めなかったのだ。
これがこの国の心であり、仕組みなのである。

また、方正地区の日本人公墓のことも初めて知った。
松田ちゑさんという中国の人と再婚した日本人女性と、周恩来首相の尽力によって、中国方正県政府が建設したものである。
しかし、そのことが文化大革命の時、日本のスパイという口実を与え、松田さんに死刑が言い渡されることになった。
それを助けたのも周恩来首相であった。
そこに流れる明確な理念は「日本人民も開拓民も日本軍国主義の被害者だ」ということだった。
624サンショウ
理不尽にも侵略され、国土を踏みにじられた国の人が、侵略者であり、その上同胞を見殺しにた国の人を助けたのである。
何とも皮肉である。

国とは何か、を改めて考えさせられた。
国や軍隊は国民を守るためにあるのではないこと確かである。
沖縄戦でもこの国の軍隊は正に同胞を犠牲にしていった。
近年に於いても、公害問題でも、薬害問題でも、開発と称した環境破壊工事でも・・・・国は決して被害者の側に立とうとしないばかりか、単に自己保持の為にしか行動をしないことは多くの事例で示している。
所詮、人間であるからしょうがないのかもしれない。

社会の中で最も信用できないのが国を動かしていると称する組織であろう。
その組織があたかも国であるかのような顔をしてやりほうだいなのは許し難い。
責任を取る意志のない組織を持った国の未来はどうなるんだろうか。
スポンサーサイト

1975年、31才の時に日本太陽エネルギー学会に入会してから34年、やっと電気自動車元年になり、太陽電池もハウスメーカーの屋根に常備されるようになってきた。
当時の学会誌を見ると太陽熱集熱器がメインであり、1976年の6号目でやっと「太陽電池の開発について」が述べられている。当時の生産量は年産2Kw程度だったと記されているのを見ると隔世の感がある。616廟柳
太陽電池が今後のエネルギー社会の主役に成ることは間違いないだろう。
太陽からの膨大で無限に近い電磁波を、人間が使いやすい電気エネルギーに変換してくれるからである。勿論、CO2の発生はゼロである。
太陽電池はこれからの住まいのエネルギー源として本命の一つであり、新築時に太陽電池を取り付けることは常識しなければならないと思う。

しかし、いくら太陽からただで来ているエネルギーとはいえ、電気エネルギーは貴重なエネルギーであることには変わりがないし、無駄使いは許されない。
太陽電池から電気をもたらしてくれるのは、太陽エネルギーの内の光エネルギーである。
ご存知な様に太陽エネルギーは光のエネルギーと同時に熱のエネルギーも運んで来てくれている。
当然それも徹底的に利用すべきである。
現在のエネルギー事情は火力発電、原子力発電、水力発電、それにごくわずかな太陽エネルギーによる発電と地熱発電、灯油、ガスなどで供給されている。
これからの社会のエネルギー源は、勿論太陽エネルギーになる。それしか無いからだ。

太陽エネルギーの時代になると、最終的には地球規模の電力融通のネットワークが必ず必要になるだろう。
地球の半分は必ず夜だからである。
光ファイバーにより地球規模の情報ネットワークができたように、近い将来に超伝導電線による電気エネルギーの地球ネットワークができるのだろう。
勿論現在に於いても電力ネットワークはあるが、それは大規模発電所から個々の家庭に配るためのものであり、これから必要なネットワークは個々が発電所であり、同時に消費者である為のネットワークである。

616紫陽花地球には休むことなく太陽エネルギーが供給されているのだが、気ままな雲のシャッターが閉じたり開いたりするため、その度に到達エネルギー量が変動してしまう。その為、どこの場所でもコンスタントにエネルギーを得ることは出来ない(これが欠点のようによく言われるが、今までのように化石エネルギーを必要なだけいつでも買って来られるという視点から見れば欠点のように見えるが、視点を変えれば特別欠点ではない。単にシステム構成の問題である)。
今までの買うエネルギーでは、いつでも金を出せば必要なだけ買えるので、こういうことは当然起こらない。エネルギーとは自分が買うか買わないかの話であって、他人が必要としているエネルギーのことまで考える必要がなかった。
風力なども含めた太陽エネルギーの時代になると、エネルギーという物は「他に融通するもの、他から融通されるもの」という新しい概念が必要に成らざるを得ない。
雲が無く晴れている地域や風が吹いている地域からエネルギーを融通してもらわないと、太陽エネルギーの社会は成り立たない。つまり、エネルギーを融通しあう助け合いの気持ちが絶対的に必要になってくる。

これからの家は、先ずは徹底的に買うエネルギーを使用しないで快適に過ごせる家を設計することが不可欠である。
太陽エネルギーの社会とは太陽電池だけを利用すれば良いわけではない。
太陽からの熱エネルギーの利用無くして太陽エネルギーの社会は訪れないだろう。
特に暖房用熱エネルギー、給湯用熱エネルギー、調理用熱エネルギーの全てとは当面行かないまでも、必要な全ての熱エネルギーは太陽熱に置き換える努力はするべきであろう。
成せば成る、成さねばならぬ何事も、である。
つまり太陽電池を屋根に載せる必要はあるが、載せさえすればそれでソーラーハウスになるわけではないし、それだけで未来に対応できる家になるわけではない。
いま作らねばならない「良い家」とは、太陽熱エネルギーを最大限利用できるように工夫された家のことであると思う。616アヤメ
生活の熱エネルギーを出来るだけ自前することを目標にデザインされた家のことである。
「良い家」とは、これから訪れるエネルギーを融通しあう社会に通用する工夫の一歩が印された家であろう。
エネルギーを自前する為には、先ず、エネルギー消費の徹底的に少なくした家を設計せねばならない。

今の時代に、これから家を建てようという時、その家が存在するこれからの社会がどうなって行くのか考えないで設計するわけにはいかないだろう。
今だけでなく未来の時代でも「良い家」でなければ成らないからだ。白紫アヤメ
時代が激変している中で、相変わらず今までの価値観だけで物事を考えるのは、何とも今に生きている人間としては大人っぽくない。
先日、テレビで200年住宅が報じられた。単に強度と耐久性と間取りの変更と設備の交換という、単純な発想で何ら新規性は感じられなかった。
これからの良い家は本当にそれでよいのだろうか?
本当に設備だけ交換できたり、間取りが変更できるだけ良い家になるんだろうか?
そんな程度の発想だけで200年先の未来まで存在できる家といって良いのだろうか、と思ってしまった。
エネルギーのことは何も言っていなかったが、その視点に革新が無くて未来の家が成り立つはずがない。
設備や間取りの未来は分からないが、それに比べればエネルギーはかなり明確である。CO2の出るエネルギーからCO2の出ないエネルギーに変えなければならないからだ。
何故なら、万が一温暖化の問題がないにしても、CO2を吐き出すエネルギーはいずれ無くなってしまうからである。それもそんな先ではない。
200年住宅の屋根に太陽電池が乗っていいるのかどうか言わなかったが、これからの家は最低限の設備として太陽電池は絶対必需品である。
しかし、太陽電池を載せたからそれで良いわけではない。
それだけではこれからの時代に対応できるわけではないと思う。
太陽電池を載せれば万々歳というほど、そんな安易に時代は認めてくれないだろう。紫アヤメ
今、私達が居る時代はエネルギー革命の時代である。
薪から石炭へ、石炭から石油へ、そして原子力へ、そしてそれらのエネルギーから太陽エネルギーへと変換しようとしている時代である。
太陽エネルギーよりも更に良いエネルギーは無い。
今は人類最後のエネルギー転換革命が始まった時代なのだと思う。
人間は、エネルギーをコントロールする術を獲得したことにより、人間になり得たことを考えると、エネルギーの大変革は人間の有り様、社会の有り様を大きく変えることは当然であろう。
人間の未来社会を見つめるためには、先ずその大基盤となる「エネルギー」の視点を明確にしなければならない。それも、今回は特にCO2も危険な核廃棄物も出さないエネルギーの利用ということである。

CO2を出さないエネルギーの未来社会をに燃料電池は欠かせないだろう。
何故なら、電気エネルギーを得るために、炭素を含まない純粋な水素を原料として使うからである。白赤アヤメ
しかし、最近どうも家庭用燃料電池(ここで言っている燃料電池はガス会社が出している物のことではない。ガス会社の燃料電池は炭素を含んだガスから水素を取り出しているため、その時点でCO2は必ず出てくる)の立場が微妙になってきた。
いわゆる蓄電池の進化が著しく、太陽電池からの電気で水を電気分解して水素を取り出し、それを燃料電池に供給して電気に変えるよりも、太陽電池からの電気を電池に直接溜めた方が早そうだ、ということに成ってきたからだ。
しかし、連続的に電気を取り出すとなると、水素を供給し続ければ電気が取り出せる燃料電池の方が圧倒的に使いやすいだろう。
いずれにしても電池の進化は車の進化に左右されることになるだろう。
車は自分で必要な量のエネルギーを持って走るのだが、その供給も考えなければならない。
単に供給することを考えると、水素を必要とする燃料電池システムより、どこにでも有るコンセントから簡単に電気エネルギーを補充できる単なる蓄電池車の方が普及しやすいことは明確である。リチュームイオン電池が使えるようになってきたため、先ずはそれを使った電気自動車が先攻することになった。
勿論ハイブリッド車は既にあるが、走行するためのエネルギーの全てから全くCO2を出さないで済ますことが出来るのは電池自動車である。
そういう意味では今のハイブリッド車は過渡期の車と言えるだろう。
ガソリンの代わりに水素エンジンを積んだハイブリッド車が出ればCO2ゼロに一応は出来るが、それなら初めから燃料電池だけを動力にする電気自動車の方が良いだろう。
現在に於いてハイブリッド車はその存在価値は顕著であるが、ゆくゆくは無くなって行くのだろう。
生活の中でも、産業の中でも非常に大きな位置を占めている車もこんな風に急速に変化しつつある、となると「住まい」もそれなりに大きな変革を求められることになるだろう。

5月5日、今回の旅の最終日である。網野宅急便センターまで17Kmの予定である。丹後半島コース4*
最終日はいつでもこんな余裕の持てる距離にしている。トレンクルをまた箱に入れて送らなければならないことと、列車の指定券をあらかじめ取ってあるので、それに合わせなければならないからだ。間際になって慌てないように、時間に十分な余裕が持てるようにしている。今さら何事も焦ってしたくないし、特に折角の旅では尚更である。また、旅も四日みになると多少疲れも出るし、帰ってからの仕事のことも考えておかねばならない。年には勝てない。
「カサデファンタひさみ」の出発時は快晴であった。
例のごとく宿の玄関で写真を撮ってもらった。後ろ53
出発して少し上りながら2Kmぐらい走って犬ヶ岬トンネルに入る。
トンネルを抜け右手に海を見ながらのんびりと走る。
時間があると思うと特に気楽である。
海岸線から少しは行って、丹後古代の里資料館に立ち寄る。竪穴
連休で混んでいるのかと思いきや、がらがらで私達以外に一組の家族が見学しているだけだった。職員が何人いたか分からないが、みんなかなり暇そうにしていた。丹後半島という歴史的にも特別な地の利であるなら、もっと楽しく知ることが出来きる資料館が有っても良いと思うが、特別面白くも楽しくもないと思われているために人が集まらないのかもしれな。
役所の仕事場確保のための建物なら、勿論ない方がよい。
ついでに、二日目の天橋立に向かう途中、大きなタモの木の横に写真のような看板があった。看板53樹齢三百年を越すとみられることと、宮津城との位置関係が明記されていた。
それに、国道工事が昭和42年に行われるとき、この木が伐採されることになっていたが、助命嘆願がなされ、当局に認められ工事が変更されたことが書かれていた。
また、平成2年に、この木の下を下水道工事が通ることになり、枯れる恐れがあるため、関係者の努力と当局の配慮によって水路を迂回させたことが書かれていた。地蔵53
当局にへりくだっている文章の書き方であることに、非常に違和感を覚えた。
この事実は単に現地の実情を調べず、机上で計画して、押しつけているやり方をするから発生したことである。それをへりくだって陳情して、当局に変更していただいたなどという書き方はいかにも日本人的である。いまだにこんな感覚が残っているのは全く情けない。地蔵253
「当局」とは、市民が税金を出資して作った、市民に対するサービスシステムである。
「当局」で働いている人達、つまりサービスマンは市民のためになる仕事をして、その見返りに市民の税金から給料をもらっているのである。市民があって初めて当局があるのであり、当局があって市民があるのではない。
伊根の舟屋地区でも護岸工事が行われているそうだ。景観が損なわれるし、実際上必要がないとして反対している人も多いらしい。藤53
税金で生活している以上、何か仕事を作り出さなければ立場がないことと、土木工事を増やしたい事情があるのだろう。
目先の金のために、自分だけの立場を守るために、未来を無視する創造性の欠如したやり方は絶対に止めねばならない。

案の定、最終地網野に着いたら大分時間が余っていた。先ずは網野駅を確認し、トレンクルを送る宅急便センターを確認し、地場産業振興センターを見学、網野神社に自転車で無事走れたことを感謝した。
トレンクルを送り返し、網野駅前の喫茶店エス・パニスに入った。その中のお客さんに、野村監督と高校時代野球をやっていた人がいた。
網野は野村監督に出身地なのだ。こんな偶然も旅の楽しい醍醐味である。
16時2分発のエクスプローラー4号に乗り京都に向かった。
京都からのぞみ48号、我孫子に着いたのは10時半頃だった。
丹後半島の旅、合計走行距離120Km。

プロフィール

izena社長 前田誠一

Author:izena社長 前田誠一
FC2ブログへようこそ!

ブログ全記事表示

カテゴリー

リンク

人気BLOGランキング

ランキング人気 20070719115222.gif にほんブログ村 環境ブログへ

月別アーカイブ

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

ブロとも申請フォーム


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。