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子供達とよくキャンプに行った。キャンプは人間の生活の原点に近い行為である。キャンプ生活をすると実際の生活で何が必要なのかがとてもよく見えてくる。キャンプといえば先ずテントであり、焚き火である。テントは夜露を防ぎ、雨風や寒さから身を守ってくれる必需品である。いつでもそうだが、テントを張り終えその中に入った時のあの安堵感は何とも言えないものがある。たった1枚の布に過ぎないテントだが心理的な防壁としては十分に働いてくれる。人間とっては布1枚でも状況に応じて立派な住居になり得るのだ。IMG_3715*.jpg自転車の旅で雨にあい、飛び込んだ軒下や木陰も大きな安堵感を与えてくれる。こんな体験をしていると住まいという物はいたって相対的な存在価値であるのだなと感じてしまう。つまりその時の心の持ちようでいかようにも成る物なのではないだろうか。但し、そこに「熱」が無いと「住まう」「生活する」「生きる」ということは成り立たなくなる。「熱」つまり「エネルギー」の消費が行われて初めて「人間の住まい」になるのであって、「エネルギー」が無ければ単に動物の「巣」と同じである。
現在はまだ「エネルギー」は無尽蔵に金で買える物という風に錯覚されている時代である。それは「エネルギー」が「石油」と「原子力」によって見えないところで供給されているからであろう。供給された結果(二酸化炭素や核廃棄物の排出)も自分の目で見ることが出来ないため、ほとんどの人は今でもまるで気にしないのだろう。IMG_3616*.jpgしかし、人間は見えない物に対して想像力を働かせるという能力を与えられているはずなのだが、どういうわけかその折角与えられた能力を機能させようとはしていないように見える。
人の住まいになるだろう可能性のある「箱」、通常これを「家」と言っているのだが、これを「住まい」にするためには「エネルギー」の消費が絶対必要になる。「エネルギー」の消費が考えられていない「家」は血の通わない単なる「箱」に過ぎないのではないだろうか。
今まで「エネルギー」を消費することは二酸化炭素の発生が当然(これは意識はしていないが)であり、その結果、温暖化といういたって厄介な問題を背負い込むことになった。今の状況の全てがよく見えるわけではないが、いろいろな情報から判断し想像力を働かせると、悠長なことは言っていられない局面に入ってしまった様に思う。つまりもうこれ以上「二酸化炭素」は出してはいけないのではないだろうか。しかし、生きている以上「エネルギー」は消費しなければならないし、となると「二酸化炭素」を出さない「エネルギー」に変えなければならないことになる。誰でもが自由に使える「二酸化炭素を出さないエネルギー」となると「太陽エネルギー」しかないのは、そのくらいは誰でもが想像できるだろ。IMG_3683*.jpg単に今の生活を楽しむ事を続けるのも良いが、「二酸化炭素の排出を無視して良い」という時代を生き、今度は「二酸化炭素を出してはいけない」という価値観の逆転が起こった新しい時代に生きられる事は、明治維新の激動の中に生き、その一部始終を見ることができた以上に画期的な楽しい体験なのではないだろうか。「二酸化炭素を出してはいけない」という新しい生活の工夫を楽しめるのではないだろうか。そんな時代に生きられるとは、そんな変化のプロセスをこの目で見て体験できることであり、本当はすばらしいことではないだろうか。人類が滅びるまでの文明のなかで、こんな激変はそう起こるものではあるまい。このような時代だからこそもっともっと楽しめるはずだし、自分の新しい可能性も探せるのではないだろうか・・・・

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