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64回目の終戦記念日(敗戦記念日)が過ぎた。その日、私は1才と3ヶ月ちょっとだった。だから、戦争の本当の悲惨さは知らない。戦後の貧乏な生活も思い出せばそうだったかな、という程度であり、戦争の悲惨さに比べれば天国だった。827白花
鞍馬天狗や丹下佐善がヒーローであり、まだ戦艦大和やゼロ戦が英雄だったし、まだ軍艦マーチを初め軍歌も歌っていた。戦争が終わってから、そんな幼年時代を下町で過ごした。
小学校の社会科でも、中学の日本史でも近代史はほとんどはしょられた。ましてや、つい最近終わった戦争は何だったのかなどということは、全く考えるチャンスを与えられなかった。
戦争について、特に軍隊について意識するようになったのは中学時代になったからである。戦争が終わってから10年以上経ってからだ。
沖縄戦の実情をうっすらと知るようになり、なぜこの国の兵隊は自国民を守ろうとしなかったのか、疑問が次々と沸いてきた。
何故あの戦争(大陸侵略と太平洋戦争の二つ)は起こったのか、特に全てに於いて差があるアメリカとどういう根拠で戦争を始めたのか、精神論で本当に本気で勝てると思っていたのか。
827赤花今回の戦争はどうして起きたのか。誰が始めたのか。何の目的で始めたのか。何を目指したのか。その目標にどういうプロセスで到達しようとしたのか。
何故「天皇陛下万歳!」だったのか。
同胞である兵隊の人間性を何故ああまで無視し続けたのか。
勝算をどう考えたのか。勝算に誤算が生じた時、どういう対策を立てようと計画していたのか。
大変なエリートと称された者達が集まってたはずの軍令部と参謀本部は、何故、稚拙な作戦を繰り返し、多大な犠牲を強いたのか。
何故その都度その都度作戦の結果を分析し反省が出来なかったのか。
何故、嘘の情報を流し続けたのか。
優秀というのが引っかかる。この戦争は優秀な人間達が行った行動である。しかし、優秀な者達がやった行動とは思えない。
今も優秀な官僚という言葉がよく使われる。その優秀と軍国時代の優秀とは何が違うのだろうか。同じに見えるのは私だけなのだろうか。
人間とはどうして戦争をするのか。戦争とは一体何なのか。誰が始めるのか。今の年になっても疑問だらけである。

私の父は北支事変にかり出され、その後ビルマに行かされた。そしてご存知な様に兵站を無視された無謀な作戦で、多大の犠牲を払い、その上成果も上げられず敗退した。
何故、全ての作戦に予測という行為が含まれていなかったのだろうか。
何故、優秀であるはずの軍令部と参謀本部の超エリートの能力には、「予測する」という想像力が含まれていなかったんだろうか。
927屋根何故、前線部隊の実力も状況も把握していない机上の空論作戦だったのだろうか。
父はビルマで終戦を迎え、イギリス軍の捕虜になったのだそうだ。部隊名は忘れたが、父はほとんどが戦死と書かれた部隊の名簿を持っていた。
そのことについて父が説明してくれたことがあった。戦って死んだ兵隊なんかほとんど居ないということだった。戦死と書かれた大部分は病死、餓死、溺死などであったらしい。華々しく戦って死んだのならまだしも、これでは何とも浮かばれない。
退却した道路はウジ虫街道になっていたらしい。
こんな戦争を、こんな作戦をどうしてこの国の超エリートは始めたのか、立てたのか不思議でならない。

そんな中、2009年8月9日総合テレビで21時から1時間放送された「日本海軍 400時間の証言 第一回 開戦 海軍あって国家なし」、8月10日22時から1時間「第二回 特攻 やましき沈黙」、8月11日22時から1時間「第三回 戦犯裁判 第二の戦争」を見た。
これを見て多少なりとも納得させられたことがあった。
それは何故、国が戦争をするのに海軍と陸軍が命令系統の一本化どころか,予算の分捕り合いなど合理性のかけらも無い行動を取りあったこと、稚拙な作戦を立て続けたこと、敗戦を認める決断が出来ず、無意味に時間を費やし、多大な犠牲を自らの手で作り出したことなのである。
827水草それらは全く国のこと、戦争のことを考えないのと同じことである、と思っていた。
それが「日本海軍 400時間の証言」み納得し、合点がいったのだ。
「海軍あって国家なし、陸軍あって国家なし」、だったのである。
勿論、国という意識もなければ,国民という意識も無かったのだ。
海軍も陸軍も自軍達のこと以外は何も考えていなかったのだ。そうであれば彼らが取った全ての行動が理解することが出来る。稚拙な作戦は、井の中で周りとの相対関係だけを意識し、外を少しも見ようとしなかったからなのだ。
エリートが集まってやったことはそんなことであったのだ。
こういう体質は、まるで今の組織も同じように見える。何も体質が変わっていないように見える。

戦争をやるなら国の総力を挙げてやるのが当然だと思うのが普通だろう。
それに国民が払った税金で維持している軍隊は、当然、命をかけて国民を守るのが普通と思うだろう。
職業軍人ならいざ知らず、赤紙一枚で徴収された兵隊は、兵隊という名前を付けられた一般市民に過ぎない。
当然、父母がいて、妻がいて,子供がいて、恋人がいて、兄弟がいて,友達がいて・・・・であれば、そういう人達の人生を出来るだけ大切にすることも,広い意味では国防に属することだろう。
しかし、この国の軍隊はよりにもよって勝つことよりも死ぬことを求めたのだ。破滅することをあえて求めたのだ。
にもかかわらず、エリート達は自分達の立てた稚拙な作戦の最前線に行かず、多数が生き残った。よりにもよって、後に国会議員にまで成った者まで居る(これは選挙民がアホなために起こったことである)。
827茶室
日本海軍・陸軍はこの国のことより自分たちの立場、面子、組織を国民の犠牲の下に全力で守ろうとしただけだったのだ。随分酷い話である。それをエリート中のエリートと称される人間が企画し、実行していったのだ。
要するに組織と組織の中にある自分の保身である。それに国民は付き合わされたとも言えるのではないだろうか。
そして自身の維持も、組織の維持も出来ずにその寄るべき国をも滅ぼしてしまったのだ。随分くだらない話であると思う。
ガン細胞は自身を増殖させることによって、存在の前提である宿主を殺してしまう。何だかこのパターンとそっくりである。
この戦争は、組織というものが一旦できると、その組織だけが有利に維持できる事だけを考えて猛進することを教えてくれたのだと思う。
それを知るには余りにも莫大な貴い犠牲が強いられた。
しかし、それらを反省することもなく、今も「組織あっての国民なし」という意識で運営されているのではないだろうか。組織の暴走は日本海軍・陸軍に限った事ではない。

8月15日を二度と経験してはならない。
都合で少し時期外れになってしまったが書いてみた。
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1957年に人工衛星が打ち上げられてから太陽電池に興味を持つようになり、1975年に太陽エネルギー学会に入会、1994年、自宅に5Kwの太陽電池を取り付けた。
太陽電池は人類の未来にとって最も重要なシステムの一つであることは間違いない、というより人類の運命を決めるシステムであると思う。814トンボ
最近、エコ住宅ということで屋根中に太陽電池を載せた住宅が増えてきた。
また、燃料電池と称して宣伝がかなり行われている。
これらが一般住宅に入り込むなどということは、本当に時代が変わったと思う。まさに隔世の感がある。
これからの住まいを考える上で、太陽電池も燃料電池も最も注目すべき重要な設備である。
しかし、太陽電池を載せれば、それでCO2問題、環境問題が全て解決するわけではない。
現在宣伝している燃料電池を取り付けさえすればそれで済むわけではない。
ましてや「省エネ家電」と称する家電に買い換えればそれで旨く収まるわけではない。
屋根に太陽電池を載せ、エコハウスなどという付け焼き刃的な発想では、快適な環境は訪れないと思うし、住宅業界のビジョンが見えてこない様に感じる。
家その物の形の変化が見えないからだ。今の家はどこもほとんど相変わらずであるように見えるからだ。
太陽電池や省エネ家電、燃料電池(注----今、家庭用として宣伝されている燃料電池は本来求められている燃料電池のシステムではない。いわゆる都市ガスから水素を分離して使用しているのであり、本来、水を分解して取り出した水素とは違う。水を分解し水素を取り出した残りは酸素であるが、炭素と水素と酸素で構成されている都市ガスを分解して水素を取り出すと、残りは炭素Cと酸素Oであり二酸化炭素CO2が当然発生する。そのことは意図的にほとんど述べられていない様に思える。しかし、バイオから作られるアルコールから水素を取り出す燃料電池システムは環境に優しいシステムであると言えるだろう)等を取り入れるという発想は、多少の補助金もあることだし、至って安易な発想に見えるのは私だけなのだろうか。
814花1住宅業界は、その前にもっとしなければならないことを忘れては居ないだろうか。
肝心の家その物は今まで通り何も改善させることなく(多少断熱性能は良くなった程度)、太陽電池や省エネ家電、CO2を排出する燃料電池などを設置することでお茶を濁しているだけではないのだろうか。
社会の中における電気エネルギーの重要さを考えた時、これからの個人住宅はどう有らねばならないのか、本気で住宅関係者は考えて居るんだろうか。
買うエネルギーではなく、出来るだけ自前するエネルギー(太陽エネルギー)にして、生活からのCO2排出を出来るだけ少なくするという意気込みがほとんど見られないし、感じられない。
私達が比較的簡単に使える太陽エネルギーは、ご存知な様に熱エネルギーと光(照明)エネルギーが有る。
太陽電池は、勿論、光エネルギーを電気に変換する物であり、それを取り付けさえすれば太陽エネルギーを利用したことになる事は間違いないのだが、何とも安易に見えるのである。太陽電池は住宅とは関係のないメーカーが努力をして作り上げた物に過ぎない。それを今までの住宅に単に載せるだけで住宅業界は何も努力しないで良いのだろうか。
住宅関係者としてのプライドはどうなって居るんだろうか。
現在、太陽電池は、あたかも個人の物であるかのような立場に位置づけられているが、本当にそうなんだろうか。それで良いのだろうか。
来るべき社会でそれが成り立つのだろうか。多分、否!である。
太陽電池は日本社会のインフラである。基本的には個人が設置すれば済む物ではない。
何故なら、電気が売れるシステムに成っているということは、既に太陽電池で作られた電気エネルギーが社会性を持っているということである。
少なくとも私の自宅で発電し、買電された分は他の家庭で消費されたのであり、その分、化石燃料の使用が少なくなったことを意味する。
それは取りも直さず石油の輸入量が減ることであり、国家予算、つまり税金の支出が減ることである。
にもかかわらず、太陽電池を屋根に載せようという時、ペイするかしないかなどとトンチンカンな議論が相変わらず知ったかぶりをした顔で行われているのは、何とも耐え難いことである。814苔1
太陽電池の社会を成り立たせるためには、出来るだけ太陽電池に頼らなくてもCO2の発生量が少なく、快適な生活が出来る住まいを作ることが先ずさきにやるべき事である。
その努力無しに太陽エネルギーで快適に過ごせる社会を作ることは出来ないと思う。
住宅業界が今やらなければならないことは、バカでも出来る太陽電池を屋根に載せることなどではないと思う。
住まいに降り注ぐ太陽熱エネルギーをとことん制御し、利用する住まいの設計に全力投球すべきである。
先ずは、出来るだけ電気エネルギーに頼らない住まいと街を作るべきである。
それが出来て初めて太陽電池の存在が意味を持つようになるのではないだろうか。
電機業界が作った太陽電池を設置することでエコハウスなどとお茶を濁して居ては、住宅関係者として名折れではないだろうか・・・・

携帯用の単三エネループに充電できる太陽電池式の充電器を手に入れた。
サンヨーの純正ではない。アメリカ軍も採用しているらしい。
折りたたむと巾143mm、高さ85mm、一番厚いところで35mmである。重さは110g弱である。それに単三エネループが4本は入り同時に充電できる。
晴れた日には8時間ぐらいで充電できるらしい。
勿論、インターネットで見つけた。開いた

現代は、非常に便利な物が増えたが、ほとんどの物は電気がなければ動かない。
最近は携帯電話にも太陽電池付きの物が出て来ているらしいが、太陽電池を組み込んだ腕時計や電卓以外の物には必ず電池が必要である。
そして電池が切れれば全く使い物には成らず、ゴミくずになってしまう。

きぅり小学校の時、家にあったコダックのカメラは電池などいらなかったし、確か、リコーの物だったと思うが、ゼンマイドライブのカメラも電池はいらなかった。昭和44年に買ったアサヒペンタックスSPは小さな水銀電池が必要であったが、電池が切れたからと言って写せないわけではなかった。単にTTLの露出計が使えないだけで、写真を撮ることは出来た。
フィルムを手動で巻き上げることによりシャッターと絞りを動かすエネルギーをチャージすることができたからだ。
現在のデジタルカメラは、電池が切れれば正にうんともすんとも言わなくなりどうにもならない。
カメラであれば「撮れなかった!」で済んでしまうが、非常時のために持って行ったGPSやヘッドランプや携帯電話の電池が切れてしまったら、それこそ命取りになってしまう。
いくら安全を確保するために持って行っても、それがどんなに高性能で高級な機器であっても電池が切れればゴミを持ち歩いていることに等しくなってしまう。たたんだ

たまに山へ行く時にも予備用の単三と単四電池を、各々四本ずつほど持って行くが、それでも万が一道に迷って電池が切れてしまったらと思っていた。
太陽電池式の充電器を手に入れて、これでやっと間違いなく有効利用が出来るようになった。
しかし、この太陽電池式の充電器は単三電池用のフォルダーしか付いていないため、単四電池は充電できない。その為、単三型のケースも購入した。これでヘッドランプも携帯ラジオも電池切れで使えなくなる心配がなくなった。
トレンクルで旅に出た時、山へ行った時、GPSの便利さには何とも感激する。便利で信頼している機器ほど、それが機能しなくなる恐怖(少し大袈裟・・・)が大きいが、そこからやっと解放された。なす花

この様に、現代の持ち物の中に太陽電池が加わると状況が一変する。電池が切れたらお仕舞い、ということから解放され、何時までも使えることになる。
「電池切れ」という今までの常識からの決別することができる。
勿論、それらの機器に寿命があるから永久とはいかないが、電池にチャージされているエネルギーに比べれば半永久に使える能力を獲得したと言えるだろう。
こういう見方は携帯用の太陽電池だけの話ではない。現在普及しつつある一般住宅の太陽電池も同じ事が言える。
電池地球にチャージされている石油などの化石エネルギーやウラン等が底をついても(いずれ間違いなく消滅する)、太陽電池さえあれば今まで通り、生活にエネルギーを供給することがは可能であり、安全と安心を確保することができる。
但し、それらを使い切るような政策を選んだなら、それらが無くなるずっと以前に私達が住める環境は破壊されてしまうだろう。
この様に、太陽電池、つまり太陽エネルギーは山などへ行った時の安全性を確保してくれるという小さなシステムにとどまらず、私達の住める快適環境を、太陽の寿命がつきるまで安全に確保してくれるのではないだろうか。
(購入先 富士ファインケミカル(株) http://fuji-fine-chemical.p-kit.com )

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izena社長 前田誠一

Author:izena社長 前田誠一
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