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一昨日、猪瀬副知事が枝野経産相に電力市場の改革を求める文章を手渡したというニュースが流れた。

その中で二人の主張が大きく変化している部分があった。
新規参入した電力事業者が、送電網を「借りる」際に、電力会社に支払う「託送料」をもっと割安にすべきだ、という発言である。
二人とも以前は盛んに、送電と発電は分離すべきだと言っていたはずだ。
それが突然分離しない方向に変わった。
至って重大な変節である。
二人とも、分離すると言っていたのは単なる政治的なポーズだったんだろう。
現状を維持したい何か大きな力が働いているんだろう。
いずれにしても、この国の政治家は寄るべき哲学も、理念も、信念も持っていないことが、また明らかになった。
たまには、一度言ったことぐらい物にして見ろよ!と言いたい。
昨晩のNHKに出演した総理も、非常に曖昧に、最終的には脱原発を目指す様なことをいっていたが、勿論、どれだけの時間が掛かるのかについては、一言も言わない。
多分、時間に触れないで、そう言っておけば良いだろう、ぐらいにしか考えていないのだろう。
当然だが、安全については、その内容がきちんと知りたいのに、相変わらずただ安全と言っているだけだ。
「ワン!」と言うと犬が「ワン!!」と言うのと一緒だ。
今更政治家の言う事を誰が信用すると思っているんだろうか・・・
新規参入電力会社を30%まで上げてもらいたい、と言っているのも至っておかしい。
自由競争と言いながら、30%に限定するのは、今まで通り東電を巨大のまま「送電」も「発電」分離せず残す訳である。
全くこいつらは何を言っているのか!と言う気分である。
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今まで行ってきた目先の経済活動が、金を動かす量は増やしたが、それにより必ずしも社会を良くして、国民を幸せにしてきた訳ではないにもかかわらず、この国は相変わらずその経済活動だけを継続しようとしている。
その為、その危険さが明確になったにもかかわらず、自分たちの都合の良いように、いい加減にでっち上げた、想定条件で作られた原発を懲りもせずまだ動かそうとしている。

4月30日NHK総合AM8時20分~9時5分に「キミたちの未来 僕たちの選択~時任三郎 世界エネルギーの旅~」において、脱原発を目指しているドイツと、風力発電を選択したデンマークと、世界で唯一の核廃棄物処理施設を作っているフィンランドの事情が放映された。
ドイツではシェーナウの町でウルズラ ・スラーデックさんの脱原発に取り組んだ経緯が語られていた。
彼女はシェーナウで市民による独自電力会社設立の中心人物である。
切っ掛けは1986年のチェルノブイリ原発事故である。
シェーナウの町も放射線に曝された為、母親として立ち上がり、市民による電力供給会社を作り、送電網の買い取りまでやった。(http://www.youtube.com/watch?v=QPgUskB9L4I)
古い美しい家並みの屋根には太陽電池取り付けられていることがとても印象的であり、同時に、人間の生活にとってエネルギーの自前が最も大切だという強い自覚が感じられた。
差し詰め日本で言えば、白川郷や大内宿、美山町の茅葺き屋根に太陽電池を取り付けたような物である。
そこまでしても、生活に必要な電力を原発に頼らず、自分たちの力で何とかしようという意気込みが伝わってきた。
(太陽電池とは日本でもおなじみの、あの長方形のパネルである。ある建築関係の人から「あんな格好の悪い物は使えない」という言葉を聞いたことがある。その人は、勿論、外から見た形以外に、エネルギールギーと住まいのことなど考えた事があるとは思えなかったが・・・・太陽電池は、太陽からの電磁波を直接エネルギーに変化する自然が生み出した光合成に近いシステムである。人類が初めて自然の原理に近づけた技術である。これはこれからの技術の先駆けとなる技術であり、格好が悪いなどというレベルの評価で切り捨てるべき物ではない)
意識の大きな違いを感じた。
現実をしっかり見つめていることを感じた。
この違いの差は何で起きるんだろうか・・・教育なんだろうか、歴史が培ってくれた人間力の差なのだろうか・・・・
生きて行く為の認識の差なんだろう。
原発による電気はいらない、でも電気は必要だ、それなら必要な電気は自分達で作る、
至って当たり前の、常識的な発想が素直に成されている様に思えた。
原発は反対、しかし、身銭は切らないで省エネの生活をする、一見最もらしいく聞こえる。しかし、それでは説得力はない。
ドイツとこの国の差は、そんな行動力、実践力、快適な生活の追求力、人生を楽しむ力、未来を思いやる力の差であるように感じた。シェーナウの町の実情で見る限り、少なくとも、未来を考える力と自然へのダメージを思いやる心に於いては大和民族よりも、ゲルマン民族の方が数段優れているのではないだろうか。
社会の大変革期を迎えた時に力を発揮するのは、その国の人達の本当の人間性と人間力なのではないだろうか・・・・

デンマークでは1978年、原発賛成意見と原発反対意見を同数を両側に併記し、其れを国民に判断させた。
そして、自然エネルギーを選択した。
どうして同じ人間でありながら、その人間達が形成している政治や行政がこうも違うんだろうか。
この国は原発を採用し、増やして行くために、国民の判断どころか、泥棒ネコのように、こっそりと出来るだけ誰もが気が付かないように欺しながら進めて来た。
其れを進めた政治家、官僚、特に司法(自分たちの頭で思考をすることもなく、行政の行うことを無分別に追随し、国民を欺き続けた罪は至って重い)、業界こぞって税金の甘い汁を出来るだけ国民に気付かれないように吸っていたのだ。
そして事故を起こし、多くの人が悲惨な目に遭ってるという最中に、根本的な原因追及や、この国が全力を出すことによって出来る対策を検討することもなく、電力が不足し大変なことになるという脅しだけを最優先しているように見える。
未だに現状維持をして甘い汁を吸おうとしているのだろうか・・・・
これは人間力の差と言うことでは言い表せないほどの差である。
明治維新から始まった、欧米に追いつき追い越せということは、単なるかけ声だけで、人間力においては益々その差を広げられるばかりであるように見える。
多少技術力があるぐらいで、人間としての総合力では差を付けられる一方であることを感じない訳には行かない。何とも情けない。

フィンランドの原発事情も唸ならされるばかりであった。
先ず、原子力発電所内に、其れを持っている電力会社の本社があることである。
勿論そこに社長室が有り、社長がいて、社員が居るのだ。
正に仕事に対しての真剣度が違うのだと思う。
経済的な合理性から言っても正解なのだろう。
何故、同じ人間でありながら、同じ経営者でありながら責任に対する考え方、対処の仕方がこうも違うのだろうか。
此処でも何故、こんなに差があるのだろうか。
原発を採用すると決める第一の条件は、廃棄物の処理方法を決めることであるとし、現在考えられる最適と思われる核廃棄物の処分場と処理方法を同時に決め、その工事をしながら原発を建設したのだ。
現在の情報化社会に於いて、電力会社の本社が東京や大阪などにある必要はない事など明らかである。
原発の敷地内に本社があった方がよっぽど合理的なのだと思う。
フィンランドは絶対に事故は起こさないぞという意気込みが感じられる(それでも原発は反対だが)が、この国の電力会社には、余りにも多くの隠していたことがばれてしまったこともあり、責任感や安全性を最優先しようという意気込みなど全く感じることが出来ない。

しかし、どんなに安全対策を考えたとしても、全てを見通して、全ての安全対策を人間が取れない以上、絶対に事故を起こしてはならない原発に存在理由は無い。ましてや超地震大国であるこの国には、採用すべきシステムではない。
電気は何ででも作れる。特に今となってはその可能性は急拡大している。
わざわざお湯を沸かす理由だけで、核分裂を利用する必要など微塵も存在しない。
今から50年後には、寿命からして原発は存在していない。そんな先が見えたシステムであるなら、さっさと捨て、一早く新しい社会の構築に全力を投入すべきである。
戦争によって完膚無きまでに壊滅させられたインフラの中で、日本人は立ち上がった。
それに比べれば、現在の節電しなければならないかも知れない状況など、たわいもないことである。

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